2012年2月6日月曜日

続・宗教・・・猫跨ぎ

  私も宗教を二分することはないと思う。別な側面だ。信者が増え組織化され巨大化すれば伽藍を建て、様式化、形式化し始めるのは自然な力学の様な気がする。時に世俗的な実権を揮う。古今、洋の東西を問わずでないか。硬直化し時に腐敗するのも組織の常なのだろう。そうなれば内部、外部から改革の動きがあって、変革して再生することもあろうし、あるいは瓦解消滅するか。歴史を見てもしょっちゅう繰り返している。好き嫌いを言ってもはじまらない。そういうものでないか。ここらは人間存在のかなり深いところに根ざしたもののような気がする。 そういうものに嫌気がさして飛び出る天才が時に出る。キリストだって硬直した古い宗教から飛び出した人だろう。親鸞も比叡山に象徴される伽藍仏教を飛び出した。なのに、その末裔がいまの形としてある。
  ところで葬式仏教と馬鹿にするむきもあるが、彼等は決して教義を押しつけない。そのかわり或る枠組みを提供する。その中に、逝った人を思うのもよし、先祖を敬うのもよし、世の平安を希求するもよし、魂の救済を求めるのもよし。何をどう詰め込むかは各人の自由裁量にまかされる。我々凡人はこういう枠組みを必要としているのではないかと最近考えている。

注)写真は自由が丘風景。本文と何の関係もない。

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