2012年2月4日土曜日

棒から藪な ・・・猫跨ぎ

  垂れるから涎が垂れるを想像するのか。キリストの山上の垂訓を想像してもらいたいね。長年の教壇生活で皆に教えるというのが習い生になっているのは勿論だが、敢えて講釈を垂れるといったのは、貴方には全体に投網を掛けるというか、取り仕切るというか、難しくいえば帰納的というよりやや演繹的に傾くところがある。それを言ったので、決しておちょくってるなんてことはない。
  宗教を絶滅危惧種というのは如何。個人的な呟きならともかく、現代の世界の諸情勢をちらりと見るだけで、それはまともな判断ではない。思うに何か個人的な嫌なことがあったのではないかい。
  言語系というのは、こうして議論している事が言語系そのもの。いわく言い難いというのも言語系にやや引っ掛かっていて、意識下の、そうダークマターみたいなものか。
緻密に理論化する事柄が言語系そのものだからねえ。実は現代詩を読んでいてそんなことを最近よく考える。現代詩は意識下を探っているところがある。それを言語化すると、一見妙な表現になる。逸徳氏のいう演劇の世界にもそれは身近なものだろう。
宗教はそこへ思いを致さねばならぬ最たるものだろう。
  bush from stick ではなく stick from bush だろうに。語順も勉強の内。待てよ、bush from stickはシュールでいいね。これはこれでいけるか。

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