2013年12月19日木曜日

猪瀬辞任・・・猫跨ぎ

猪瀬知事が辞任するという。最近はお笑いのネタにされていたから何時まで恥を晒すのかと思っていたが。感想を二、三。

  人徳がないんだな。多少なりともかばう声がほとんど無かった。独断専行の独裁の匂いがするね。人相も良くない。改めて見直すと、いかにも愛嬌がない顔だ。

ホントに知事になりたかったんだね。権力者にすり寄る姿勢は以前から見えていたが、瓢箪から駒で知事になれるらしいとなると、目がくらんだのだろう。
  若干肩を持つと、選挙には実際湯水の如く金が出て行くらしい。1千万円があれよあれよとか。それ程肥大化しているんだね、最近の選挙は。そのための5000万円なのはだれの目から見ても明らかなのに、それを言えば公選法で即、アウトだからだらだらと恥を晒すハメとなった。どうせ駄目なのは目に見えているから、「そうです。選挙資金でした。」といえば、まだ後々目はあったのではないか。もう公人としてはトドメをさされた。いや、お笑いの道があるか。
  特捜が洗っているだろうが、徳田議員、徳州会という存在。ひところの田中角栄を思わせる。掴み金をばらまいていたのだろう。こういう存在がいつの世もいる。彼等から金を貰った政治家はどれだけいることか。翻って、猪瀬も5000万円を返しに行かなければ発覚しなかったのかもね。のこのこ返しに行ったところに政治家になりきれなかったウブさがあるのか。もっとも、特捜は結局は探り当てただろうが。特捜は直接これを手柄にすることはできなかったけれど、他に大物をねらっているのだろう。
今日、PHP新書から猪瀬の「勝ち抜く力」というビジネス書が発売されるという。最後にお笑いのネタを遺した。ブラックユーモア これに過ぎるものなしか。

しかし、道を歩いていて汚物を踏んだような気分だな、全く。

2013年12月17日火曜日

十二月度仁句鑑賞・・・猫跨ぎ

もう、師走の句鑑賞になってしまったなあ。早いものだ。古希もあっという間に通り過ぎたし。

・冬支度豆粒ほどの火種から
火種といえば、煙管に火を継ぐとき、掌に一時的に前の火種を乗せておく芸当を見せられて子供心に感心したことがあったな。さて、冬支度の始まり、切っ掛けを言っているのかな。何となく腰が重そうな。
・小咄の火鉢一つに集めけり
火鉢を囲んでボソボソと世間話をしている風景か。
・革ジャンと鍵ジャラジャラと車椅子
頭はリーゼントか。この或る種の美学にとらわれる青年は何時の時代にも必ずいるね。
車椅子か。どうしたのだろう。
・月冴ゆる欠けた英字のビスケット
最近そのビスケット見掛けないなあ。
・行き着ひた防空壕跡雪しまき
「着きた」の音便で「着いた」だね。拙句の「~連隊跡しぐれ」と同じ気分か。
先年、褌子氏の案内で、館山の戦跡を訪ねたことがあった。首都防御という位置づけか、規模が大きかった。
・新雪の中に小銭を落しけり
何げない日常風景だけれど、なにか切ないね。これが特選。
・テロメアの長さ測りて冬の空
テロメア―染色体の末端にあって、細胞分裂回数、つまり寿命を記録する部分か。さて神は余命幾許と言い給うか。
・太陽に彗星呑まれ賀状書く
彗星の消失が何か日常の宇宙性を感じさせたりするね。先日句会で〈日の裏に彗星消えて日短か〉を出したが、反応はゼロだった。
・自転する星に生れて雪だるま
雪だるまは土やほこりで妙に縞模様を形成する。そう自転しているんだね、だるまも。
・四十ワット突然切れて大晦日
前回も四十ワット句があった。余程身近な、多分トイレではないかと思うが。年の最後の最後に切れたという、幕切れにしては些か出来すぎの暗転ではあるが、まあ気を取り直して行きましょう。

2013年12月16日月曜日

函館通信224・・・低気圧・・・仁兵衛

 NHKらじるらじるでワーグナーを聴きながら猫跨ぎさんの句を読む。また楽しからずや。

 ・東京の秋のスペイン坂下る・・・スペイン坂がどこにあったのかすっかり忘れてしまった。
 ・ぽつぺんのぺこぺこと秋惜しみけり・・・ぽつぺんもなんとなく思い出せない単語になってしまった。
 ・重砲兵第四連隊跡みぞれ・・・高校が青山連隊跡の建物を校舎に使っていた。下士官室が部室になっていて部活を楽しんだ。句は連隊跡の侘しさをみぞれで言い表して妙。佳作。
・秋風や万太郎碑の小さき文字・・・久保田万太郎は下町の粋人。美味しい食べ物を紹介してくれている。
・閉業のつづく木犀匂ふ街・・・閉業と聞くと東京と地方都市の格差を思い知らされる。
・下駄箱の中の釘箱冬構・・・箱の中に箱を置いているのが面白い構図だ。どこの家でもありそうな情景を上手く捉えているね。準特選
・地下室の思はぬ広さ冬に入る・・・地下室を持つほどの大きな家には住んでいないがそれでも中七の面白さは格別だ。季語の選択がこれまたいいね。特選。
・絵屏風を畳んで運ぶだけの役・・・どこの劇団でも黒子的存在は重要だ。いや大掃除で大切な屏風だけを運んで後は知らぬと逃げたのかな。想像が膨らむ。準特選。
・頬杖の真中に秋の虚空かな・・・何か情緒過ぎていて好みに合わなかった。
・幾たびも熊撃つ話今年酒・・・だいぶ酔っ払っているのかくどさが滑稽。佳作。
 
 書いている内に放送は邦楽に変わっている。三味線の音はしっとりとして又心を落ち着かせてくれる。ながら族の楽しみ。12月の十句そっと出す。

・冬支度豆粒ほどの火種から
・小咄の火鉢一つに集めけり
・革ジャンと鍵ジャラジャラと車椅子
・月冴ゆる欠けた英字のビスケット
・行き着ひた防空壕跡雪しまき
・新雪の中に小銭を落しけり
・テロメアの長さ測りて冬の空
・太陽に彗星呑まれ賀状書く
・自転する星に生れて雪だるま
・四十ワット突然切れて大晦日





















存在の哀しみ・・・猫跨ぎ

  根底には存在の不可思議さへのおののきがあり、それが詩歌に顕れるとき、存在の哀しみの表出となる。まあ、そんなところではないか。我ながら良いことをいうなあ。
「手の汚れ」にしても意識は同じだけれど。
今の俳句の大衆化、堕落はもはや度しがたい。店頭で俳句雑誌をパラパラと開いて欲しい。爺婆どもが相も変わらぬワビサビを装ったバカ俳句を量産している。俳句をやってますという形をとりたいだけだ。全く心に響かない。

閑話休題。漆器がああいう真摯な努力に支えられている。しかし塗り椀一つが15000円か。今の商品経済に乗せるとそう言うことになるのか。まあ徐々に身の回りに置いていきたいものだ。そうそう、ひでを氏が朝市の漆器店で奥方に洒落た花器を買っていた。帰って褒められたのではないか。

2013年12月15日日曜日

初冬の読書あれこれ・・・・・  褌子

  堤清二として西武セゾングループを率いながら、作家活動をつづけ秀逸な文学評論も残した辻井喬が亡くなった。
 新聞の訃報記事に接して、書棚にあった辻井喬『私の松本清張論』を読んでみた。
 辻井は「私の好きな清張作品」として
『火の記憶』と『張込み』、そして有名な『点と線』をあげている。私も同感。とくに『火の記憶』は忘れがたい印象を残す短編だった。
 辻井が清張作品に興味を持ちだしたのは映画『砂の器』をみたのがきっかけだという。『砂の器』は昭和35年に原作が発表され二度も映画化され何年か前にはテレビ映画にもなった。
 私も昔、どこかの映画館で、男の子とハンセン病の父とがお遍路の装束に身をつつんで海岸を歩くシーンに涙した記憶があり、松本清張を読み出すきっかけになった。(もっとも原作にはこの海岸の描写はない)
 能登旅行から帰って、三日かけて『砂の器』を再読した。結末もじゅうぶん承知していても、筋の展開がむしょうに面白い。どういうわけか先日、逸徳さん國兼さんと訪ねた加賀の鶴木の町のどんよりとたれこめた空が思い出された。
 刑事が石川県に出張し、妻に輪島塗の帯留めを買う数行もある。作中、五十五、六の痩せた老人が…などと書いてあると昭和35年頃は五十代で老人と書いても読者は違和感がなかったのかと思ったりする。
 犯人らしき男が「カメダのほうは…」と東北弁で話していたというトリスバーの客の証言で秋田の羽後亀田に行った刑事が、じつは島根県の出雲の山奥にズーズー弁をはなす亀嵩という地名があることに気づくところなどは、おもわずうなってしまった。
 仁句の
 ・富士の山中央線から冬にいる
 中央線は地質学の中央構造線とも中央高速道路ともとれるが、『砂の器』を読んだ直後だと、返り血をあびた白いシャツを犯人の恋人が切り刻んで富士のみえる中央本線を走る汽車の窓から紙吹雪のように捨てるくだりがあって、すぐ仁句の印象と結合した。
  猫跨ぎ句の
・千枚田を転がり落ちる鎌鼬   は愉快。笑ってしまった。
 カマイタチというのは、原因不明の切り傷で佐渡でもよくあったと親が昔いっていた。
 越後七不思議ともいわれる鎌鼬があの白米の千枚田をころがりおちるというのが面白い発想。カマイタチというイタチの種があるわけではない。宮部みゆきに『かまいたち』という佳作がある。
・寒菊や若き塗師の手の汚れ
 逸徳さんはいい教え子をもったものだね。春の東京麻布の展示会では再会したいものだ。

寒い・・・逸徳

寒くなった。静岡程度の寒さでさわいでいたら仁ちゃんに怒られそうだな。 しかし、年をかんじるのです。からっかぜが、関節にしみる。能登の旅ではお世話になりました。 あそこはまるで文化的な独立王国というか、不思議な世界だった。で、お師匠の作品拝見。独断と偏見でこころに残ったものだけあげてみた。
・ぽつぺんのぺこぺこと秋惜しみけり
・重砲兵第四連隊跡みぞれ
・閉業のつづく木犀匂ふ街
・地下室の思はぬ広さ冬に入る
・絵屏風を畳んで運ぶだけの役
・頬杖の真中に秋の虚空かな
 ・寒菊や若き塗師の手の汚れ
こうしてみると、なんとなく自分の心境がどこか反映している。一番すっきりとしたのが「頬杖の真中に秋の虚空かな」で、「地下室の思はぬ広さ冬に入る」とどっちかまよったが、特選と準特選ということで。 で、共通しているのは、最後の句をのぞいて、「空虚 なにもない からっぽ あわれ」という感覚である。こういうことに共感してしまうのは、これどういうことかなあ。もしかしたら、人生最終段階の先を無意識に考えているのかもしれない。 元気で、ポジティブに未来を語る年寄になりたいと思うのだが。

 最後の句。 あの、H嬢のように、若い人が自分の生き方をまっすぐにとらえて、前向きに生きようとしているのをみると、一種の欠落感、あるいはやり残し感を感じてしまうことがある。 ああ、この子にくらべておいらはどうだったんだ。やり残したことはないのか。過去を振り返ってもしょうがないが、人生の曲がり角のひとつひとつでやった自分の選択は正しかったか、あれでよかったのか。その選択の集大成として現在の自分がいる。そのことは重々わかっている。だが、ひとつ選択をかえていたらまったく別の物語が展開したのかもしれない。なんてことが頭にうかび、Hみたいのにあうと思わずがんばれよと、きこえないようにつぶやく。

まあみなさま。そういうわけで、H嬢東京後援会(事務局長は若い女の子が好きな褌子氏にぜひ)にぜひご加入いただきたく、もう5年くらいしてHが独立したら、お椀のひとつも買ってやってください。ふしてお願い申し上げます。

2013年12月12日木曜日

季節外れの投句・・・猫跨ぎ

今年の流行語大賞が四個同時受賞とか。世の中が動き出したという証左が何となくこんなところにも現れるのかな。
しかし世の中どこへ向かっているのかね。
��1月投句が遅れて、やや季節外れとなったけれどまあいいか。

・東京の秋のスペイン坂下る
・ぽつぺんのぺこぺこと秋惜しみけり
・重砲兵第四連隊跡みぞれ
・秋風や万太郎碑の小さき文字
・閉業のつづく木犀匂ふ街
・下駄箱の中の釘箱冬構
・地下室の思はぬ広さ冬に入る
・絵屏風を畳んで運ぶだけの役
・頬杖の真中に秋の虚空かな
・幾たびも熊撃つ話今年酒

2013年12月6日金曜日

能登五句・・・猫跨ぎ

取り敢えず能登旅行の五句

・寒菊や若き塗師の手の汚れ
・角海家(かどみけ)の鹿皮の半纏冬ざるる
・千枚田を転がり落ちる鎌鼬
・合鹿椀と須恵器の並ぶ小春かな
・怒濤噛む奇岩より冬始まりぬ

2013年12月4日水曜日

世の中いろいろ・・・猫跨ぎ

  NHKスペシャル「宇宙生中継 彗星爆発 太陽系の謎」を見た。タモリを司会者に、国際宇宙ステーションを結んでアイソン彗星大接近を伝えるNHK渾身の番組の計画だったようだが、あれあれ肝心のアイソン彗星が消えてしまった。空振り三振の筈が、何とかそれなりに仕上げていて結構面白かった。彗星の起源と惑星系の生成が絡んでいる最近の天文学は、見てきたような話でホントかいなと思うが、実にダイナミックで面白い。
  堤清二(辻井喬)氏が亡くなった。三~四年ほど前、成田市の書道会館で、日本近代文学館主宰の展示会&講演会があって、同氏が講演した。そう褌子氏と偶然同席した。東大学生時代の小説家たちとの交流話が面白かった。同じ頃ラジオかなんかで同氏のインタビューを聞いたが、異母弟の堤義明氏のことについて触れ、たまに会っても、彼とは全くディスカッションにならないんだと言っていたのが面白かった。成る程、水と油だろうな。実業家と詩人・小説家の二足のわらじを履き、それぞれに業績を上げた稀有な人物だった。  
  猪瀬知事が窮地に立たされている。石原前知事が、何故徳田議員のところへ行ったのかと訝っている。彼は石原の支持母体を後継者として引き継ぎ、選挙資金も潤沢だった筈だという。ノンフィクション作家として私も一目置いていたが、何だかこの人物の暗部を覗いた気がするね。 無利子無担保の巨額の現金授受の話が、先々露見しないとでも思ったのだろうか。彼ほどの犀利な人物にして、目がくらんだとしか言い様がない。オリンピック招致で得意満面から今、奈落へ転がり落ちる淵にいる。このどんでん返しの主人公がまさか自分とは。天を仰いでいるに違いない。この先ノンフィクションで書いたら大したものだ。

台北の紹興酒は美味い・・・褌子

 近所の82才のおじいさん夫婦の相談事で、いま台北のホテルにいる。おじいさんと同居している独身の弟が脳梗塞で倒れ動けなくなり意思表示もできない。その弟が年中、台湾に出かけていたというので、私が弟の部屋にあったたくさんの名刺に電話をかけまくって台湾の魯慶志さんという事業家に雇われていたことをつきとめたのである。おじいさんが高血圧なので懇願されて同伴、台北の魯さんの会社を訪ねたのが9月。今回は台湾南部の高雄の実家からでてきた魯さんと三人で台北のホテルに同宿している。
 三日間、福華大飯店ホテルで「陳年紹興酒」を飲みながら老人ふたりの話に耳をかたむけた。
 魯さんは昭和7年生まれで日本語が話せる。福建省から三百年以上前に高雄に移り住んで八代目。客家ではない。家系図があって先祖代々の商人。魯さんは20才で結婚し、ひ孫が五人。一番うえの曾孫が中学3年だが「ひいじいちゃんのような立派な商売人になりたい」といっているそうだ。そうすると11代目だとうれしそう。若い頃からアメリカ、日本などで夢中で働いた。いまは北欧の機械メーカーの台湾代理店だが81才で若い社長に譲り高雄に引退したばかり。魯家は商人の家系だが子供が親の商売を継がない。若いうちに失敗を体験し「失敗は成功のもと」にするんだ、という。悪いことはしない、困っている人を助ける、いつも神様に感謝して生きる、この三つを守れば必ず商売は成功し幸せになります、とのこと。
 同年の奥さんは熱心な仏教徒で、肉も魚も食べない。毎朝1時間もお経をあげている。魯さんの商売のことは全くわからず、7人の子供を育てることに専念してくれた実に優しい女なんだと女房自慢。奥さんは認知症がすすみ、今話したばかりのことも忘れるんだという。よくホテルから携帯電話で高雄の奥さんに電話をしている。同じ話を何度も何度も。
 八〇過ぎのお年寄りふたりとも高潔な人柄で学ぶものが多々ある。台北に来て三日間、閉口するのは、ふたりとも夜7時過ぎには寝て、朝の2時ぐらいから交互に起きだし、しょっちゅうトイレに行ったり薬を飲んだり、咳をしてはお茶を飲んだり、日本からおみやげに持参した血圧計で血圧はかったり。昼食後に2、3時間くらい昼寝するのも日台のお年寄りで共通。
・・・おれもあと10年生きると多分こうなるのだなあ。食事もゆっくりゆっくり。銀行への往復もゆっくりゆっくり歩く。
 台北はいまの時期、暑からず寒からず。昨日はタクシーで故宮博物館へ行ったら中国から観光客が押し掛けているので入館制限があるといわれてあきらめてホテルに帰って三人でまた昼寝。タクシーの中は日本のカラオケばかりで賑やかだ。台湾人は中国のことを「大陸」というが人は中国人という。台湾は中華民国だが自分のことを台湾人といっている。国父孫文の辛亥革命から102年経っているので銀行の為替レートの電光板には「民国102年12月3日」とあった。魯さんは台湾出身(本省人)ではじめて首相になった李登輝をいちばん尊敬しているという。ご先祖様は大陸人だが、魯さんは身も心も台湾人なのである。
 眼光はするどいが笑顔がすばらしい愛すべき台湾人と知り合いになった。銀行との協議で、次回は3月に三泊四日で来ることになった。
 いずれ、高雄の魯さん宅を訪ね、玉山=新高山にも行ってみたいものだ。

2013年12月3日火曜日

飛行機の旅・・・猫跨ぎ

  今回は羽田―能登と飛行機で往復したけど、早割、特割なんかを使えば随分安く旅行できる。LCCなんかの普及もあって旅行は様変わりになった。とはいうものの、気付いたことを二つほど。
  家を出るときに何げなく、アーミーナイフをリュックに入れたのが、搭乗の保安検査であっけなく引っ掛かった。検査機の精度は大したものだ。PETボトルと違ってこれは機内持ち込みは駄目で、預かりとなって向こうの空港で渡される。
  それから帰りの便が随分揺れた。当日、不連続線が列島を東へ横断中で、気流の具合が不安定だった。離陸間もなく、左右に大揺れし、思わず前の座席に掴まってしまった。女性の悲鳴があちこちから上がったが、乗務員はさすがに「危険はない」とことさらに落ちついた声で機内放送。しかしこの日彼女らは機長の指示とかで一度も座席を立たず、機内サービスは無しだった。一瞬、もしやの気持になったね。こういう状態の時は、乗客は全く為すすべはない。これは飛行機の旅の避けられないリスクだなあ。

2013年12月2日月曜日

十一月仁句鑑賞・・・猫跨ぎ

  北海道は完璧に冬ね。今年はJR北海道の事故続きが残念だった。みな旧知の体質がもろに露見したみたいなところがあるなあ。本質的に赤字構造で今後とも独立採算が可能とは思えない。これからどうなって行くんだろう。

・富士の山中央線から冬にいる
中央線からの遠望としての富士山。それが綺麗に冠雪しているのが見えた。沿線が晩秋とすれば、列島に冬が到来しているという実感か。
・アイロンのスチーム止まり時雨かな
アイロンのスチーム音が止まって、外の時雨の音が聞こえたという聴覚の繋がりを言っている。ちょっと微妙なところ。準特選。
・文化の日楠のある小学校
楠は常緑広葉樹。葉を採って、折りまげるとあの独特の香りが匂う。何というか昔の木造校舎が連想されるね。
・小春空インク滲ませ文を書く
周りから万年筆が本当に見られなくなった。贈答記念品とかになってしまったね。でも、神保町の金ペン堂はまだ健在。いつまで続くか。
・暮れ早し学童疎開の兄戻る
学童疎開は我々の年代では直接経験することは無かったが、作者にとって、終戦後かなり経ってからこういう事実があったのだろうか。
・四十ワット突然切れて冬隣
四十ワットはトイレの電球かな。急な闇に、冬到来を感じたということ。我が家の階段の電球取り替えがいつも苦労する。今度はLEDランプにするつもりだけれど。
・日短シャンソン唄ひはじめてる
日の短さとシャンソンの唄と取り合わせはちょっと実感がないけれど、どうかな。
・ジオラマに無口集まり小春かな
ジオラマ―博物館の昔の城下町俯瞰とか、身近には鉄道模型の背景としてのそれ。皆、じっと見入って無口になっている。確かに。
・冬めきて月命日の海の色
まあ、深沈とした心象風景が見える。特選。
・初雪やあらくさ原で嘶きて
荒れ野の馬の嘶きだけれど、初雪とくると、新春の溌溂とした風景となる。準特選。

2013年12月1日日曜日

能登そのあと・・・猫跨ぎ

  北前船といえば加賀、能登、越中、佐渡なんかを連想するが、日本海を大廻りする交易路という捉え方をすると、結局は大阪の大商人が総合プロデュースしていた事業なんだろうな。黒島角海家はいわば中継地の中小商社みたいなものか。能登の船乗りを束ねて、春に大坂へ送り出していたということだろう。坂本冬美の「能登はいらんかいね」を思い出す。何人かに聞いたが、結局はかばかしい返答はなかったが、まあ、有り体に言って、能登は労働力を提供する役割であったのだろう。
  三日目は小倉さんとタクシーの五時間コースで、松本清張のヤセの断崖、義経の舟かくし、増穂浦の「世界一長いベンチ」(主旨不明)、別名能見二見の機具岩(はたごいわ)、能登金剛名勝のシンボルの巖門、などの有名どころを周り、創建700年の妙成寺(日蓮宗)の五重塔、石川県最大という気多大社(けたたいしゃ)を見た。この大社には「入らずの森」が奥にあって、神韻たる雰囲気があり神社の古い形式を感じさせる。この地点より直ぐ南に、波打ち際を車で走るという千里浜なぎさドライブウェイがあるが、寄らず反転し能登道路で七尾に向かい、能登島大橋を渡って能登島へ行った。まあ、一応上陸したということで記録しておく。ツインブリッジで直ぐに戻り、途中、「ボラ待ち櫓」なるけったいな木組みをみつつ、JR終点穴水駅を横目に通過して能登空港へ到着した。
  断崖の連なる景観は見もので、ここを見ずして能登に来たというなかれ、画竜点睛を欠くと言っておこう(笑)。しかし突き出た能登半島を、半島たらしめるこの堅い岩盤は、いかなる地質構造によるものか。
��つづく)

2013年11月30日土曜日

真贋の森   ・・・褌子

   真贋の森などと大げさなタイトルだが、「南惣美術館」のことが帰ってからも頭から離れない。パンフをよむと「南惣」は奥能登大野村の天領庄屋南家の屋号。左大臣平時忠が能登に流された文治元年にはすでに奥能登の豪族として栄えていたという二五代を数える名家だという。
  むかしは能登集古館南惣といったらしいが昭和46年に米倉を改装した自称美術館には、野々村仁清や本阿弥光悦、柿右衞門、尾形乾山などの焼き物がごろごろ並んでいる。絵は俵屋宗達や長谷川等伯、丸山応挙、狩野探幽、酒井抱一、橋本雅邦など。雪舟や蕪村の書画もある。書蹟は千利休、小堀遠州、沢庵和尚、芭蕉、加賀の千代女とつづき、はては後鳥羽上皇や後花園天皇の「後宸筆」もある。何でも鑑定団の中島先生絶賛の古九谷の名品もあるが、先生がこの古九谷いがいにはひと言もふれてないのが意味深。
  とにかく国宝、重文級のものが、床がデコボコした締まりのない建物の薄いガラスの向こうにずいぶん無造作に何の脈略もなく並んでいて、しまいには陸軍兵士が宮城遙拝している戦争画まで陳列してある奇妙な私設美術館。登録有形文化財とパンフには記されてあったが、これが全部、本物だとすると守衛が目を光らせている国立博物館あたりに鎮座しているはずだが。泥棒や火事の心配もありそうだが、ひとのよさそうなおばさんひとりで店番していた。おばさんから柚羊羹とお茶をごちそうになり銀杏を買って館の外にでたら、屋敷の庭には柊や馬酔木の巨木があり、山のように大きなドウダンツツジの紅葉が美しい。やはり能登きっての名家なのであろう。
   松本清張の中篇傑作『真贋の森』は浦上玉堂の偽物づくりで大もうけをたくらむ落ちぶれた美術史家が貧乏画家、骨董屋と組むはなしで、この世界らしい迫力あるリアリティがあって面白い。骨董集めなどに夢中になっている金持ちが読むと参考になるかもしれない。
  いぜん、割烹経営者の相談にのったことがある。バブルのころ大もうけしたので銀座のデパートでフランス=バルビゾン派の画家の風景画を800万円でぽんと買った。デパートの美術部長が車で自宅まで届けてくれたそうだ。居間で10年くらい眺めていたが、何となく贋作でないかと疑念が生じて鑑定してほしいというのである。
  額の裏にはパリの画商の鑑定書がついているがフランス語なのでさっぱりわからない。   大事にお預かりしてある洋画家にみてもらった。老画伯はしきりに首をかしげていたがやがて芸大同期のある美術館の館長に電話をかけた。電話の向こうでミレーなどバルビゾン派の研究家でもある館長が画家の名前をなんども聞き質している。その結果、「贋作ではありませんよ。有名でない画家の作品を模造する意味がまったくありませんからねぇ」
  割烹の御主人には「まちがいなく本物だそうです。大事にされていつまでも楽しんでください…」と何でも鑑定団の中島先生みたいなこと言って、堅牢なケース入りの絵を丁重にお返しした。

2013年11月29日金曜日

能登旅行記その1  ・・・褌子

   11月23日、逸徳さんのウルシ資料を読んでいるうちにANA機は能登空港へ下降をはじめた。右翼の下に白銀の立山連峰がみえる。(立山の新雪雪崩で七人死亡したことを輪島のホテルで知った) 富山湾は雲がおおっていて海面はなにもみえない。裏日本なのである。
  空港には小林さんが予約してくれたジャンボタクシー下道運転手が迎えにでている。輪島朝市を見学して輪島漆器資料館と石川県輪島漆芸美術館を訪ねたあと、赤木工房へと向かう。漆工房は冬季2㍍も雪が積もる山の中。輪島塗の底知れぬ奥深さを語る工房の親方赤木明登塗師の話にうたれた。逸徳さんの高校の教え子で修業中のHさんと会う。
  夜はノドグロ屋で高級魚ノドグロを食べた。
  翌24日、朝からH嬢も同乗し7人で能登半島西岸を北上。「白米の千枚田」は田植え後や刈り入れ前だったらどんなにきれいだろうなあと思った。海辺すれすれの珍しい千枚田。むかし、女房といった北ベトナムの千枚田は中国雲南省まで延々数十キロ、耕して天に登るで水牛に乗る子供が豆粒ほどにみえた。簑のした耕し残る田が二枚。
  南惣美術館、時國家、上時國家、窓岩、垂水の滝をみて、(有)新海塩産業で奥能登珠洲天然塩を買う。
  菊や山茶花が咲くのどかな坂道を上って白亜の小さな灯台のある半島最北端の禄剛崎へ。佐渡島が北東東にうっすらと見えたような気がした。ここは日本の中心だという碑がたっている。岬に針をたててコンパスをまわすと弧状列島北端の稚内と九州南端が同じ距離だという意味らしい。(日本列島全体の重心は岐阜の郡上八幡とのこと)  蜩が鳴く能登のはずれのどんづまり、の誓子の句碑があった。上五が字余りだと思った。挨拶句だからと猫跨ぎさんが解説してくれた。
  禄剛崎ふもとでカツカレー昼食。黒瓦、黒板塀のランプの宿をみて半島東岸を南下する。  珠洲市上戸町寺社の「倒さ杉」は、東大寺南大門の運慶快慶の仁王みたいに筋骨隆々の太い枝をくねらせて地面まで下げて更に立ち上がっているのだ。逆杉(さかさすぎ)は栃木の那須など方々にあるが、この「倒さ杉」の偉容は別格総本山官弊大社超弩級で、しかも全く有名でないのが実にいい。特別サービスで立ち寄ってくれた下道さんに感謝したい。
  珠洲という風雅な地名に感じ入っているのだが須須神社という古社に由来しているのであろう。見附島は2007年能登半島地震で島の社が崩れ落ちたというが、まことに軍艦島の名前通りの島。
  車は半島を西岸へと横断しふたたび輪島市へ。前の座席では逸徳さんと教え子の話がはずんでいる。彼女は赤木親方にきたえられ、やさしい逸徳先生に見守られ、きっと立派な輪島塗の塗師(ぬし)になるのではなかろうか。
  総持寺祖院をみてから門前町の一角の能登天領黒島の町並みへ。黒島の角海家は北前船の廻船問屋住宅。黒島は北前船の船頭や水主の住まいの町だったという。冬は日本海は荒れて北前船は航行できない。冬期間の船員たちはこの黒島に家族と住み、春になると遠い大阪にでて出港準備をするのである。佐渡小木、酒田、深浦、三国、福浦、境湊と北前船の寄港地をいろいろ訪ねてきたが、このような船員の出稼ぎの基地の町があったとは知らなかった。
  夕闇迫る道を二泊目の輪島へ戻る。夜は小蔵ひでをさんの本邦初公開の秘話で盛り上がり実に美味しく楽しい酒であった。そういえば赤木工房では親方にそれぞれ自己紹介をしたが冷間鍛造を説明した小蔵ひでを社長のはなしがいちばんわかりやすく秀逸であった。
  翌朝、いちおう解散し小林さんは京の紅葉見物に向かった。逸徳さんと国兼さんと三人でバスで金沢へ。西金沢から石川線で鶴木(つるぎ)に着くと獅子吼荘のおやじさんが迎えにでている。白山比咩神社(しらやまひめ)へ立ち寄る。霊峰白山の麓の加賀一宮である。参道脇の紅葉がすばらしい。
  東アジア全体の獅子頭を陳列する珍しい博物館をみて夕食。どぶろくをたっぷり飲む。
逸徳さんがしきりに、どぶろく製造法をきいている。
  白山は、麓に近過ぎて鶴木からは山容をみることができないのが残念。加賀、越前、飛騨の三国に囲まれて白山はあるが、山域ほとんどが加賀らしい。山へ登る表道は越前の白山神社から。越前人は白山が加賀にあることが悔しくてしょうがないと司馬遼太郎の街道を行くシリーズ「越前の諸道」にある。この巻は白山信仰については詳しいが、能登や加賀の諸道のシリーズはない。
  翌朝、雨のなかを歩いて鶴木駅へ。途中、墓場のそばを通る。数百基の墓石がみな「南無阿弥陀仏」と掘ってあり、台座に小さく○○家の墓とある。まっこと浄土真宗のくになのである。
  また、ひなびたローカル線で金沢へともどる。小松空港へ向かう逸徳さんと別れて米原へ急行白山に乗る。途中の福井県の敦賀、武生(たけふ)などは好きな地名だ。朝倉を滅ぼした柴田勝家がいた越前北の荘はいまの福井市のこと。国兼さんのご先祖は越前福井だという。いま越前のくにが原発銀座になっているのが野暮で残念。こんどの旅行で越前カニを食えなかったのもこれまた残念。
  米原で新幹線に乗るとここからは表日本。空気も空の色も一変する。国兼さんとお酒を飲みながらみた富士山が実にきれいだった。真っ白に冠雪してこそ富士だ。♪越中じゃあ立山、加賀は白山、駿河の富士山三国一よ~と昔、富山出身の橋本君が歌っていた。
  いい旅だった。が、新幹線のテロップが「秘密保護法、衆院で強行採決」と流しているのをみて酔いもさめてしまった。日本は確実に戦争する暗い国へと向かっている。
  

函館通信223・・・物忘れ・・・仁兵衛

 物忘れがひどい!パーキンソン病の進行か。いや単に加齢現象か。十一月の俳句出します。

・富士の山中央線から冬にいる
・アイロンのスチーム止まり時雨かな
・文化の日楠のある小学校
・小春空インク滲ませ文を書く
・暮れ早し学童疎開の兄戻る
・四十ワット突然切れて冬隣
・日短シャンソン唄ひはじめてる
・ジオラマに無口集まり小春かな
・冬めきて月命日の海の色
・初雪やあらくさ原で嘶きて

2013年11月20日水曜日

ケネディ大使・・・猫跨ぎ

  ケネディが暗殺されてからもう50年か。あの日の朝をよく覚えている。日米間のテレビ通信回線が開通して最初の実況放送がこの事件報道だった。 恵迪寮にテレビがあったのかどうかはっきりしないが、何だか騒がしかった。あの後の民青の諸君の反応が印象的で今でも覚えている。共通して「それがどうした」と、何か知らんが妙に平気を装っていたふうに見える。「もっと大事なことがあるだろう」ということなのだろう。皆揃ってそういう反応が印象的だった。
  それから葬式に池田首相が出かけたが、向こうへ着いて、出迎えの米側高官に笑顔で応じていて「不謹慎でないか」と問題になった。この感覚、何となく判るね。曖昧な表情の時にふと出る笑顔―日本人特有だ。
早いものだね、人生の過半が経ったわけだ。あの時の小さい少女が大使か。年をとった訳だなあ。

「パッチギ」は封切りの時見た。沢尻エリカという美少女にはびっくり。すごく印象的だった。あのまま育ってくれれば良いものを、何やら異形の姿になっちゃったな。

パッチギ!    褌子

   キリストの冬瓜に似るルオー展  は特選級だ。キリストばかりでなく、ルオーの描く人物達はみんなトウガンみたいな福福しい顔をしている。
   近所の映画好きを集めて映画会をやった。第一回目は制作は十年前の映画だが、井筒和幸監督『パッチギ!』
   舞台は1968年の京都。朝鮮高校の生徒と日本人高校生との血みどろのケンカ、友情、恋。
   1968年といえば、中国では文革が荒れ狂い、日本では全共闘がゲバ棒で革命ゴッコやっていたころ。昭和43年だから私は新潟の山の中の化学工場で昼休みにテレビで東大紛争の実況中継をのんびりみていたことを思い出す。
  『パッチギ!』は朝鮮・韓国と日本人の古くて新しい問題を涙と笑いの究極の青春映画のなかに投影している。初めて観た映画だが、日本と朝鮮の長い歴史を思ってなぜか涙がでてしまった。
  中国残留孤児たちの苦難をきいたばかりのせいか、年のせいか涙もろくなったなあ。パッチギとは突き破るという朝鮮語。最近、年老いてゆく中国残留日本人孤児の聞き書きを中国人留学生の通訳協力を交えてはじめた。オーラルヒストリーというか、何か記録として残せないかと考えている。彼らは正確な誕生日を覚えていないが我々と同じ年頃ではないか。壊滅した満蒙開拓団の遺児たち。祖国日本に生きて帰り着きながら、中国語しか話せない「孤児」も多い。日本と中国の近代史に翻弄された人生。
  ♪悲しくて悲しくてとてもやりきれない
  この思いを誰かに告げようか~♪
  

2013年11月17日日曜日

サラエボ・・・猫跨ぎ

  異民族への憎しみは根深いものがあってちょっと絶望的になることがある。
ユーゴスラビアの動乱は記憶に新しい。サラエボという綺麗な町があった。ボスニアの中心都市。この町は徹底的に破壊された。破壊は各地に広がった。原因は?ユーゴが分解し、クロアチア人とボスニア人とセルビア人がそれぞれの勢力を少しでも広げようと無秩序な攻撃をしあったわけだ。ユーゴスラビアの時代には平穏に暮らしていた人々が、突然憎み合う。竹馬の友が殺し合う。民族浄化という名の下に、破壊と殺戮が繰り返される。あいつらがもう帰って来れないようにと住居を破壊する。厖大なレイプ事件。今は嘘のように静まりかえっているが、もうあんな事はないでしょうねと外国人が安直に聞くと、みな否定するという。被害者であるが加害者でもあった自分たちを信用できないということもあるのではないか。繰り返すが、何故だ?ルポを読み、学者の説明をいくら聞いてもさっぱり説得されない。不気味な暗黒部分がある。人間には。

ルオー展やっているね。句会で 〈キリストの冬瓜に似るルオー展〉なる一句を出したが、余り評判は良くなかった。

ロボット兵器とキリスト教徒・・・  褌子

    先日のテレビでロボット兵器が次々と開発され、実用段階になっている映像をみて暗い気持ちになった。
  アフガンでの米軍の無人機攻撃ではすでに大勢の犠牲者がでているという。
  千葉市立美術館に、ルオー展(ジョルジュ・ルオー1871~1958)を見に行った。太い絵筆による宝石のような色彩の絵の数々に暖かい気持ちになった。
  底辺の貧しい人々をたくさん描いている。そして瞑想するイエス・キリストの何ともいえないほどやさしい慈愛にみちた顔を何枚も。「祈りの画家ルオー」と言われる所以。
 ヨーロッパ人とキリスト教・・・。そしてつい考えてしまう。
 正義と慈愛、隣人愛と贖罪を説くキリスト教世界に生きるヨーロッパ人の、ホロコーストにまで至るあの苛烈無比の反ユダヤ感情はどこからきたのか。
 以下は内田樹先生の著作からの引用であるが非常にわかりやすかった。
―――――
 反ユダヤ的な感情はヨーロッパ世界においてはごく自然なものでした。それはキリスト教がユダヤ教から「分派」した宗教として登場してきたから当然のことです。どのような宗派も政治党派も、「分派するだけの必然性があった」ことを主張するためには、彼らがもともと属していた「母胎」が腐りきっていて、使い物にならないものであることを主張しなければなりません。(中略)
 やがて中世に至って、ヨーロッパ全土がキリスト教化された結果、反ユダヤ感情はヨーロッパ人の宗教感情の「基準」になりました。そして何かキリスト教世界の結束を固める必要が出てくるごとに、(ペストなどの疫病や戦争のたびに)「いけにえ」としてユダヤ人を組織的に迫害することが行われたのでした。
 過去2000年にわたるユダヤ人迫害の歴史はほんとうに紹介するのが気の毒になるほどです。ただ、そういう反ユダヤ的な行動はきわめて感情的なもので、「思想」というほど体系的なもので基礎づけられていたわけではありません。どうしてこれほどユダヤ人が憎いのか、反ユダヤ的行動をしている当人も説明できなかった。(ここんところは在日朝鮮人に対するヘイトスピーチを想起する)
 政治思想としての近代反ユダヤ主義はその憎しみを「説明」する理論です。19世紀の末に登場しました。.政治思想として反ユダヤ主義が定式化したということは、これから先、人々は「憎しみ」の支援抜きに、知性的に、事務的に、効率的にユダヤ人を殺すことが可能になったということを意味します。その近代反ユダヤ主義の最大の「成果」がナチスによる「ホロコースト」です。
 (アメリカ軍は、イスラム教徒でない西欧人に対しても無人機やロボット兵器をつかうことができるのだろうか? 原爆投下も)

鉄人28号・・・猫跨ぎ

  今日の東京新聞のコラムに、アトムと鉄人28号の比較をしていた。兵器として考えたとき、アメリカ国防省はどちらを選ぶか。いうまでもなく鉄人の方である。アトムは戦いに際して時にためらい思い悩む。鉄人は悩まない。正太郎少年の「リモコン」に命じられたまま、敵を攻撃する。
  米軍がパキスタンでタリバンを攻撃している無人攻撃機のことを言っている。米軍は遠く離れた基地のなかでモニターを見ながら、ミサイルを発射する。誤射はあろうが、誤差の内、こっちは全く安全だ。ゲーム感覚でやっているのかも知れない。

それにつけても思い出すのは映画「シベールの日曜日」の元兵士。シベールと心を通わせる、ちょっと異常な男だ。フランスのベトナム戦争で空軍パイロットだった彼は、急降下する前方に恐怖に顔を引きつらせた母子を見つつ機関銃を撃った。戦後それがトラウマになって精神に異常を来してしまう。それが原因だった。何だか遠いお伽の国の話に思えてくる。
  中国が無人攻撃機を開発中という。極東でアメリカに張り合っていると思っていたが、どうも真反対の新疆のイスラム教徒との戦いを念頭に置いているのではないかと思えたりする。
IT技術があらゆる分野に浸透していく真っ只中にいるが、戦争もそうで、無感動、無慈悲のバーチャルの世界になっていくのではないか。

「シベールの日曜日」。乾君が五本さんと一緒に見に行って、その後、大通り公園のベンチで星空を眺めながら語り合ったという、あの映画だ。

2013年11月13日水曜日

♪宇宙の果てはこの目の前に~♪・・・褌子

  宇宙は137億年前に誕生したというのが現在のビックバン宇宙論の到達点です。
時間も空間もそのときに誕生したとされます。よく宇宙が誕生する前はどうなっていたのかという質問が出されますが、時間自体が宇宙誕生とともに始まったのですから、それより前の時間というものは存在しません。
 次回は宇宙の果てはどうなっているのか。宇宙の果てのその向こうはどうなっているかについて説明してみたいと思います。
     めぐりくる時空の重さ去年今年  佐藤一城   (FBへの投稿から転載)

2013年11月7日木曜日

かぶれた話・・・猫跨ぎ

  ウルシといえば、かぶれる話を思い出す。その昔、秋になると、北海道の子供達は、遠足を兼ねて暖房用のたきぎ取りに里山に送り込まれた。正確にいうと、五、六年生の高学年の児童で、低学年だった我々は行かなかったが。で、行った子供達の何人かが必ずウルシにかぶれた。顔中に真っ白に薬を塗られて、翌日学校に来ていたなあ。今昔の感がある。今じゃ、PTAが怒鳴り込んで来るのだろうが。
ウルシ職人も敏感な人は最初はかぶれるらしい。耐性をつける為に、ちょっと飲ませて強制的にかぶれさせるって聞いたことがあるが。孕石さんはどうだったのかな。はらみいしさん?珍しい名前だね。辞書にもある。こもちいし、ともいう―石の中にまた小さな石を持っているもの、とか。謂われがありそうだね。
  ウルシ製品の起源は、世界最古が函館にあるらしい。垣ノ島B遺跡で、縄文前期9000年前に遡る漆製品が発見されたとか。それまでは中国浙江省河姆渡(かぼと)遺跡で出土した7000~8000年前のものが最古と言われていた。それから、これも北海道の恵庭のカリンバ遺跡から、真っ赤な漆塗りの櫛が出土している。これは3000年前とか。日用品を越えて装飾品にまでだ。恐ろしく古い。まさに日本列島固有の文化だ。

漆=Urushi・・・    褌子

   こんどの能登旅行では逸徳さんのおかげで漆塗りの工房を見学できるというので楽しみである。漆の語源は「潤し、麗し」だという。漆器をJapan(陶器はChina)というくらい、漆と日本民族とのつきあいは古い。桑、茶、楮など三草四木のひとつ。漆器は日本では6500年前の縄文時代、福井県鳥浜遺跡にて出土されたのが現存するものでは一番古いらしい。やはり日本海側だ。
  奈良時代の傑作、興福寺の阿修羅像は脱乾漆という、粘土で成形された原形に麻布を張り重ね、木粉と漆などを練り合わせた下地漆で細部を整え、さらに表面を漆で仕上げられている。つまり粘土と漆と布だけで造られている、あの阿修羅の青年の瞳がたまらなくいいねえ。
 ウルシオールについては国兼博士から詳しい説明があると思うので省略する。
 写真は漆とは何の関係もないが、ノササゲ。赤みを帯びた暗紫色の莢がすばらしい。




  
  新米の粥透きとおる漆椀
              廣川昂臣

2013年11月5日火曜日

能登いらんけ・・・猫跨ぎ

  水森かおりは御当地ソング歌手で有名だが、なにか便利屋みたいな(失礼)ところがあって、他の歌手の持ち歌も良く歌うという印象。大ヒットというのがない歌手だね。両肩丸出しのドレスをいつも着ている。
  「能登はいらんかいね」ってどんな意味だろう、と思ってネットを見てみたら色々書いてある。まず能登では「能登いらんけ」が普通で、「いらんかいね」とは言わないとか。能登は貧しく、加賀とか越中に行っては「能登の人間だけど何か仕事はないか、何でもするよ」と要するに「能登の人間を買ってくれ」という意味とか。しかし本当かいな。惨めったらしくて嫌な話だ。向こうの人に聞くと、失笑され、逆に「能登はいいところだ」という意味とか。よく判らん。向こうで実際に聞いてみよう。

2013年11月4日月曜日

身捨つるほどの・・・・・褌子

   いよいよ二週間ちょっと後に迫ってきましたね。
  行きつけの「ほのか」のママさんは大の水森かおりファン。ご当地ソングのナンバーワン歌手だそうだ。「安芸の宮島」「熊野古道」「函館山」「鳥取砂丘」「ひとり薩摩路」「釧路湿原」「明石海峡」「三陸海岸」「五能線一人旅」とか店内中にポスターを貼ってある。(佐渡流人行がないのがさみしい)
 特に水森かおりは『輪島朝市』がいいのだそうだ。こんど輪島に行ってくるといったら、これ練習して宴会でお友達に聴かせてあげなさい!… と『輪島朝市』のカセットテープを貸してくれた。早速きいてみる。(坂本冬美ファンの柳生さんが大好き『能登はいらんかいね~』も捨てがたいが、まずはかおりちゃんから。逸徳さん「五能線一人旅」も練習してゆけばよかったねえ)

♫愛をなくした 心のように
空は重たい 鉛色
輪島朝市~
涙をひとり 捨てに来た
寒さこらえて 店出す人の
声がやさしい 能登訛り

♫知らず知らずに わがままばかり
無理を通して いたみたい
輪島朝市~
女の夢は 帰らない
詫びの手紙を あなたに当てて
書いてまた消す 旅の宿

♫まるで私を 見送るように
沖は潮鳴り 風が泣く
輪島朝市~
出直すための 足がかり
強く生きろの 言葉をあとに
明日へ踏み出す 能登めぐり

七 七七五 五七五 七 七七五となっている。
五七五を切り取ると、輪島朝市 涙をひとり 捨てに来た
             店出す人の 声がやさしい 能登訛り
  輪島朝市 女の夢は 帰らない
  輪島朝市 出直すための 足がかり 
日本人は万葉の昔から五七五が頭に染みこんでいるんだなあ。中国から輸入した漢字を改造して真名から見事な仮名文字を創り上げた。こういうのが日本人の得意技。
  マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや  寺山修司
  戦争する国についに組しゆく小さな国のたそがれにゐる       馬場あき子

何でもあり・・・猫跨ぎ

  中国はGDPは世界第二位。堂々たる大国だ。ネットを見ていたら、月探査ロケットを年内に打ち上げるらしい。月面では無人探査車を走らせ、石を持ち帰るとかで、大したもんだ。航空母艦、無人偵察機、ステルス戦闘機など軍の近代化も怠りない。一方、北京とか大都会ではPM2.5の問題で視界不良とかで凄いことになっている。外国人の帰国が相次いでいると報じられている。
  ウィグル族の車突入事件は国際テロ組織の犯行との公式発表だが、あの映像を見ると抗議の焼身自殺という説が頷ける。老婆が乗っていてガソリンを積んでいた。一家の覚悟の心中か。どんどん漢族が入植してウィグル族を追い立てている。これ、戦前の満州の構図だな。新疆ウィグル自治区の直ぐ隣に同じトルコ系のイスラム国家が控えている。中央アジアに地鳴りが聞こえる。大きな争乱が起きそうだ。習鈞平の就任演説で、中華民族の権益は充分回復していないと言っていた。清の頃の最大版図は死んでも確保するという宣言だろうが、その後の民族自決の歴史を顧慮していない。日本に偉そうに言う前に、歴史をもっと学ばねば。それはそうと、「中華民族」の代わりに「ドイツ民族」と言えば、ヒトラーが政権奪取したときと同じ演説になる。
  先端的な部分と前近代的な遅れた部分―19世紀的な社会的矛盾、環境破壊、傍若無人の帝国膨張主義が,あざなえる縄の如く存在している。時空を超えて、何でもありのヌエみたいな状況の隣国だ。

2013年11月3日日曜日

啄木・・・猫跨ぎ

  啄木の元愛人が、その幸江さんだったかどうか詳らかでないが、私もそのころの新聞で啄木のことを「大嘘つきの人」と言っていたのを記憶している。借金踏み倒しとか色んな不義理をしながらの一生だったのだろう。そういえば、盛岡に行ったとき、新婚当時住んでいた住居が記念館として公開されていたのを覗いたことあり。
  砂山の砂に腹ばひ初恋の痛みを遠く思い出づる日
なんて言われると、幸江さんならずともころっと騙されて、耳朶を噛ませるわけだ。

猫跨ぎ句を鑑賞しつつ思うこといろいろ・・褌子

・双腕に室津港あり酔芙蓉
   室津の湊の地形は知らないが、双腕とあるから舞鶴や佐世保みたいに馬蹄形の陸に囲まれた良港なのかもしれない。遣唐使船と酔芙蓉があう。酔芙蓉は、朝のうちは純白、午後には淡い紅色、夕方から夜にかけては紅色に。酒を飲むと顔色がだんだんと赤みを帯びるのに似ていることからこの名がついた。蓮=Lotusは中国では芙蓉と書くから間違えやすい。
・大伽藍のいくつ亡びし稲の花
    福原京跡とかどこかで詠んだ句に違いないが、――平城京跡にて詠める――とか前書きがあると助かります。
・下総の月夜に太るけむり茸
特選  
・医務室の耳の模型や毒茸
たしかに
・俎板の章魚引き剥がす秋の暮
タコ・蛸・鮹・章魚。吸盤が最後の抵抗をしている。奇っ怪な姿ながら、あの白身の刺身がたまらない。秋の暮れのわびしさが余命幾ばくもないタコの悲哀を強調した。準特選かな
・氷頭鱠ふるさと遠き噛み応へ
なんとなく借金ふみたおし釧路を追われた啄木を想起した。『啄木日記』というのは面白いらしい。夭折した天才ながら「釧路の幸江は馬鹿で始末に負えない。別れるのにほとほと手を焼いた女」なんて、ずいぶん正直に書いてある。天才歌人の愛人だったことを自慢していた幸江さんが、啄木没後この日記を読んで激怒。啄木をのろい続けて昭和四〇年だったか亡くなったと、道新で読んだ記憶がある。幸江さんの源氏名は小奴。 
じつは『啄木日記』を先日、三省堂書店で立ち読みしたが幸江さんとのポルノチックの個所がローマ字で書いてあった。
  小奴といひし女のやはらかき耳朶なども忘れがたかり
釧路には何と二十五も啄木の歌碑があるそうだ。 いちばん有名なのは幣舞橋ちかくの米本公園の
  しらしらと氷かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな
リラの君とふたりで歌碑を訪ね歩きたかったなあ・・・

・秋冷や硝子断面海の色
    晩秋いや初冬か。空気がきんと冷えている

仁句鑑賞しつつあれこれ書くと・・・褌子

・右ひだり踝まはす野分あと
逡巡道草台風やっと過ぎ去りて、久しぶりに係留摩周丸わきでラジオ体操でもやるか
・耳奥からころがり落ちて木の実かな
   木の実状の巨大耳垢がでてきて巷の噂話がよく聞こえるワイ
・物言いのつけ様もなし金木犀
金木犀といえばあの芳香だが、相撲となにか関連があるのですか
・ユトリロの白引き立ちて秋の風
特選
   春はアケボノ秋はユトリロ。オーカーにホワイト。じつに秋風にひきたつわい
   ユトリロに秋冷いたる津軽かな
   日展の入選派閥枠に笑ってしまった。全部カネカネカネ。絵より書のほうがこの世界は怪しい。絵や彫刻などはいちおう自然が対象だから、ユトリロはいいなあとか秋野不矩を真似したみたいな平山郁夫はどこがいいのかなあとか小生でも一言くらいはいえる。宮田某氏(佐渡高校の後輩です)は芸大学長になってテレビでおしゃべりしていて仕事するヒマあるのかとか。ところが前衛書道とかとなると誰もわからない。エライ先生に金積んでエイやーっコレ入選と指さしてもらった方が勝ちなのではないか。面白うてやがて哀しき鵜飼いかな、だ。・・・・詩歌管弦はそんなことないと信じたいが。文学は実力の世界らしい。苦節五十年、芥川賞直木賞もらってもすぐ消えてしまうひともいる。自然科学の研究もきびしそう。小生なんぞちょいと小窓からチラリと覗いて一目散に撤退してよかった。小窓も曇りガラスだったし。♪くもりガラスを手でふいて~あなたぁ明日が見えますか♪
松本清張『ある小倉日記伝』のはなしも哀しいねえ。神の手とはやされて石器捏造していた東北考古学研究所のあの先生いま何やって食ってるかな。

・ボイジャーの進む空間神無月
    仁ちゃんはむかし、神の皆地底に降りて秋の夜
   と地下にもぐったが今回は天空高く羽ばたいた。広大無辺の時空とボイジャー。のびのびしたいい句だなあ。
     きのうはバスで4時間乗って原発反対福島大集会に参加した。千葉は曇りなのに福島市は秋晴れ。じつに気持ちよかった。写真は原発反対の横断幕をかかげた数百台のダンプの壮観。福島市の新幹線の橋脚下の大広場。そぐそばの民家では除染中だった。除染した汚染土を庭に積み上げている家が目立った。福島市は中通りでしかも宮城に近い県北。小児をかかえた家庭は心配なことだろう。
  余談だが福島県は大藩があった会津若松が県都になって大学もあってしかるべきだが、賊軍にされて…。閑散とした福島駅前をデモ行進していたら郡山を県庁所在地にすればよかったんだとデモのおじさんたちがしゃべっていた。
��写真・玄関脇にブルーシートで積み上げた汚染土)

・鬼の子の一丁前に笑ひけり
   広辞苑をひくと枕草子43段に「蓑虫いとあはれなり。鬼の生みたりければ、親に似て、これも恐ろしき心あらむとて」 清少納言がいいたいことはわかるが、蓑虫が一人前に笑っている…函館方面ではこういう笑うミノムシが発生しているのかもしれん

・爽籟やロケット作る町工場
   きいたこともない難語の季語が、先端技術にこつこつ挑戦するさわやかな町工場の雰囲気とどうもマッチしないように思う。
   コスモスやロケット作る町工場     ではだめですか?

2013年10月29日火曜日

函館通信222・・・秀句鑑賞・・・仁兵衛

猫跨ぎさんの秀句鑑賞。
・大伽藍のいくつ亡びし稲の花・・・大きな歴史変遷を感じながら同時に毎年稲穂が稔るのを見ている。歴史と現実の調和が実に見事だと感じた。特選。
・医務室の耳の模型や毒茸・・・一転してユーモアたっぷりな滑稽さが引きたった取り合わせが面白い。
・氷頭鱠ふるさと遠き噛み応へ・・・氷頭を食する風習は北海道なのだろうか。見てもあまり美味しそうには見えないんだけど。この膾で一杯やるのがいいのかな酒飲みには。
・秋物セールポイント溜まる溜めておく・・・破調も良し悪しなんだろうけど面白さを頂いた。準特選。
・ケロリンの桶の伏せある秋日かな・・・ケロリンに弱いね!頭痛直しの薬だったかな。懐かしい銭湯での宣伝看板を思い出させられた。


2013年10月26日土曜日

土下座・・・猫跨ぎ

  みのもんたが朝の報道番組を降りるという。みのは別に好きでもないしその番組は全然みていないが、ちょっと可哀相だ。バカ息子が酔って路上に寝込んでいる通行人のバッグを盗んでキャッシュカードを抜き、ATMで金を引き出そうとしたという。日テレの社員で30歳を越えた成人だ。人間の芯が腐っていてこういうのは多分更生できないだろう。
それはともかく、みのに無関係とは言わないがしょせん30歳の別人格の人物の事件だ。週刊誌のみの叩きは常軌を越えていた。ここまで言われねばならないのか。
  それから半沢直樹ドラマは痛快ではあったが、土下座は後味が悪い。人格を徹底的に踏みにじる懲罰行為。案の定、これを真似る事件が起きている。乗客が駅員を、客が店員を、親が教師を土下座させる。
上位に立つと(思いこんだら)下の立場の人間を徹底的に追いつめる。過剰な懲罰意識だ。いやな風潮だ。惻隠の情、慈悲心に繋がるものが希薄になっている。

しゃっくり・・・猫跨ぎ

  女衒屋のおやじみたいな写真を見ながら相変わらずだとおもっていたら、しゃっくりか。11日間など聞いたこともない。急に驚かす、舌を引っ張るなどは駄目だったか。横隔膜の神経を切断する治療法もあるらしいが、そうならずに良かったね。こういう不随意筋の痙攣が10日以上も続くとはどういうことなんだろうね。傍から見ていると、どうしても笑いの対象になる。くしゃみも同じ。当人は真剣そのものなんだろうが。まあ、奥方の言うとおりだね。身を固めるのが一番だ。
  

2013年10月25日金曜日

罪と罰・・・・・ 褌子

   お久しぶりです。
   ドストエフスキーの『罪と罰』だけはいっきに引きづり込まれるように読んだが、いま亀山郁夫の『悪霊』を読んでいる。わかりやすい翻訳ではあるが妙な名前の人物が次々と登場するので結構めんどくさい。松本清張の『砂漠の塩』は半日で読んでしまったのに。西口克己『山宣』は大部であるがすいすいと読めるのに。ドストエフスキーやトルストイやバルザックや『ユリシーズ』やプルーストや『静かなるドン』や『大菩薩峠』などはそのうち惚けないうちに読んでおこうと思っているのだがけっこう難儀している。やはり古典文学は若いうちにちゃんと読んでおくべきだったなあ・・・・
  さて罪と罰である。
  昔、日本曹達を退職後、つとめていた市原民主商工会の旅行に誘われ栃木の奥の湯西川温泉にいってきた。残念ながら紅葉はまだだったが山奥のじつにすばらしい旅館であった。
  湯西川温泉からの帰途、竜王峡により、バスのなかですっかり親しくなった韓国人の若い女性4人に囲まれて写真をとった。鼻の下をめいっぱい長くしたうれしそうな顔をみていただきたい。 ⇒
  ところが彼女らに囲まれすっかりいい気持ちになってバスのなかで冷たいウーロンの真露ハイを何杯も何杯も韓国キムチで飲み過ぎたのか、しゃっくりが起きたのである。なんと猛烈なしゃっくりが11日間もつづき、朝から晩寝るまでひっくひっく、電話も話もできず疲れ果ててしまった。深夜などあまり連発すると眠ることもできず救急車もたかがしゃっくりでは呼べず、けっこう呼吸困難にもなる始末。
 何軒も医者をまわったがどこもだめ。インターネットで柿のヘタを煎じて飲むといいと書いてあるが試してみたがだめ。若い女性に囲まれていい気になって写真など撮ったから天罰が下ったのだと女房にさんざんしかられた。むかし風邪薬の副作用でしゃっくりがでて、脳の検査をしたことがあったが今回は薬の副作用でないので原因がわからずほとほと困ってしまった。
  ワラをもすがる気持ちで昨日、むかし中耳炎の手術をしてもらった和田耳鼻咽喉科をたずねたら、「しゃっくりに効く薬はありません」といきなりいわれたが詳しく症状をきいてくれてリーゼ錠、テルネリン錠を横隔膜の緊張をやわらげる薬を2種類処方してくれた。さらに三井鍼灸・整体院をたずね、横隔膜につながっている背骨の脇の神経系統を入念に一時間半も指圧してもらった。
  そのけっか、さしもの頑固なしゃっくりが下火になり今日12日めになってついに止まったのである。こうしてやっとパソコンに向かってものを書くことができるようになったのである。
  いまお祝いに中国からお土産にもらった紹興酒『古越龍山』の八年ものを燗をして飲んでいるところ。これは能登の旅行に持って行って諸兄に飲ませるつもりであったのだが、全部飲んでしまいそう。能登旅行では冷たいウーロン杯は厳につつしみご遠慮申し上げたい。年増女性の人肌にあたためた日本酒『加賀白山』などの熟成した般若湯にゆっくりと舌鼓をうちたい。まことに「女は年増・酒は古酒」である。
  いや誠におそまつな「罪と罰」であった。

2013年10月24日木曜日

花壇など ・・・猫跨ぎ

また台風、しかも二つ。「藤原の効果」とかで進路の予測が定まらないらしい。
私事ながらわが茅屋の庭に小振りな花壇を設け、周りにぐるりと細石を敷いた。このイメージを抱いて、ようやく庭いじりをする気持になってきた。さあ、やるぞ。

それでは10月の10句。
・双腕に室津港あり酔芙蓉
・大伽藍のいくつ亡びし稲の花
・下総の月夜に太るけむり茸
・医務室の耳の模型や毒茸
・俎板の章魚引き剥がす秋の暮
・黄昏や胸の高さに曼珠沙華
・氷頭鱠ふるさと遠き噛み応へ
・秋物セールポイント溜まる溜めておく
・ケロリンの桶の伏せある秋日かな
・秋冷や硝子断面海の色

2013年10月20日日曜日

十月仁句鑑賞・・・猫跨ぎ

今でしょが流行語らしいが、まさに現在進行形の世の中のあれこれを題材にしている。それらと古来の季語のとりあわせが、成功するかどうかが判断のしどころか。
 ・秋時雨ホームページを見よといふ
 ・鬼やんま挙りて泥を掻い出せり
・ボイジャーの進む空間神無月
・爽籟やロケット作る町工場
上の二句は、今回の台風、大雨被害のことのようだ。
後の二句は、今も飛行を続ける惑星探査機と大田区などの企業の取り組みのことらしい。
ただ、全般的に好意的に見ている姿勢は理解できるね。
爽籟は秋風の傍題らしいが、こういう難しい季語をあえて使うこともあるまいと思うけれど、どうかな。あとの鬼の子も蓑虫で良いんじゃないか。

・右ひだり踝まはす野分あと
・耳奥からころがり落ちて木の実かな
・塵手水指の先まで牛膝
・物言いのつけ様もなし金木犀
・ユトリロの白引き立ちて秋の風
・鬼の子の一丁前に笑ひけり
これは季節の移ろい、秋到来を詠っている六句。耳奥の句はなにか心象風景らしいが。
塵手水も難しいなあ。いま大相撲でしか使わないんじゃないか。チリを切るとよく言うね。いのこずちを払っている風景か。今年は金木犀の当たり年だったけれどその後の風雨であっという間に終わってしまった。ユトリロは建物の色が何とも言えない白色だね。
蓑虫が笑っているのは、いささかシュール。
踵をまわす句は、ちょっと歯が立たなかった。

2013年10月16日水曜日

函館通信221・・・さむか!・・・仁兵衛

 堀口さんとの連絡がつく様になった事に関し国兼さんや信田さん、小林さんのご努力に感謝致します。
 函館も急に寒くなって慌てて暖房器具を揃え始めています。
 オール電化にしたのはいいのですが電気料金の値上げで今冬はどうなる事やら先が思いやられます。
 台風の雨は少し大目ですが風はたいしたことなく函館を過ぎて行きそうです。
 
 右ひだり踝まはす野分あと
 秋時雨ホームページを見よといふ
 鬼やんま挙りて泥を掻い出せり
 耳奥からころがり落ちて木の実かな
 塵手水指の先まで牛膝
 物言いのつけ様もなし金木犀
 ユトリロの白引き立ちて秋の風
 ボイジャーの進む空間神無月
 鬼の子の一丁前に笑ひけり
 爽籟やロケット作る町工場


2013年10月14日月曜日

注連寺・・・ 褌子

   広大無辺お釈迦さまのような猫跨ぎさんに感謝したい。
  わたしは西方浄土の極楽しか知りませんでした。いつもくたばったら極楽に行きたいと一日一善を実行している。昨日はニ善も実行してしまった。有楽町の小さなラーメン屋さんのために、500円の中ジョッキで十分なのにお昼から1000円の特大ジョッキを頼んでしまった。総武線で終着千葉駅に着いたら、眠り込んでいる女性がいるので、「お嬢さん千葉駅ですよー!」と声をかけた。あのまま寝ていたら、東京まで逆戻りだ。ありがとうございますと立ち上がった寝ぼけた顔が可愛かった。眼福。
  さて、注連寺は(蓮でなく連だった)は月山のふもとの寺だと思いこんでいた。というのは森敦『月山』の一節を刻んだ大きな石碑があったからだ。ところが猫跨ぎさんの指摘するように湯殿山なのである。京都などの隅々まで掃き清めた観光寺よりも、あのおおざっぱな作りの伽藍もよいものだ。しかし回廊にうじゃうじゃいたカメムシに恐れをなしたが鉄海上人だったか即身仏を拝んでおくべきだった。高橋さんというジャンボタクシーの運転手さんといろんな話をしたが。
��わたしの佐渡の実家の縁の下にはカメムシがいる場所があって、子供のころ、あのにおいがだいきらいだった)  
  それにしても羽黒山の五重塔はよかったなあ。

補陀洛浄土・・・猫跨ぎ

インド仏教では、東西南北に壮大なイメージを展開している。この空間感覚には目くるめくものがあるなあ。インドは深い。
南に補陀落浄土があり観世音菩薩がいる。西はご存知の西方極楽浄土があって、阿弥陀仏がおわす。東には瑠璃光浄土があり薬師如来がいる。そして北には弥勒浄土があり弥勒菩薩がいる。
つまり、京の南に熊野があり、さらにその南方に補陀落浄土があるとイメージしたのだろう。

注蓮寺は湯殿山だね。森敦の大きな碑があった。あそこに暫く逗留していたらしい。
即身仏が安置されていた。カメムシが沢山いたなあ。
  即身仏の赤き衣や屁放虫

2013年10月13日日曜日

補陀落渡海 その2   ・・・褌子

 インターネット恐るべし。
 フェースブックに補陀落渡海(ふだらくとかい)のことを熊野那智地方にかつてあった「海の姥捨山」だと知ったかぶりで少し書いたら、違うという電話が知人から入った。熊野の「海の姥捨山」ではないというのだ。彼は井上靖『補陀落渡海記』も読んでいて次のように説明をしてくれた。
  9世紀半ばから10世紀初頭のころ、熊野那智の海岸からはしばしば補陀落渡海が行われたという。海岸線にある補陀落山寺の僧が単身、インド の南海岸にある、観音菩薩の住む浄土である補陀落(チベットのポタラ宮の「ポ タラ」と同じ)をめざして、30日分の食糧だけを積んだ船で出かけたのだ。風 まかせ、船室は板戸で打ち付けられたというから、いわば即身成仏の一つの形 である・・・・。
  ―――――わたしは、岩手や信州に残る姥捨山伝説の海洋版だと早合点していたが、山形の月山ふもとの注蓮寺などに残る即身成仏の海洋版だったのである。東シナ海の舟山列島の補陀落山寺もただしくはチベットのポタラ宮をはるかに望んで建立されたと解するべき。(じつはhorohorokaiで那智に泊まったときに、夕食前に諸兄らは補陀落寺を見学にでかけた。ところが小生はちょうど込み入った電話が美濃加茂市から入っていてお寺見物にいけなかった。だからしったかぶりの勘違いが発生したのかも)

なつかし普陀落渡海    ・・・褌子

   松本清張『陸行水行』は短編なので有楽町の喫茶店で読み終えた。はじめて読んだが、巻末の解説には、清張が1963年頃週刊文春に連載し、北九州か畿内か?と邪馬台国古代史ミステリーブームに火をつけた作品だとある。作品では北九州説をとっているのだが、反響に気をよくした清張が古代史研究を本格化させ『古代史疑』を発表するきっかけになった。
 小生は『古代史疑』を読んで、さらに大部の『火の路』を読み、伊都国の糸島半島まで足を伸ばし、宇佐八幡宮もみてきたことがある。もう、十年くらい前だが、『火の路』についてはかつてブログに書いたら猫跨ぎさんからもコメントをもらった。
 清張の『眩人』を読んだときには、シルクロードに行きたくなり、実現したもののタクラマカン砂漠一周の最中に引率の女先生とはしたない喧嘩をしてしまい…。思い出したくないが件の先生が17日に千葉に来るんだ困った
  いっぽう、司馬遼太郎『韃靼疾風録』も痛快な作品で、これを読んだら寧波とか杭州湾沖の舟山諸島の普陀落山とか行きたくなる。今回、紹興まで行ったのに、あと百キロ先の寧波まで、案内してくれた中国人留学生一家に遠慮して行きそびれたのは残念であった。寧波(にんぽう)には遣唐使や遣隋使の出入りした古代の湊があった。普陀落山は、先年、horohorokaiが熊野の那智にいったときの普陀落である。井上靖『普陀落渡海記』もいずれ読んでみたい作品だ。
   
普陀落や曲り角には唐辛子   (小生の句ではありません念のため)

陸行水行.......こんし

さっきのつづきです。巨大な大ジョッキで1000えんでした。すっかり真っ昼間からほろ酔いきぶんで原発反対集会をあきらめて
有楽町の三省堂書店へ。一階はハウツウ物ばかりで二階へ。もう来年の日記帳が山積みになっている。奥の方に目当ての光文社古典新訳文庫がみつかった。ドストエフスキーの「悪霊」三巻と松本清張「陸行水行」を買う。陸行水行とは例の魏志倭人伝の言葉だ。こういう言葉にであうと自称「東北アジア古代文化研究会」の名誉会長として、いぜん福岡の糸島半島の魏志倭人博物館を訪ねた時のようなワクワク感をおさえきれない。大ジョッキの醸し出す自然現象で三階レストルウムへ。いま、三階の休憩所の無料の椅子で座りながらかいている。外は快晴だがここは暑からず寒からず*\(^o^)/*暑からず
寒からず。NYの堀口さん、こんな調子で気楽に投稿をお願いします(猪坂
)

堀口くんへ、、、、こんし(猪坂)

のどが渇いて冷たいサッポロビール飲んだばかりで今とても幸福な気持ちです。きょうは素晴らしい晴天。東京の原発反対大集会にでかけました。ところが12時からの日比谷公会堂の大江健三郎などのシンポが満席。日比谷公園をこっそり独りぬけだし有楽町のガード下へひるめしを食いに。途中の帝国ホテルロビーをちょいと覗くと有閑マダム達が談笑している。ガード下の「ひむろ」というラーメン屋に入った。チャーシュー味噌ラーメン950円で薄く切ったチャーシューがラーメンの鉢のまわりを万里の長城のように取り囲んでいる。このチャーシューがうちのきんじょの王将ラーメンのチャーシューより硬いがよく噛むとじつに味わい深い。サッポロビールのだいじょっきがなんと500円。ぎんぎんにひえている。いま、全部飲んで
食ってお勘定のまえにiPhoneで発信しているところ。いやあこんなに美味かったのに、たった1950円だ。
帝国ホテルなら15000円取られるところだった。
NYの堀口さん!まあ、こんな調子で
どんな下らんことでもかまいません。気軽に日本語で書いてください*\(^o^)/*

2013年10月12日土曜日

『孔乙己』    ・・・褌子

 真夏みたいな暑い日である。まだ蚊がいる。
 国兼さんのおかげで、同級生ほぼ全員の消息がわかった。
 堀口君もこのブログにニューヨークから書いてくれたら面白くなるね。
 ツイッターに毎日はまっているせいか、最近めっきり本を読む時間が減った。
 ドストエフスキー『死の家の記録』は二ヶ月たってもまだ終わらない。ドストエフスキー自身がシベリア流刑地の囚人として足かせをはめられながら、同じ監獄内の囚人達の言動と内面を克明に観察し記録に残した。終身刑や死刑囚ではないせいか暗い話ばかりではない。『白痴』『悪霊』なども光文社古典新訳文庫で読みたいものだ。
  工学院大学孔子学院主催の写真コンテスト「わたしと中国」に応募してくれと電話がかかってきたので、せんじつ中国で出会った可愛いこどもたちの写真を送ったら佳作になった。昨年の二等賞に比べると見劣りがする。背景の建物が平凡すぎる。
  もう一枚の写真は魯迅故居そば紹興酒の老舗まえに立つ『孔乙己』(こんいーち)像。魯迅の短編『孔乙己』は貧しくおひと好しの男が毎日しごとを終えて数粒の豆をさかなに酒を飲むのが唯一の楽しみという話。像は左手に豆ひとつぶ、右手に杯。

 

2013年10月7日月曜日

ゲルベゾルテ・・・猫跨ぎ

  そうか国兼さんも見たか。禁煙学会なるもののクレームは、お話にならん話で、私も前回の投稿で書いたが、何というか、昨今の日本人の幼稚化のあらわれだと思っている。今の自分たちの関心事だけにアタマが集中していて、時間軸をずらすなど、視野を広げることが出来ない。これはバカ女の特徴だったが、最近は日本人一般まで広がってきた。

ゲルベゾルテは懐かしい。楕円形の形で、片開きの箱に入っていた。重い独特の味だった。中川先生がフアンで大量に買って、きっちりと密閉して冷蔵庫に保管していた筈だ。私がドイツへ行ったときはもう見当たらなかった。タバコの味がどんどん薄くなって行く中で真逆の味だったからね。

「風立ちぬ」を観てきた…国兼

   前に猫跨ぎさんの「風立ちぬ」の投稿で、この映画に「禁煙学会」なるフカシゲナる学会が、有害映画であるというクレームをつけたという内容を読んで、スモーカーの一人としてどんな喫煙シーンを撮っているのかと、宮崎駿監督への友情支援を兼ねて先週久しぶりに映画館に足を運んだ。

 堀越次郎さんの喫煙シーンは、何ということもない友達との会話の中で、或いは設計に没頭し自分の思うように進まないときの一服であろう。なかんずく、「禁煙学会」が極めて悪質で子供たちに見せてはいけない有害映画と言っているシーンは、肺病を患った菜穂子の病床で次郎さんがタバコをふかしていると。馬鹿を言えと、次郎さんは菜穂子を思って外でタバコを吸いに行こうとしたのを菜穂子が言う、「行かないでと、ここで吸っていていいの、1分1秒でもあなたがそばにいて欲しいの」と。
 このような男女のプラトニックな人間の機微を「禁煙学会」なる学会はもっと勉強して欲しいものだ。その存在を鼓舞するための、クレームをつけるための学会ではなく、もっとおおらかなる「風は立ったか?」という宮崎駿監督の心を理解して欲しいものである。

 堀越次郎氏の設計したゼロ戦は、軽量なるを基本設計とし、牛若丸のごとく空中を回り、敏速に敵機の後ろについて攻撃するのが目的であった。まさか、そのゼロ戦が重い爆弾を積んで特攻機となって飛行するとは夢にも思ってもいなかっただろう。大勢の特攻隊兵を無残にも死なせるような飛行機設計を・・・、私が設計したかった飛行機とは戦争のための飛行機設計ではなく、子供たちにも夢を与えるような飛行機なのだと、「風は立ったか」というカプローニ伯爵の繰り返されるレフレインの中で宮崎駿監督は言いたかったのではと・・・。

 ちなみに、次郎さんの吸っていたタバコは「CHERRY」で、灰皿への吸い殻の量からかなりのスモーカーである。このタバコは戦後に(昭和40年代ごろに売り出された)チェリーなるタバコとは別物である。また、ドイツ人の吸っていたタバコは「ゲルべゾルデ」で、昭和50年、60年代にドイツに出張した仲間たちのお土産で吸ったことがあるが、楕円形した珍しいタバコであった。今はもう消滅したのでは。「紅の豚」でもタバコをふかすシーンが多かったが、宮崎監督もきっとかなりのスモーカなのであろう。
 ともあれ、タバコの方ばかりに気を取られて、肝心の映画鑑賞がお留守になってしまった。又、みてこようかなと・・・。

2013年10月6日日曜日

「風立ちぬ」再び・・・猫跨ぎ

  宮崎駿の「風立ちぬ」 の印象を引きずっていていて何か心にわだかまりが残っている。で、もう一度見てきた。この映画については、逸徳氏が独自の鑑賞記を載せていた。新しい飛行機(戦闘機)に懸ける主人公の渾身の日々がドラマの主軸とすると、菜穂子との関わりが底流の旋律として流れている。
そのわだかまりを解くために原作、堀辰雄の「風立ちぬ」を読まずばなるまい。で、読んだ。そう、こういう世界がかってあった。何だろう、感傷の奥に深い憂鬱がある。哀しみの奥の煩悶がある。あの映画にも流れていた。こういう負の感情の重畳感は、その昔あったんだ。そんなことを気づかせてくれた映画だった。

2013年10月3日木曜日

今静岡で・・・・逸徳

あんまり風流もなにもないが、ことのついでに原発がらみで静岡で話題になっていることを紹介する。 東南海地震などで原発が事故を起こしたとき、原発から5キロ圏内と30キロ圏内では対応がちがう。 例えば5キロ圏ではすぐにヨウ素剤を飲む。そして避難するわけだが、地元の御前崎市からの避難経路5本のうち4本までは、液状化現象の可能性があり、道路の保全が心配されている。にげるにも道がつかえなくなるというのだ。 何をかいわんや。
そして30キロ圏。この中には11市町村があり、人口は約90万人。事故になったら、このひとたちをどこかに避難させなくてはならない。そして我が家は約18キロ地点である。そういう時は地震でJRが動く保証はない。 役場の安全課長にきいたら「原則は自家用車でにげる」ということだそうだ。車のないうちはどうするんだ。 で、各自治体は避難先の検討にはいっている。つまり他地区の特定の自治体と協定を結び、いざというとき受け入れてもらうということである。ところがそのような避難先自治体は、それが東南海地震の想定被害地域にはいっていればだめで、そうすると神奈川愛知山梨はダメ。かろうじて長野かそれより遠方になる。そこで各自治体が避難先をかってにバラバラに探すと混乱するというので、県が交通整理にはいっているのだが、これがまとまらない。そんなに簡単に、はいどーぞといってくれる自治体はないのである。しかも風向きによって東側と西側の二方向に避難先を探す必要がある。いやはや、今やわやくちゃの混乱状態なのである。で、今のところわが菊川市で候補にあがっているのが長野県小谷村と下関市であるそうだ。小谷村はちいさい。 つまりおいらたちは下関までにげるということになる。うーん、いきたくねえ。(ふぐが食えるかな) で、考えたが、いざとなったら佐渡がいいのではないか。 そういうわけで、西沢さんよろしく。また旅行で背中かいてあげるから。 

アメリカでは避難計画は、その原発が稼働するための条件になっていて、だめなら稼働が認められない。ニューヨークに近いショーラム原発は結局、避難計画ができず、一度もつかわないで廃炉になった。最後は1ドルで売られたそうな。

 おもしろいのは、ショーラム原発でも避難計画はつくられたそうな。しかし、それはまったくの空論で、とにかく時速100キロでにげるなんて項目がはいっていて、住民の総スカンをくい地元議会で否決されたらしい。ここで教訓的にわかること。とにかく役人は、どんなに不可能なことでもそれがやれるという作文をつくってしまう性向があるということである。(書いている役人自身が不可能なことはわかっていてもである。) 哀しい性なのだろうか。 そして作文であっても、まだ日本では30キロ圏までの避難計画を持つ原発はない。 それが静岡の現実である。

2013年10月2日水曜日

わかりやすい! 小泉元首相の演説・・・こんし

小泉元首相「原発進める方が無責任」と首相だったときの考えを撤回した。名古屋で講演。以下、上海で読んだ朝日新聞の小泉発言からの引用ーーーーーーー
 経済界では大方が原発ゼロは無責任だと言うが、核のゴミの処分場のあてもな
いのに原発を進める方がよほど無責任だ。
首相の時代には原子力はクリーンでコストの安いエネルギーという専門家の話
を信じたが、東日本大震災が起きて、原子力を人類が制御できるか大きな疑問を
抱いた。
��月に視察したフィンランドでは設備が10万年もつかこれから厳しい審
査がある。それでもフィンランドにある原発4基のうち2基分の廃棄物しか処理
できない。現地の人は、10万年後の人類に(廃棄物を)取り出してはいけない
と言って分かってもらえるかまで心配している。
原発から出るエネルギーは本当に安いのか。事故が起きれば人体や農作物、地
域へのリスクは計り知れず、原発ほどコストのかかるものはないと多くの国民は
理解している。
捨て場所もないような原発を経済成長に必要だからといってつくるよりも同じ
金を自然エネルギーに使って循環型社会をつくる方が建設的じゃないか。原発の必要論者は『将来はゼロにする方がいいが、今はダメだ』と言う。しかし、早く方針を出した方が企業も国民も原発ゼロに向かって準備もできる、努力
もできる、研究もできる。
今こそ原発をゼロにするという方針を政府・自民党が出せば一気に雰囲気は盛り上がる。そうすると、官民共同で世界に例のない、原発に依存しない、自然を資源にした循環型社会をつくる夢に向かって、この国は結束できる。

海嘯 ...konshi

江南の旅の最後が銭塘江の海嘯見物。アマゾンの海嘯はテレビでみたことがある。旧暦8月18日の満月の日。大潮で膨れ上がった杭州湾から銭塘江へとおしよせるアジア最大の海嘯見物には20万人でにぎわい、今年は何人溺死するかという賭けまであるというから中国らしい話し。満潮、干潮は毎日あるから今日は10時過ぎらしいと朝7時に上海を7人で車で出発。浙江省の嘉興という町の銭塘江の河岸に着く。
中流域だというのに対岸が霞んでいるほどの大河。海嘯見物の名所らしく延々と続く巨大な堤防には露店まで出ている。1時間くらい待ったが偉大な自然現象が始まらない。危険!の看板を無視して、のんびり魚釣りまでしている始末。サトウキビを鉈でけずったのを噛みながらボンヤリ待つ。いい天気。青山碧水藍空はきのうの天目湖、きょうの銭塘江は水も空もはるかな対岸も全体が霞んでいる。時空の感覚がおかしくなってきた。待潮の今が未来やそして過去。そのうち本日の満潮は11時から11時半くらいという情報が流れてきた。・・・・というわけで今まちくたびてこんな事をかいている。女房も下手くそなスケッチをはじめた。だんだん堤防上の見物人がふえてきた。遠くからサイレンが切れ切れに聴こえ爆竹が遠雷のようにきこえてきた。警察が岸辺に近づくな!とまわりだした。始まるかな・・・・・

2013年10月1日火曜日

中国の天目湖遊覧船上で観戦中::こんし

年相応に落ち着いて議論しましょう。紹興の東湖の入門でパスポート見せてと女の子に言われた。生年月日をチラリと見て
70歳になっています。古希おめでとうございます。入場料は紹興市のご好意で無料にいたしますと大声で言われて妙な気持ちになりました。とにかく東電に事故処理能力がないことが明らかになったのでこの会社は破綻処理すべきです。そうでないと企業として生き残るための柏崎原発再稼働とかとんでもない、、、、あ電池が切れてしま!!!

まちがえた・・・・逸徳

はやがてんだ。まちがえた。すまん。 犯罪と悪が頭のなかで混乱した・・・ぼけたな

取り敢えずひとこと・・・猫跨ぎ

原発については物事には順序があると言っている。あまり興奮しなさんな。
戦争は悪では無いなんていつ言ったかな。よく読んでくれ。その悪がなぜ何時までも繰り返されるのか。なぜその一部だけを取り出して戦争責任を問われるのか、の話だ。

ちょっとまて・・・・逸徳

原発の状況評価をめぐる客観的な議論をしようとしているのであって、ちと議論がずれている感じがするがいかがか。 原発についていえば、そう簡単にはいかんというお師匠の指摘はわかる。だが、これはもうどうにもならんのであって、結論は明確に見えているのだと思う。つまり、おいらからいえばあれはもう人類の遺伝子プール全体をかく乱する反倫理的技術なのだ。 だから日本経済がどうであっても、青酸カリを飲み続けるわけにはいかんということであって、要はいかにはやくやめるかという議論しかない。それにともなう副作用は、もうこれは何がおきてもしょうがない。おいらはそう思っている。ちなみに倫理というより環境という要因を考慮にいれていない経済学や、経済活動はいびつだなあ。だから、再稼働を申請している電力資本とそれにつらなる一連の資本は、あれはもう麻薬中毒にちかいな。

 ある社会的政治的選択が行われたとき、その結果に対して分析評価し、問題があれば責任を取るというのは、当然のことだろうし、めずらしいことではない。戦争責任もその範疇にはいる。だからこの問題は、別に国際的な力関係とか、傷者や敗者とか、東京裁判などはどうでもいい。歴史論の議論としてはわかるが。問題は日本人が日本人自身の問題として、どう対処してきたかだ。あれを業や宿命だとはおいらは300万の死者の前ではとてもいえん。戦争は悪ではない。そうかもしれない。だが問題は善悪の議論ではないのだ。それじゃあまるで倒産した会社の社長が、責任をとらず「運命です」といっているようにみえるがいかが。(ちなみにその社長が悪人であるという結論は、倒産ということからはでてこない。) 東電の社長もその口か。地震のせいにし続けるメンタリティはまさにそうみえる。はやく東電は破たん処理してしまうべきではないか。
 ここでいいたかったのは、原発に対する状況と戦争に負けたときの状況の類似性だ。歴史はくりかえすのだろうか。

2013年9月30日月曜日

宿業・・・猫跨ぎ

ちょっと要点だけ述べさせてもらう。
原発の可否について。いま原発賛成といおうものなら奇人変人の扱いだ。しかし巨大な社会構造をもった国が、エネルギー政策を根本から変えることは容易でない。そのことは体制のexcuseの代弁でなく言っておこうと思う。端的に言って一月に3兆円の貿易赤字は何時まで可能か。
  それからドイツをやたら褒めるのも如何か。どうも西欧人の狡猾なところを見落としている。戦争責任についてもそうだ。彼等はナチスに戦争責任のあらかた全部を押しつけた。全部あいつ等のせいだ、と。そういうまことに具合のいいすり替えで、ドイツ人は「原罪」意識を免れている。彼等の原発廃止論議も日本で言われているほど明解にことが進んでいるわけではない。その科学者なんとかも、たくみに何事かをすり込ませているはずだ。
  その戦争責任についていうなら、第二次世界大戦後、ドイツ、日本を裁いた国際裁判から新たな神話が始まったと思っている。「人類に対する犯罪」などという極めて不確実な傲慢な判決は考えれば考えるほどおかしい。全く実態のない空論だ。或いは勝者の立場を今後とも固定化したい狡猾な論理だといってもいい。
戦争は人類開闢以来一度とて犯罪と見られたことはなかった。戦争は運命という他ないものだった。あえて言えば、戦争は”悪”ではあっても、犯罪ではなく人類の背負った業、宿業というべきものだ。

今度は中国江南の旅です、、、、こんし

 いま、紹興酒の紹興にいます。
 上海からきた中国人留学生の面倒を三年ばかりみてきたが、昨年、帰国。両親が、娘がお世話になったお礼に中国に招待したいというので女房と五泊の中国の江南旅行にでかけた。きのうが杭州。南宋の古都である。西湖見物のあと、霊隠寺門前の民宿みたいな風情のある旅館にとまり、紹興酒「古越龍山」を飲む。朝の茶粥が旨かった。杭州からさらに南下して紹興へ。司馬遼太郎の街道シリーズ「江南の道」の会稽山、呉越同舟、臥薪嘗胆、西施、勾銭・・・の紹興であるが、まずはまっすぐ魯迅故居に向かった。
 魯迅の生まれた家は想像以上の大地主の大邸宅で清代の古い遺構をそのまま残している。たくさんの部屋。魯迅の名篇「故郷」の終章が胸にあらためて迫った。ーーーー魯迅の子供のころ、魚とりなど夢中でいっしょに遊びまわった友達の陳、男の子のいろんな冒険を教えてくれた大好きな陳。勇気があって快活な頼もしい兄貴分の陳・・・・何十年ぶりに北京から懐かしい故郷の紹興の実家に帰って、誰よりも誰よりも真っ先に陳に会いたい!。あの陳に!ーーーー ところが、やっと再会した陳は、大地主の跡取りの魯迅の前で、おびえたように頭をさげてばかりいる小作人の卑屈な男になっていた・・・

どうも気になるので・・・逸徳

こちらでは、よせばよいのに中電が浜岡原発の再申請を出して、稼働への意志を鮮明にしはじめた。とにかく、衣のしたの鎧が見えるどころじゃあない。ころもがズタズタなのだ。いよいよひとごとではなくなってきた静岡である。
 お師匠の指摘について。 対案を出すという建設的議論が必要なことは当然なのだが、どうも見ていると東電の体質だろうが、情報が完全に公開されていないようにみえる。つまり対案を出したくても、はじめから批判派の方には情報のハンディキャップがあるのではないか。 これではちと無理だ。それにくらべてドイツのメルケル首相が設置した、科学者だけの独立委員会の議論は見事だったと思う。とにかく日本は主要な報告書だけで三本も出ており、何がなんだかわからん。 それで思い出すのが、スペースシャトル事故のとき大統領が設置した事故調査委員会のファインマン博士の活動である。科学が、資本や権力がら独立して、キチンと信頼できる活動をしていたのは、この辺までだったかもしれんなあ。 それにくらべて、原子力にむらがる科学技術者のふるまいは、とても科学とはいえない行動が多かった。テレビでプルトニウムなんて、食べても大丈夫といった某東大教授や、福島の地元にすんだ方が健康にいいとくちばしった東電のえらい人など、笑い話にもならない話が続いた。科学への信頼が地に落ちたのである。あいつら万死に値すると思う。

で、対案をというお師匠の意見を考えていたら、はたと気が付いたことがある。今の事態は敗戦後の状況に似ていないか。 地震のように戦争は、庶民からみればどこか遠い空のかなたからやってきて、大災害をもたらした。で、終わってみると原因追究は「一億そうざんげ」とかなんとかごまかされ、責任はなすりあいになり、要するにごまかされ、基本的な土台は何も変わらず、食べていくことが先だと、戦争責任はすくなくとも日本人の手でキチンとやることはなかった。あれをきちんとやっていたら、戦後の日本の歩みはもうすこしは変わっていただろうに。 

 今回の件もそっくりだ、上の流れはそっくりあてはまらないか。 したがって、原因の追究と責任の明確化の作業は絶対必要だし、これは対案の議論とは別の問題である。また日本人はおんなじことをやるのだろうか。 沢山の原発が再稼働をめざしているのは、まるっきり戦後日本の歩みを再現していないか。

2013年9月25日水曜日

だからどうしたら良いんだ・・・猫跨ぎ

だからどうしたら良いのか。批判している時期はすぎている。機会を捉えて政争の材料に持ち込もうとするのは何なんだ。こうしたらいいという提案をすべきだろう。

紅の豚----こんし

「紅の豚」は宮崎アニメでも異色でした。イタリア軍の反ファッショの飛行艇乗りの男たちの盛んな喫煙場面がありましたね。「風立ちぬ」も見たいです。安倍がまた汚染水が完全にブロックされていると言ったので、福島の被災地では嘘つけと「腹立ちぬ」だそうです。原発建屋に流れこむ地下水を汲みあげるとその分、海水が海から地下に侵入してくる。海岸部では地下水と海水とは行ったり来たり相互浸透している。そんなことも東電は二年半もわかっていなかった。海水平均温度18度、地下水は14度、原発建屋を凍土壁で囲い込んでも莫大な電力を使って凍土壁の崩壊を何十年間も食い止めるのは極めて
困難だと言えそうです。

2013年9月24日火曜日

風立ちぬを見てきた・・・・逸徳

宮崎監督最後の作品ということで、風立ちぬを見てきた。ちなみに、監督は我々とほとんど同じ世代で、彼のメンタリティには前から共感するところの多い人である。 特に飛行機は、かって10代のころ飛行機オタクとして航空工学をやりたいと夢見ていたおいらとしては、監督の飛行機への思い入れにはすごく共感、感動している。 したがって、今までの作品の中で好きなのが「紅の豚」である。 飛行機と、雲の描きかたがよかった。ついでにいうと「とべない豚はぶたじゃあねえっ!」という主人公のせりふのかっこうよさにしびれた記憶がある。

今回の作品の見事さはすでにお師匠が述べており、まったくその通りだと思うので、重なる部分ははぶく。 ただ、風の描写は見事だなあと思った。あれは実写では出ないと思う。 監督は風さえ重要な役者として見事に使いこなしている。 ホントにスクリーンから風が吹いてくるような思いにとらわれた。
「風立ちぬ、いざいきめやも」という詩はポール・ヴァレリイの原詩があるが、これは堀辰夫の誤訳という説があるらしい。まあそんなことはどうでもいい。「生きめやも」をどうとるかだが、 生きようとする意志と、その後に襲ってくるであろうある不安な状況を予覚した表現であろうと思う。 
作中で、主人公とイタリアの航空設計家カプローニ伯爵との会話が何回か出てくる。 伯爵は何回も主人公に問う。「君、風は立っているか」と。このときの風とは何だろうか。 それが気になった。 うまくいえないのだが、主人公をとりまく状況と、彼の内面の自覚的に生きようとすることを刺激してくれるある何か、なのかな。

ただ、風にはもう一つのとらえ方もある。歴史といってしまえば簡単だが、彼をとりまく時代状況である。 一万機以上もつくったゼロ戦は、とびたって結局一機ももどってきませんでした、という主人公の哀しみに満ちたセリフは、彼をまきこんでとうとうと流れた時代の風を感じさせる。 そういう風の中で彼は「いきめやも」としたのかもしれない。

飛行機というものは機能美というものがもっとも明確にあらわれてくる存在である。飛行機は確かに美しい。そして、美しい飛行機ほど性能がいい。

状況がどんなに激動しても、環境がどんなに変化しても、その中を時代を超えて貫く一本の線のようなものがあると思う。それは、ひとつの信念だったり、思想だったり、あるいは守りとおしたい価値だったり、真理や美や愛といったきわめて抽象的なものだったり、人によってみんな違う表現になるのかもしれない。ただ、そういう線を自覚的にとらえていくかいかないか、その線との距離や関係性において、その人の生き様が決まるような気がする。
 そして、主人公にとってそれは「美しい飛行機」というものでなかったか。 彼はその美しさにとらわれ、それに恋い焦がれるようにして生きてきた。モデルの堀越二郎は戦後も飛行機とかかわりつづけ、YS11の設計にかかわっている。 つまり美しい飛行機を彼は見果てぬ夢のように追い続けていくのである。彼の中にも風は吹き続けていたのかもしれない。幸せだったと思う。

風立ちぬ。いざ生きめやも・・・このことばも人によって違うとらえ方をされるだろう。おいらは関連してひとつの詩を思い出す。前にも書いたかもしれないが、もう一度紹介する。アメリカの詩人ロバートフロストの作品「白い森の中で」の最後の部分である。最後の節が「いざ生きめやも」と共鳴する。でもこういうとらえ方はもう年ということかもしれんなあ。

森はやさしく暗くそして深い
だが私には約束の仕事がある
眠るまでにはまだ何マイルかいかねばな
らぬ
眠るまでにはまだ何マイルかいかねばな
らぬ               




2013年9月23日月曜日

曼珠沙華が咲き出した・・・猫跨ぎ

  常々思っているが、褌子氏の評は核心を突く場合が多いね。トンデモなこともないではないが。俳句に向いている感性があると思う。なのにこれが俳句をはじめないらしい。とにかく風貌によらず羞恥心が強いんだな。別にち○ぽ○を出せと言っているわけではないのだから。
  うちの結社にも九十過ぎの人が何人かいるが、俳句への執念はすさまじい。それが為に生きているといってもいいくらいだ。身体の衰えは隠せないが(とは言え句会に出て来るのだ)頭ははっきりしている。俳句のお蔭と言っていい。自分への内観、他者、自然との関係性の思考、それが十七音の彫琢で絶え間なく実行される。老けるわけにはいかないらしい。
このまえ、102歳の俳人、金原まさ子女史が「徹子の部屋」に出ていた。自らを「102歳の不良少女」、「腐女子」と称し、煙に巻いていた。明晰で綺麗なのにびっくりした。

初秋だね・・・・褌子

やっと朝晩は涼しくなりましたが日中はまだ暑い。
庭に白花の彼岸花が咲いております。
先日、大雪山旭岳に初冠雪とのニュース。9月9日に逸徳さんとロープウエーで登ったときには、やっとナナカマドが紅くなり出したばかりで汗をかきながら噴煙近くまで一周したのだが。
猫跨ぎさんの句を鑑賞する
・鼈甲飴の微塵に砕け祭あと
神社の秋祭りも始まった。御輿の担ぎ手がいなくて何処も困っている。
夜祭りでのベッコウ飴が踏まれて砕けている。季節の移ろいを感ずる
・男らの匂ひ網戸を抜けてくる
これも祭りの風景か。たばこ、酒、焼き鳥の匂い。なにか侘びしい夏の終わりの季節感がある。
・滑走路の先の夏野や将門記
関東各地に平将門伝説が残っている。夏野といっても草いきれよりもススキの初穂か。
朝廷に抗して滅び去ったものへの哀感。飛び立つジャンボ機との対比。
・エジプト争乱瓜番の深ねむり
特選!
・八月の消えては灯る街路灯
やっぱり晩夏だ。滅びの前の蛾。
・万葉は相聞ばかり稲の花
万葉集中、相聞歌の数はどのくらいですか
茜さす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる
紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも
・初潮や倭寇末裔らしき声
室津での一句かも。
和冦末裔らしきとは相当荒々しい漁師の声だったのか
・枯死までの時間ゆらゆら破蓮
時間がゆらゆら過ぎていく。破れ蓮の花がゆらゆら風にゆれている。
お釈迦様だけが知る無限大無限小の時空。先日、台北のホテルで村山斉『宇宙になぜ我々は存在するのか――最新素粒子入門』を読んだ。時間と空間は同じものなんだというのがわかったようで、まだわからない。われ亡くて山辺の桜咲きにけり、だ。
・一本だけ辛き獅子唐昼深し
常住坐臥、観るもの聴くもの、なんでも秀句になるのだねえ。
むかし韓国安東で唐辛子がぶりと食って火がでるほど辛かった。水をのんだらますますひりひりした。ホントにホントに辛かった。
・サングラス外して表情筋豊か
ボクもサングラスの似合うおじいさんになりたかった

2013年9月22日日曜日

昼深し・・・猫跨ぎ

 台風とそれに伴う豪雨なんかで驚いたが、一転して穏やかな気候。中秋の名月を経て、ようやく秋の風情ということになった。
仁ちゃんの丁寧な鑑賞に感謝。

ちょっと付言すると、
・男らの匂ひ網戸を抜けてくる: この季語は「網戸」。開け放した夏の気分だね。この句は、寄合を外から見た風景。

・滑走路の先の夏野や将門記 :成田空港の風景。平将門が此処まで来たかどうかは定かでないが。それから成田闘争で中央権力に戦いを挑んだひとびとと、将門のまつろわぬ反骨を重ね合わせた気分もちょっとある。

・一本だけ辛き獅子唐昼深し : 昼深しは昼闌けると言うような意味。何度か詩歌なんかで見た記憶がある。たとえば、北原白秋に
   大きなる手があらはれて昼深し上から卵をつかみけるかも
というなかなか魅力的な一首がある。

2013年9月21日土曜日

函館通信220・・・名月・・・仁兵衛

 函館は雲が薄らとかかってしまい残念ながら名月ははっきりとしなかった。昨日彼岸参りに行ったが風がひんやりとして季節の変り目が実によく感じられた。大雪山では七合目まで初冠雪があり北海道は足早に冬を向かえ様としている。

 猫跨ぎ氏の格調高い句を評す。

・鼈甲飴の微塵に砕け祭あと ・・・ お祭りで鼈甲細工を見るのは楽しみの一つでした。
・男らの匂ひ網戸を抜けてくる ・・・ 季語が無いけど力強い男等の躍動感すら感じられる。準特選。
・滑走路の先の夏野や将門記 ・・・ 承平・天慶の乱の時代背景をよく理解していないので句の良さが半分しか解らない。
・エジプト争乱瓜番の深ねむり ・・・ 取合せが非常に面白い。特選。瓜番の深ねむりは色んな事を想像させてくれる。
・八月の消えては灯る街路灯 ・・・ 消えては灯る街路灯はいたる所にありそう。
・万葉は相聞ばかり稲の花  ・・・ 今年も沢山の稲の花がつきましたが貴女は如何お過ごしですか。
・初潮や倭寇末裔らしき声 ・・・ 初潮とは陰暦8月15日の大潮とある。歴史を背景にした大きな句だ。準特選。
・枯死までの時間ゆらゆら破蓮 ・・・ 霞ヶ浦付近の蓮田を思い出している。時間ゆらゆらの表現が素晴らしい。佳作。
・一本だけ辛き獅子唐昼深し ・・・ 昼深しが一寸解らなかった。
・サングラス外して表情筋豊か ・・・ 表情筋が何ともユーモアを感じさせてくれた。佳作。


2013年9月19日木曜日

仲秋の名月が・・・猫跨ぎ

中秋の名月が煌々と天にある。。こんな雲のない月夜は珍しい。
九月の十句。

・鼈甲飴の微塵に砕け祭あと
・男らの匂ひ網戸を抜けてくる
・滑走路の先の夏野や将門記
・エジプト争乱瓜番の深ねむり
・八月の消えては灯る街路灯
・万葉は相聞ばかり稲の花
・初潮や倭寇末裔らしき声
・枯死までの時間ゆらゆら破蓮
・一本だけ辛き獅子唐昼深し
・サングラス外して表情筋豊か

2013年9月18日水曜日

台風一過・・・猫跨ぎ

  昨日から台風一過の快晴が続いている。全く何日ぶりかな。風が心地よい。昨日は初物の秋刀魚。主夫としては秋刀魚はまことに有難い。さっと塩してグリルで焼くだけ。何の下準備もいらない。それにしても褌子氏は台湾か。多動爺という言葉はあなただね。

さて仁句を見よう。自然な秋の風景が多いね。
・ 秋桜ゆっくり曲る市電かな
コスモスの揺らめきが背景にある。その撓りと電車のカーブが重なっている。準特選。
・実玫瑰ドクターヘリの横切りて
玫瑰(はまなす)とドクターヘリの取り合わせは、まあ感じるしかないが。
戦後、玫瑰の実は食べたよね。いまはさすがにいないだろうが。
・ さがりだけ握りて戻る九月かな
多分負け相撲か。勝ち力士への歓声をよそに、下がりを握りしめ背に砂を着けて戻って行く。哀感も秋は一入か。特選
・ 色変へぬ松やひそかに笑ひけり
仁ワールドなので通り過ぎよう。
・ 錦秋や溶け出してゆくグラニュー糖
グラニュー糖を福島の核燃料に見立てた解釈を思ったが、多分深読みか。こんな意図で、「大西日赤い岩塩ゆっくり溶け」と作った。
・ 鈴虫や送って下さいファックスで
切れ字の「や」は場面転換だから、ここは、「を」の方がいいかと思うが。それはともかく、音はメールで送れるのでは。方法は知らないけど。西原氏ならたちどころに教えてくれるだろうが。
・ ちちろ虫半額シール付けたまま
ちちろ虫、コオロギ、つづれさせ、とも。虫を売っている屋台か。半額の値をつけられているのも知らずコロコロ鳴いている。
・ 蟷螂や長編漫画の主人公
カマキリは実に色んなキャラクターを持っている。長編だから栄枯盛衰全部演ずるわけだ。
・ 合唱からソロへと替り秋の蝉
まあ、そういうことですね。
・ コンビーフ帯切り損ね後の月
これは始末に悪いね。ペンチなんか持ち出して後処理。最近はあまり食べないなあ。
やっかいだなあという気分と後の月がいい。

台湾で初秋の俳句鑑賞:::こんし

  台北からです。千葉より涼しいくらいです。近所のおじいちゃんの懇願で同行し台北にきた目的達成しましたので小籠包がおいしい。仁ちゃんの俳句を鑑賞しています。
・秋桜ゆっくり曲がる市電かな
 市電がごとごとのんびり走る風景はいいですね。コスモスのシーズンとなりました。函館のナナカマドの並木も紅葉がはじまったことだろう。
・実◎◎ドクターヘリの横切りて
 パソコン持ってきてないので◎◎の読み方に苦労したがiPhoneで検索するとマイカイとか読むらしいが…。ハマナスの赤い実という季語らしい。静と動の対比あざやか
・さがりだけ握りて戻る九月かな
 さがり、は相撲取りの褌の前にさげているヒモだと解した。力士がよくみせる仕草をずばりとらえた秀句。國兼さんも、さがりをたくさんぶら下げた褌にすると見栄えがいいねえ
・色変えぬ松やひそかに笑ひけり
 松竹梅の筆頭、松は目出度い木だ。白砂青松。日本人がいちばん好きな風景。ひそかに笑うが、なにやら意味深。美保の松原で天女が羽衣を松の木にかけて、一糸まとわぬストリップショーを演じて老松が思わず、こりゃまたとない目の保養。長生きするわいと、ひそかに笑ひけり… 逸徳さんも静岡だから眼福うらやましい
・錦秋や溶けだしてゆくグラニュー糖
 紅葉みながらあわてずさわがずブルーマウンテンかキリマンジャロか。
・鈴虫や送って下さいファックスで わかりやすい。松虫でもよいがどうしてもリーンリーンの鈴虫でないと
・ちちち虫半額シール付けたまま
 チンチロリンでなく、ちちちと鳴くのは何だっけ。蟋蟀?
・蟷螂や長編漫画の主人公
 カマキリは奇っ怪な愛すべき虫で漫画の主人公のイメージがふくらむ。交尾真っ最中にメスに食われるオスが本当に気の毒。人間のオスに生まれてよかった。
・合唱からソロへと替わり秋の蝉
 この句が一番気にいりました。特選。夕闇せまるころカナカナと蜩に鳴かれると、諸行無常のひびきあり。
・コンビーフ帯切り損ね後の月
 あの缶詰のブリキの帯は切り損ねると厄介なんだ。ゆんべ飲んだ台湾ビールのプルタブも折れてしまい厄介であった。ついでにいうと泊まっている福華大飯店という上級ホテルなのに、トイレはまだ日本式洗浄水がぴゅーと出てこないタイプ。あれは本当に日本人の大発明である。痔主だった小倉さんも私もTOTOに感謝している。・・・ところで原発といえばトイレのない高級ホテルみたいなもの。海洋にまで流出する膨大な放射能汚染水の前に呆然と立ちすくんでいる東電。この会社は破綻処理し日本政府の全責任で汚染水問題を解決して廃炉に向かうとき。いまこそ、人類のもつ技術を総結集するときだ。待ったなしの人類的危機。ホテルのフロントでの日本人女性は原発から子供と逃げてきた宮城の女性だった。放射能で太平洋の魚を汚染しながらオリンピックなんてちゃんちゃらおかしいですといっていた。

2013年9月17日火曜日

函館通信219・・・台風・・・仁兵衛

 函館もだいぶ雨は降ったが今回の台風被害は殆ど無く終わった。昨日の虹と大夕焼、今日の青空が本当にまぶしい。
 40年前にいわきで、30年前に関西で台風による水被害を経験しているが今マンションの四階に住んでいると水害意識は皆無に近いものになっている自分に気がつかされる。台風、竜巻、水害、地震、火山噴火等といった自然災害は当り外れがあると言ったら怒られるかも知れないが福島原発の様に自然災害の後に起こされた人災には憤りだけを感じざるを得ない。
 原発近くに37年も住んでいたので余計その思いが強いのかも知れぬ。近作十句。

 ・ 秋桜ゆっくり曲る市電かな
 ・ 実玫瑰ドクターヘリの横切りて
 ・ さがりだけ握りて戻る九月かな
 ・ 色変へぬ松やひそかに笑ひけり
 ・ 錦秋や溶け出してゆくグラニュー糖
 ・ 鈴虫や送って下さいファックスで
 ・ ちちろ虫半額シール付けたまま
 ・ 蟷螂や長編漫画の主人公
 ・ 合唱からソロへと替り秋の蝉
 ・ コンビーフ帯切り損ね後の月

2013年9月16日月曜日

台北から・・・こんし

いま台北に来ています。遊びではありません。純粋に仕事で82才のおじいさんといいホテルに泊まって81才の高雄のおじいちゃんと三人で美味しい紹興酒をいただいています。成田空港では台風で飛行機が飛び立つかハラハラしましたが、無事、台湾に着くことができました。いい天気でしかもあまり暑くありません。iPhoneひとつ持っていれば、パリからでも、台北からでも簡単に発信できます。いわゆる携帯メッセージならWi-Fiにつながなくてもメッセージを日本とやりとりできるので全く便利な世の中になったものです。

バレンティン・・・猫跨ぎ

  台風はこちらはさほどのこともなく北関東を駆け抜けているらしい。雲が切れて青空が見えてきた。京滋は大雨で、渡月橋が冠水したことを報じていた。
  バレンティンが55号の日本記録を塗り替えたね。ホームランレースの2位がブランコの36号だから、とにかくずば抜けたペースで、タダモノでない。
  ひところ王の記録が何か神聖視されていた。阪神のバースが絶好調で、55号を破る勢いだったが、野球界のみならず世間もなにか金縛りにあったみたいになり、四球を繰り返し、結局54本で終わってしまった。なんだか後味が悪かったのを覚えている。外人助っ人にたいする一種の差別が根底にあった。
今は様変わりだ。バレンティン頑張れの横断幕が出るし、マスコミも当然視していた。いつまでも神話は続かない。記録が破られる前から、もう憑き物が落ちたみたいな雰囲気だった。日本人も大リーグで結構やっているし、彼我の違いをあれこれいう雰囲気もなくなってきたという事だろう。国際化というか平準化というか、こんなところから始まるのだろう。

2013年9月14日土曜日

科学誌Natureまでが安倍内閣批判・・・・褌子

神戸女学院大学の内田樹先生は引用自由ですといっているので『Nature』誌の内田先生の抄訳文をそのまま転載する。
―――――
9月3日のNature のEditorialに福島原発からの汚染水漏洩への日本政府および東電の対応について、つよい不信感を表明する編集委員からのコメントが掲載された。
自然科学のジャーナルが一国の政府の政策についてここまできびしい言葉を連ねるのは例外的なことである。
東電と安倍政府がどれほど国際社会から信頼されていないか、私たちは知らされていない。
この『ネイチャー』の記事もこれまでの海外メディアの原発報道同様、日本のマスメディアからはほぼ組織的に無視されている。
汚染水の漏洩で海洋汚染が今も進行しているとき、世界の科学者の知恵を結集して対応策を講ずべきときに、日本政府は五輪招致と米軍のシリア攻撃への「理解をしめす」ことの方が優先順位の高い課題だと信じている。五輪招致を成功させたければ、まず事故処理について日本政府は最大限の努力をもって取り組んでいるということを国際社会に理解してもらうのが筋だろう。
だが、招致委員長は「東京と福島は250キロも離れているので、心配ありません」という驚くべき発言を昨日ブエノスアイレスで行った。海外の科学者たちが「福島の事故は対岸の火事ではない。私たち自身に切迫した問題だ」という危機意識を持って国際的な支援を申し出ているときに、東京の人間が「福島の事故は250キロ離れた『対岸の火事』ですから、五輪開催に心配ありません」と言い放っているのである。怒りを通り越して、悲しみを感じる。
英語を読むのが面倒という読者のために『ネイチャー』の記事の抄訳を試みた。
■■■
破壊された福島の原子力発電所から漏洩している放射性物質を含んだ流出水は、1986年ウクライナでのチェルノブイリ・メルトダウン以後世界最大の原子力事故の終わりがまだ見通せないことをはっきりと思い出させた。
��011年3月に福島原発に被害を与えた地震と津波の後、この地域を除染するための努力は今後長期にわたるものとなり、技術的にも困難であり、かつとほうもない費用を要するものであることが明らかとなった。
そして今またこの仕事が原発のオーナー、東京電力にはもう担いきれないものであることがあらわになったのである。
日本政府は9月3日、東電から除染作業を引き継ぐ意向を示したが、介入は遅きに失した。
事故から2年半、東電は福島の三基の破壊された原子炉内の核燃料の保護措置についての問題の本質と深刻さを認識していないことを繰り返し露呈してきた。
毎日およそ40万リットルの水がロッドの過熱を防ぐために原子炉心に注水されている。汚染された水が原子炉基礎部に漏水し、コンクリートの裂け目を通じて地下水と近隣の海水に拡がっていることを東電が認めたのはごく最近になってからである。
東電以外の機関による放射能被曝の測定は難しく、私たちが懸念するのは、この放射能洩れが人間の健康、環境および食物の安全性にどのような影響をもたらすことになるのかが不明だということである。
問題はそれにとどまらない。使用済みの冷却水を保存している1000の貯蔵庫があり、これらは浄化システムによる処理を経ているにもかかわらずトリチウムやその他の有害な放射性核種を含んでいる。漏洩はこのシステムがいつ爆発するかわからない時限爆弾(laxly guarded time bomb)だということを明らかにした。
ゴムで封印されたパイプや貯蔵タンクが漏水を引き起こすことは誰でも知っていることである。東電が漏水を検知する定期点検を信頼していたというのは無責任とは言わぬまでも不注意のそしりは免れ得ない。(careless, if not irresponsible)(・・・)
政府の過去の対応と情報政策から判断する限り、日本政府も、東電と同じく、この状況を制御し、パブリックに対して情報を開示する能力がもうないのではないかという疑念を抱かせる。(Given the government's past actions and information policies, one might doubt whether it would be any more competent than TEPCO at managing the situation and communicating it to the public)
週明けに、漏水しているタンク付近の放射線量は最初に報告された数値の18倍であることがわかった。漏水は当初ただの「異常」とされたが、のちに真性の危機(a genuine crisis)であることがわかったのである。
日本は国際的な専門家に支援のための助言を求めるべきときを迎えている。米国、ロシア、フランス、英国などは核エンジニアリング、除染および放射線の健康被害についてのノウハウを持っており、日本の役に立つはずである。
国際的な研究と除染のための連携はモニタリングと危機管理の有用性と有効性についての粉々に打ち砕かれた信頼(shattered public trust)を回復するための一助となるであろう。漏水が最も大きな影響を及ぼすのは福島沖とそこから拡がる太平洋への影響である。この影響については精密なモニターがなされなければならない。
日米の科学者によって2010年と2011年に行われたアセスメントでは二つの重大な問題が答えられぬまま残った。どれだけの放射能が海洋に浸入しているのか?原発事故以後長い時間が経ったにも拘わらずいくつかの種において高いレベルの放射能が検知されているわけだが、問題の地域の魚介類の消費がいつ可能になるのか?漏水によって、これらの問いへの答えることが喫緊の課題となっている。(・・・)
安倍晋三首相と彼の政府は科学研究支援を約束した。彼らには情報を集め、それを共有することを通じて世界中の研究者を激励し、支援する義務がある。チェルノブイリでは科学者たちは原発事故後に何が起きるかについて研究する機会を逸した。福島ではせめてそれだけでも成し遂げたい。

2013年9月13日金曜日

総力戦・・・猫跨ぎ

  オリンピックが来ようが来まいが、福島の事故は制圧し収束させねばならない。安倍首相の発言は国際公約と考えればいい。言うように、これは国難であり、いや人類への挑戦、災禍だろう。地下水が千トン/日、原発敷地へ押し寄せているなんて想像もしていなかった。まずこれを原発と切り離すことが前提は誰でも判る。その上の燃料冷却だが、工程に入っている抜本策はないのかねえ。鉛による冷却は初耳で惹かれる。良く理解できない所があるが期待したい。
しかし喫緊の懸念として、いま直接作業にあたっている人たちのモラル継続だ。これで行くという明確な目標のないまま、ある意味絶望的な毎日を送っている。積み上げては崩れる石を今日も積むというシジフォスの神話の如く。何時までもつか。国家総力で知恵を絞るしかない。

『日刊ゲンダイ』から小出裕章先生が語る・・・褌子

    「放射能は完全にブロックされている」「コントロール下にある」。IOC総会で、安倍首相は汚染水について豪語。首相の言葉はすなわち、国際公約になった。現地では今も1日400トンもの地下水が壊れた原子炉建屋に流れ込み、海に漏れている。原子力の第一人者小出裕章京大助教はどう見ているか。
■「首相は何を根拠にコントロールできていると言っているのか。福島原発は今、人類が初めて遭遇する困難に直面、想像を絶する状況が進行している。
■「汚染水の現状は予想できたこと。事故が起きた福島原発では溶けた炉心の核燃料を冷却する必要がある。水を入れれば核燃料に触れた水の汚染は避けられない。福島原発は水素爆発で原子炉建屋の屋根が吹き飛び、地震と津波で、施設のあちこちが壊れている。汚染水は必ず外部に漏れてくる。それが原子炉建屋やタービン建屋の地下、トレンチといった地下トンネルにたまり、あふれ出る。誰が見ても、当たり前のことが起こっている」
■政府の汚染水対策の柱は「凍土壁」と、汚染水から放射性物質を取り除く多核種除去装置「ALPS」の増設・改良。「ALPS」が稼働すれば状況は改善されるのですか。
「動かさないよりも動かした方がいい。しかし、汚染水問題の根本解決は困難。汚染水の濃度があまりに高いから。法令上の基準値は1リットル当たり30ベクレル以下。しかし、先日、福島原発の地上タンクから漏出した汚染水は1リットル8000万ベクレルと報道されている。許容濃度にするには、300万分の1以下に処理しなければならない。私は不可能だと思う。さらに、トリチウムは三重水素と呼ばれる水素ですから、水そのもので、ALPSで除去することはできない」
■凍土壁は効果ありますか。
「遮水壁は鉄とコンクリートで造るべきだ。耐久性があり、最低でも10~20年は持つ。しかし、造るのに時間もカネもかかる。待ったなしの状況を考えれば、急場しのぎの凍土壁も造った方がいい。ただ、凍土壁が冷却に失敗したら地下に巨大な穴が開く恐れがある上、何年維持できるのか分からない。最終的には、やはり、凍土壁の周囲を鉄とコンクリートの遮水壁で覆う必要がある」
■小出さんは最近、水を使った冷却をやめるべきと言っていますね。
「水を使い続ける限り、汚染水は増え続ける。今のような状況は何としても変えなくてはなりません。重要なことは冷やすこと。つまり、冷やすことさえできれば、手段は問わない。金属を使うことが考えられます。仮に(融点の低い)鉛などを炉心に送ることができれば、最初は熱で溶けて塊になるものの、塊が大きくなるにつれて次第に熱では溶けなくなる。その後は自然空冷という状態になる。ただ、これが確実に有効な対策かと問われると正直、分かりません。金属の専門家などを集めて知恵を絞るしかありません」
■福島原発はどうすれば廃炉できるのでしょうか。
「チェルノブイリ原発のように石棺しか方法はないと思います。ただ、事故から27年経った今、コンクリートのあちこちが壊れ始めている。福島は事故を起こした原子炉が4基もあり、石棺にするにしても、使用済み核燃料プールにある燃料棒は必ず取り出す必要がある。その燃料棒の取り出しに一体何年かかるのか…」
■簡易型タンクで急場をしのぐだけの東電の後手後手対応にも呆れます。
「現場は猛烈に放射線量が高く、一帯は放射能の沼のようになっている。貯水タンクを溶接型にしたり、漏出がないかどうかを24時間体制で監視すれば、確実に作業員の被曝線量が増える。つまり、作業を厳格にしようとすれば、その分、作業員の被曝線量が増えてしまう。だから、場当たり的な作業にならざるを得ないのだ」
「チェルノブイリでは、収束のために60万~80万人が作業に当たりました。27年経った今も、毎日数千人が作業しています。原子炉1基の事故でさえ、この状況です。福島は原子炉が4基もある。一体どのくらいの作業員が必要になるのか見当もつきません」
■それなのに安倍政権は原発を再稼働する気です。
「町の小さな工場でも毒物を流せば警察沙汰になり、倒産する。しかし、福島原発の事故では東電はいまだに誰も責任を問われていません。電力会社が事故を起こしても免責になることに国が“お墨付き”を与えたようなものです。だから、全国の電力会社が原発再稼働に走るのです」

2013年9月12日木曜日

神に誓って真実を述べます・・・・逸徳

釣り人の話は、ひとつの物語である。それはきちんとした展開と山があって、感動(本人のみ)がある。 つまり物語は、必ずしも真実ではない。周知のことであるが。 そこにきて、釣り人の性格がある。 彼は、感動するとそれを何回も繰り返し言葉にする。 それは丁寧であり、心がこもっている。だが、どういうわけか、次のような格言が、ふっと頭に浮かぶのだ。いわく「おなじうそでも1000回いいつづけると真実になる・・・・・」 (これで奥さんをだましたのか。)
閑話休題 
というわけで、確かに吊り上げてすぐのヤマメを炭焼したのはうまい。 (ムニエルなんかもいいかもしれない) だが、サイズはまあ好意的にいって8がけだな、まあ。しかし、それもいい。 釣り人にとっては、逃がした魚は常に巨大であり、常に水中にうかがく魚影は大群なのだ。かれはつりあげた後も、その気分を持続しているに過ぎない。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ほんとにニクメナイイイヒト

泊まったファームイントントで柳生さんの弟さんと話したのだが(いつつ違いとうかがったが)ほんとにほんとに柳生君とそっくりで、特にしゃべり方など目をつぶって聞いていると聞き分けができない。そして、生き方がかっこういいと思う。羊の話をしたけれど、取り組む仕事に対する思いがつたわってきて、男としてうらやましく思った。 

2013年9月11日水曜日

深山幽谷の巨大魚・・・褌子

  ひょいと昔の飛鳥旅行の民宿の名前を思い出した。民宿脇本だね。
  前泊は国兼さんや小林さんと興福寺、東大寺、春日大社それに新薬師寺などいった。唐招提寺は工事中だった。
―――――美深のつづきです。
 三人でトロッコ列車に乗って松山湿原へ。山内さんは宿の村上春樹の本を読みたいというので独りで歩いて帰る。山の上の湿原は誰もいないと思ったら、木道上に無心にチョウチョウを凝視している青年に出会った。蝶の研究家ですか?と声をかけたら、旅人です、とキザな答えがかえってきた。名古屋からきたという。(とにかく人にはめったに会わない。美深の街も過疎化でがらんとしている)
車で帰る途中に道北の滝を撮影しているという青年に会う。いい滝を紹介しますというので車でついて行くと、深山のなかの名瀑だった。滝壺の周辺に目をこらすと50センチくらいのニジマスがユラ~とみえるではないか。宿に帰ると釣り竿も餌用のイクラもあるという。
翌朝、五時に宿を出て霧の山道を40分走って、昨日の滝壺に着く。イクラを三粒くらい釣り針にさして第一竿。一時間以上もねばるがぜんぜん当たりがない。ふとスコップでそばの雑草を掘って出てきたミミズをつけてみた。とたんに二匹も14~15センチのきれいなヤマメが釣れた。さらに30センチくらいのヤマメと40センチの黒っぽいマスを釣り上げ、歓声をあげる。宿で心配しているから、帰ろうとしきりに女房がいうので、チクショーまだ巨大ニジマスが…と後ろ髪を引かれる思いで帰る。宿では山内氏やほかのお客さんが、まだ飛び跳ねている魚をみて大騒ぎ。早速、塩焼きにして食ったが、深山幽谷で苦闘1時間半、釣り上げた魚の大きさは塩焼きを食った山内氏が本欄で証言してくれるはずだ。
 もう帰る日である。白樺樹液100%の『森の雫』をたくさんお土産にもらって、旭川へ。富良野岳、十勝岳、美瑛岳、トムラウシの連峰を一望する望岳台にのぼり旭川空港から帰途についた。
  レンタカーの運転ができないかわり、終始、車中で面白い話をしては居眠り運転防止にがんばった山内さんに本欄をお借りしてお礼を申し上げます。【宿の裏の白樺林で柳生氏の奥さんと】

2013年9月10日火曜日

美深......konshi

 朝、寒いくらい。大雪山の旭岳に車で向かう。途中、旭岳源水に寄る。いつも寒暖計を胸に指している逸徳さんの測定では名水の水は8℃。忠別ダム湖をみて旭岳ロープウエーへ。紅葉はまだ。ナナカマドだけが色づいている。ミヤマリンドウのうすむらさきに何度もみとれる。はじめてきた旭岳。地獄谷からさかんに蒸気を噴き上げている。一瞬、ガスが晴れて山頂までくっきりと見えた。北海道最高峰。
 高速道を飛ばして美深へ。高速道は熊は歩いてないが車も走ってない。やっと松山牧場に着く。白樺林を背に広大な羊の牧草地に面して柳生さんの弟さんのペンションがあった。風貌だけでなく物腰、話しぶりまで兄貴そっくり。みんなにそういわれます。六才も離れていて子供の時にはぜんぜん似てなかったのに、と弟さん。四十年ぶりくらいのジンギスカン。昔はもうもうと肉の油が燃えて屋内では臭いが大変だったが、柳生牧場のマトンは脂身がなくて柔らかくいくらでも食べられる。羊のソーセージ、ヨーグルトも旨い。奥さんは気さくなひとで、都会から来て母子で住みついている小中学生の山村留学の話などに花が咲いた。都会で働いている子供の父親は休日にやってくる。高校は美深高でなく旭川や札幌に行ってしまうとのこと。
 夜、星を見に出たら真っ暗で懐中電灯がないと歩けない。。北斗七星をこんなにはっきりみたのは何十年ぶりか。

2013年9月9日月曜日

旭川の朝、ホテルから、、、、こんし

夕波千鳥は荒都歌の一節だと思っていました。荒都歌は長恨歌のように延々とつづく長歌だったように思う。近江神宮は皇紀2600年の紛い物だったんですね。行ったのは四十年くらい昔だが、たしかに歴史のにおいがさっぱりしなかったし時計博物館も貧相だったし。そばの日吉大社は全国日吉神社の総社たる雰囲気だったが。ここは長浜旅行の時に前泊で國兼、小林さんたちと行きました。山内さんも加わって大津の飲み屋でモロコの塩漬けを一匹まるごと食ったがものすごく塩辛く閉口した。ゆんべの旭川の飲み屋天金の焼きたてのホッケもカレイも旨かったなあ。アンキモもこってりした味で男山とじつに相性が。岩牡蠣は山内君が三つとも独り占め・・・
 おっと話がそれた…あのとき、比叡山から坂本に降りてきて穴太アノウ積みといったか石ころを積み上げた堂々たる石垣をみた。恥ずかしながら崇福寺とか西教寺とかは記憶なし。石山寺はいい寺だったが三井寺はおおざっぱな感じ。延暦寺と覇権を競った園城寺のころから何度も火事にあっているのではないか。延暦寺だって信長に全山焼き討ちにあっていることだし。小さな寺だが義仲寺がよかった。芭蕉の墓と巴御前の墓があったように記憶する。
 國兼さんが書いている博多湾の防塁は、白村江から逃げ帰って作ったものではなく、六百年も後の世の元寇防塁ではないか。わたしは見にいったことがあるが今も海沿いの松林のなかに残っている。古代の防塁は猫跨ぎさんが書くように太宰府をまもる水城だと思うが。この、みずきも跡地がかなり残っている。玄界灘をこえて攻めてくる唐・白羅連合軍を水際で防ぐのでなくこんな内陸部の水城で守ろうと考えたのも、平地の明日香でなく琵琶湖沿いの大津京で都を守ろうとしたのも、なにか現代人の目からすると見当はずれな感じもするがやっと律令制度をととのえたばかりの朝廷は死にものぐるいだったのだろう。
いぜん日本と同盟していた百済の都、扶余にいった。百済滅亡のさい三千人の官女が身を投げたという白馬江を崖の上からのぞき込んだ。この川を船で下っていくと河口が白村江の古戦場なのか…とおもったが日程で行きそびれた。たしかこの旅は猫跨ぎさんと行く計画だったが奥様の体調で…。そこでむかし理学部地質学科にいた江川君といった。慶州で十一面観音やみろく菩薩をみたときには朝鮮半島と日本の一衣帯水を感じたものだ。
 さて、飛鳥旅行の民宿名が思い出せない。ママさんは可憐な五本さんを少し大振りにした感じであった。牛乳したての水炊きだったな。玄関にウメモドキが紅葉していた。小倉さんが二上山にいくと行っていたが、大津皇子の墓があるそうで、あとで黒岩重吾作品をよんだときに二上山に行きそびれたことを後悔した。

近江神宮・・・猫跨ぎ

  近江神宮は皇紀2600年創建の皇国史観丸出しの、まあ紛い物だね。朱塗り赤々とさっぱり有難くない。時計博物館も何やら穴埋めしているようで淋しい。あえて当時を偲ぶには、郊外の高台にある崇福寺。礎石しか残っていないが雰囲気がある。これも見方に依れば、この都の防御の拠点だね。この寺はその後もしばらくは存続した。
  天智天皇陵は京都よりに鎮まっている。そうそう弘文天皇陵が大津市内にある。弘文天皇とは敗死した大友皇子に贈られた諡号。まあこの陵は全く嘘くさい。
  それから一寸付言すると、夕波千鳥の歌は確かに人麻呂作だが、「近江荒都歌」とは別。これは長歌。万葉集の編纂は、どうもよく判らん所がある。同種の歌が飛び離れて存在する。頭の構造がちょっと変わっているんだね、今と。

男山で魚たらふくか。結構だねえ。好哉、好哉。

2013年9月8日日曜日

いま旭川 褌し

人麻呂は荒れた都をしのんで
おうみのみ夕波千鳥ながなけば心もしのにいにしへ思ほゆ
明日香から琵琶湖を近い江つまり近江、遠い江は浜名湖の遠江のくにつまり遠州だ。大津京のあとは何もないが天智天皇を祀る近江神宮には古代の時計である漏刻がのこっている。
額田王は天智、天武の両兄弟の愛人だったのだから後の世のお市の方をもしのぐ日本歴史上一番の才色兼備の女性だったのではないか。
いま、逸徳さんとうちの女房と三人で旭川にいる。男山の熱燗を二合のんで旨い魚をたらふく食ってホテルにかえったところ。明日は
松山農場だ。空港からみた夕陽が綺麗だった。
足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾之 長永夜乎 一鴨將宿

明日香のこと・・・猫跨ぎ

  明日香旅行は2006年ね。もう7年になるんだね。案内役の河野君も逝ってしまった。何か茫漠とした気持になる。
  熱田津は、今の松山にあったことは判るが、どこの地点だったかは判然としないらしい。新羅・唐連合にこてんぱに負けて逃げ帰った中大兄皇子は、太宰府に大規模な防護壁をつくり、さらに都を琵琶湖に面した近江京(今の大津)に移したのもその一環だった。天智天皇(中大兄皇子)が死に、壬申の乱で大海人皇子が権力を握ると、都はさっさと元の明日香に戻したことからも、近江京がいかに付け焼き刃だったかが判る。近江はたちまちに寂れ、それを悲しんだ柿本人麻呂が 「近江荒都歌」を万葉集に詠っている。
  額田王は生没不詳のひと。中大兄皇子と大海人皇子の両方に関わった魅力的な女性だっただけでなく、あんな歌を詠うところをみると、それなりの立場にいたのかとも想像するが、これも詳細は判らないらしい。宿の裏の墓碑は、まあ後世の私的な記念碑みたいなものじゃないかな。
ついでに、先日、室津で見た、山部赤人の句碑のことを記すと
「玉藻刈る唐荷の島に島廻する鵜にしもあれや家思はざらむ」 
��美しい藻を刈る唐荷島をめぐり飛ぶ鵜だからとて、家を思わないだろうか)
赤人は宮廷歌人で、天皇の行幸に随行した。西へ下る船上で、はるか都の妻を思い詠ったもの。
唐荷島は室津の沖の小島で、名前は唐の船が破船して荷が流れ着いた故事からとの説明があった。海藻を刈り取る場でもあったらしい。唐荷島を臨む岬にこの碑が建っている。
��写真は、沖の小島が唐荷島。小高い賀茂神社から臨む。瀬戸内海の海は透き通って予想外に綺麗だった。)

明日香の思い出…国兼

褌子さんが熟田津で額田王が詠んだ万葉の歌を書いたのを見て(最初は又いい加減な漢字を思いつくまま羅列したのではと思っていたら、よく見ると…真面目な万葉仮名で)、2006年の明日香の旅を思い出した次第。河野、八田両氏の実に行き届いた案内のおかげで楽しい旅をした。
 
 その時宿泊した旅館が良かったネ(名前が出てこない)。その旅館の裏山に「額田王」のお墓があると、驚いた記憶がある。実に明日香は古き日本の歴史に富んだ町であると。その時みなと別れて猫跨ぎさんと訪れたのが犬養 孝の記念館であり、そこで彼の著書である「万葉の旅:上、中、下」を購入した。犬養先生の本によると、褌子さんの書いた万葉仮名は現代語で書くと

「熱田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」と。

斉明天皇の7年(661年)、百済からの救援の依頼に新羅征討のために筑紫に向かった軍団が、伊予の宿泊地である熱田津で額田王が詠った歌であると。この軍団はその後「白村江の戦い」で新羅・唐の軍勢に完敗し、その報復を恐れ博多湾に防壁を構築することになる。この歌はその歴史的出来事の最初の一コマといえる。額田王も大海人皇子との間に姫を生んだらしいが、謎おおき人物らしい。

2013年9月5日木曜日

古代日本の港・・・褌子

 室津、坊津、熟田津など古代の湊は、北前船の寄港地なぞよりずっとロマンを感ずる。
  坊津は鹿児島だが、熟田津は伊予は松山港あたりらしい。清盛の大輪田の泊がいまの神戸港か。
  小生は遣唐船の帰り舟の出港地だった中国の寧波にいってみたいと思っている。鑑真和尚の揚州、魯迅の紹興も行きたいところ。しかし寧波も最近の改革開放の喧騒でそんなむかしの跡形もないそうだ。パリで晩飯を食いに行った揚州出身の一家は鑑真を知らなかった。
   額田王 熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜

2013年9月4日水曜日

室津・・・猫跨ぎ

  ちょっと留守にしていたら昔話に花が咲いている。もう何というか、かなり朧の彼方だね。余り覚えていない。たまにそのころの夢をみるが、大学の研究と会社の仕事のあれこれがごっちゃになって、時間に追われている割りにははかばかしく進捗せず、胸苦しい中味ばかりだ。あまり夢見がよくない。何故かなあ、良いこともちょっとはあったんだけれど、さっぱり現れない。目が覚めて、そうかみんな終わってしまったんだなあと、深い開放感と、ほろ苦さに襲われる。
 俳句の関係で岡山に行ってきた。終わってから、室津へ。播磨灘に面する小漁村。しかし奈良時代には播磨五泊の一つの要港。遣唐使船も碇泊。中世は倭寇の根拠地。江戸時代は瀬戸内海航路の寄港地で殷賑をきわめたという。遊郭が沢山あったことでも有名。
いまは何も残っていない。静まりかえった寒村。小高い岡に登りぼんやりと眺めた。港の規模ははなはだ小さい。まことに可愛らしい船だまりでしかない。こんなところから遣唐使船がでたのか。清盛も寄港したという。岬に万葉の歌人山部赤人の歌碑があった。
  帰りしな雨が降ってきた。バスに時間があるので、「きむらや」という割烹旅館に飛び込んでビールだけ注文。もしやと思って、主人に司馬遼太郎のことを聞くと、「そうなんです、三泊されました」と。『街道をゆく』の取材に来ている。「あの方は、魚が駄目なんです。肉しか召し上がらないので、往生しました」。へー、聞いてみなけりゃ判らない。そんなことひと言も書いていなかった。

艶利己=笛瑠美・・・・褌子

   日曜日から、逸徳さんとうちの夫婦で、柳生君の弟さん経営の美深松山牧場を訪ねることになった。
  旭川空港に飛んで、旭川で一泊し、盛大な前夜祭の酒を飲み、翌朝からレンターカーで松山牧場に向かい二泊する。ジンギスカンや羊乳や白樺樹液を飲むのが楽しみ。ジンギスカンは、日本酒や焼酎にあうんだ。ジンギスカンは40年くらい食べてない。
  昔、ポプラ並木で昼にジンギスカンやって、第2講座の輪講に遅刻してでたら、臭いがすごいと隣の窈子さんにくりくりした目で叱られた。逸徳さんには悪いが、僕たち叱ったり叱られたりする仲だったんだね。輪講はEnrico=Fermi 『Thermodynamics』で緑色っぽい薄い冊子だったが、まだ捨てないでとってある。

2013年9月2日月曜日

忘却の彼方から・・・・褌子

 むかしの話で九州と北海道で盛り上がっていますな。
  記憶にある西浦温泉というのは仁ちゃんがいうとおり、知多半島蒲郡にあることがわかった。
  たぶん、仁ちゃんや栄蔵さんが奥多摩の御岳で同級会はじめて、二回目くらいが西浦温泉かもしれない。
 この西浦温泉旅行ではこんなことあった。東京駅で新幹線こだまに乗った。となりにも紳士が座った。となりの紳士が中公新書の何とかいうのを読み出した。こっちは缶ビール飲みながら、ふーん最近のサラリーマンもまじめな本読むんだなあとおもったものだ。そして名古屋で降りようとしたら隣の紳士も降りる。ひょいと顔見たら何と中川徹君だった。
  西浦温泉のあとはどこにいったか記憶がないが、仁ちゃんが書いているように、北海道へ何回か行ったようにおもう。札幌全日空ホテルで五本さん山田君に会った記憶がよみがえってきたから。とにかく仁ちゃん、英蔵さんなしにはこんな楽しい同級会をえんえんと続けることができなかった。本誌上をお借りして深甚からの感謝を申し上げたい。
  小生の就職のはなしだが、札幌北高定時制で教育実習やって教職資格をとった。四年生の夏休みに、桑園寮でいっしょだった文学部の本多君の実家の標茶に、仁ちゃんのあと遊びに行ったことがあり、道教委の面接試験でどこに行きたいかときくので標茶高校といいかげんなこと言ったが不採用だった。採用されていたら五本さんの母校、名門釧路なんとか高校にも赴任し、逸徳先生に負けないような立派な教師人生を歩んだかも。
  教職だめでした…と中川先生にいうと、君に向いている会社がある。戦争中、海軍中尉として軍用機の四エチル鉛開発でマルマル曹達二本木工場にいたんだが、妙高山のみえる風光明媚なのんびりした山のなかの工場。いっしょに仕事した当時の先輩が取締役になっているのでと紹介状書いてくれた。筆記試験がなく簡単な面接だけで採用になった。(東京での入社式は仁ちゃん宅に泊めてもらった)――― が、8年間も給料だけもらって辞めてしまったのだから、中川先生にも会社でお世話になった先輩諸兄にも申し訳ない。もう鬼籍に入ったひとが多いが、いいひとばかりだったなあ。時代もいい時代だったんだな。
  親から生まれる時から、人生は偶然の積み重ね。「生は偶然、死は必然」(と、尾道の貧乏寺の山門に書いてあった)  

2013年9月1日日曜日

誤字訂正    九州の熊

いわきは「磐木」ではなく「磐城」だったかな? いまは「いわき市」。

それは驚き!   九州の熊

いやいやそんな秘話があったなんて・・。覚えていないし仁ちゃんの発言もまったく記憶にありません。当時は(いまでもそうだけど)物事の判断をあまり深く考えないで決めるたちだったので。でも今になって考えてみるとどちらでもよかったような・・。仁ちゃんにみちを譲っていたらわたしも仁ちゃんも違う人生を歩んでいたことになる。それはそれでちょっと興味があるねぇ。磐木の方が都会(東京)に近いのでわたしはあまり馴染めなかったかもしれない。

函館通信218・・・有難う・・・仁兵衛

 九州の熊さん、激励のお言葉有難う御座います。兎に角身体をだましだまししながらも生を愉しみます。今後とも宜しくご指導下さい!。
 記憶の続きですが昭和40年の6月だったと思います。私が住友化学の入社に落ちて札幌に戻って次の会社を選ぼうと貼紙を見ていたら熊さんが冨士フィルムを断られて(この年冨士フィルムは正規募集をしてなかった)来てやはり次を探し始めました。熊さん曰く北海道から出来るだけ遠くを選びたいと旭化成を選択しました。実は私が受けたかった訳ですよ。先に言われてやむなく呉羽を選びました。ほんの僅かな言葉がその後の50年を決定付けて現在に至っています。熊さん覚えていますかね。

2013年8月31日土曜日

懐古趣味    九州の熊

ずいぶんあちこちに出かけたり飲んだりしてたんだねぇ。こちらにはついぞお誘いの声かけがなかったのだ。疎遠が疎遠を呼ぶ。身から出た錆だ。しゃあないか。 ホロホロ会では一時ブログ上で句会が盛んに行われていて特選だ、準特選だとにぎやかだった。疎外感を味わっている、とすねた投稿に応えてくれたのは猫爺さんだった。優しい対応に猫爺さんの人格をみた思い。なんだかんだといってもホロホロ会は癒しの場だと改めて思う。蛇足:句作を忌み嫌う気はまったくありません。ねんのため。
仁ちゃん、体調が万全でない由、お見舞い申し上げます。最近なぜか天気予報をみるときにこちらの情報確認のついでに函館方面の日よりをみることが増えた。今年はとくに道南周辺の寒気と大雨が長く続いているような。仁ちゃんの足の痛さがこちらにも伝わってくる気がした。あまりじたばたせずに気長に体調と付き合うしかないね。わたしが2年前にハラキリで入院したときに「苦(九)は充(十)への通過点」と言い聞かせて毎日を過ごした。そのうちいいことだってあるさ。気長に生を愉しもうぜ。

2013年8月30日金曜日

函館通信217・・・記憶・・・仁兵衛

 懐かしいホロホロ会の旅の記憶も本当に薄れてきたなー。思い起こせば英蔵さんと上野で飲み始めたのが何時であったか思い起こせない。確か炉辺焼きのある店であったと思う。次の会った時には既に居酒屋に変わっていた。
 その場所で花見時、二人では淋しいので国兼さん、猫跨ぎさんらに声を掛けて人数が増えていった。あの頃の酔った後の上野の夜桜はご機嫌だったね。中野さんが来てくれた時は精養軒に場所をとり賑やかでしたね。その馴染みの店もビルの立替で止めてしまったのは時代を映していますね。
 その間上野、谷中、を歩いたり、或いは上野で花だけ見て駒形の泥鰌やで飲んだりもした。英蔵さんにホームページを立ち上げて貰ったのもこの頃ではなかったかな。小人数だけどの国兼さんの案内で江ノ島、鎌倉も2回行き国兼家にすっかりお世話になって戻った事もありました。
 そんな上野の集まりの中から泊り掛けの旅行の話が持ち上がり最初が褌子さん言われる御岳の文人宿だったのかもしれない。次が知多半島の蒲郡ではなかったかな。兎に角旅行計画は英蔵さんにお任せでした。本当にお世話になりました。一方で北海道を忘れてはいけないと日航ホテルで2回、薄野で2回、定山渓で1回旅行とは別にオリンピック開催年に集まりました。中野さんの顔を見たくて出掛けたといってもいいかもしれませんね。
 ホロホロ会旅行は遠州浜名湖の旅以降参加していません。実はこの頃から酒が飲めなくなり体調が慢性的によくないのです。参加したい気持ちは山々なんですが身体がついて行かないのです。パーキンソンが進んできたのか老化が加速的に進んだのか判らない所がありますがこの一年で歩行が更に悪くなって来ている様に感じます。
 楽しい旅行に水を差すような事をいってはいかん。逸徳さんも早く酒が飲める身体に戻し楽しんで下さい。

懐古趣味もたまにはよかろう・・・褌子

  真砂館だ。雨のなかの彼岸花が目に浮かぶ。
  そうです! 國兼さんはすごい。やっぱり有機化学トップ合格の記憶力だ。
  いちばん最初は奥多摩だった。御岳(みたけ)のなんとかいう渓流沿いの民宿だった。近くに川端龍子記念館とか吉川英治記念館があったなあ。40年前だ。8、9人集まった。青木君もきた。
  携帯電話もワープロもパソコンもデジカメもむろんない時代だ。リコーの青焼きコピー全盛期だったが富士ゼロックスが。僕は会社の頃というか独身時代、プリンスという品のいい高級車?の中古にさっそうと乗っていたんだ。会社辞めて結婚したらトヨタのパブリカに格下げ。その後はずっとダイハツおんぼろ軽自動車にしか乗せてくれない(ムコはつらい)。プリンスは日産に吸収され、総金歯みたいなセドリックの日産も凋落の一途をたどった。酒はトリスでたまにサントリーホワイト。だるまや角はめったに。カシオの電卓がいっきに出回った。ああタイガーのチンが懐かしい。ソニー全盛期。ベータとVHSの規格戦争がおきたのはそのあとか。ワンカップ大関やインスタントラーメン、発泡酒、カラオケが発明されたのはいつかね。
 重厚長大。海はマンモスタンカー、空はジャンボ機。水俣などの公害が大問題になり、光化学スモッグも。浅間山荘事件あったなあ。こちとらが「フーテンの寅さん」みてげらげら笑っていたころ、仁ちゃんはクレラップ開発に全力か。
  「隣の車が小さく見えます」「男はだまってサッポロビール」「クリープの入ってないコーヒーなんて」「ペンタックスペンタックス望遠だよ・・」  下らんCMばかりおぼえとる

2013年8月29日木曜日

ついでにこれやあれや・・・国兼

そうか!!やはり死にそうな目にあったのだ。でも、女房も逃げずに、かいがいしい看護のもとで・・・元気を回復したようで何よりです。
 天竜浜名湖の旅も思い出すナー。台風みたいな風雨に見舞われ、幹事の英蔵さんが列車に乗り遅れたりと・・・。その時宿泊した真砂館で何を食べたか忘れたが、名前だけは不思議に覚えている。そう、その旅の浜松駅近くで食べたウナギのお茶漬けは絶品だった(その後のほろほろ会の鯖街道の店で食べた鯖の焼寿司、私はこの2品が特に印象に残っている)。でも、1年後にその鯖の焼寿司屋からハガキが来て横浜のデパートに行って買って食べたが、なんていうことのない平凡な味であった。やはり、旅の最中のその地元で、おなかを減らし、旅の仲間とバカ話しながら食べる味とは異なるのであろう。

 褌子さんからこれまでのホロホロ会の歴史的旅の記憶をということであるが、私も脳梗塞で脳の記憶回路がショートしてしまった。でも頭の中は混乱していても、記録・・・写真というビジュアルな、どこに行ったか、誰がいたのかという確かなものが現存している。いずれアルバムをひっくり返し、語ろう。確か最初の高分子4期生の会(ホロホロ会という名はずっと後である)は48年ごろの奥多摩だと思っている(まだカメラを持っていなかったのか、証拠写真がない。英蔵さん、仁ベエさんの記憶はいかが???)

秋野不矩美術館でしたね・・・褌子

    そうそう秋野不矩美術館でしたね。黄色を通奏低音にしたようなインドなどの大作がまざまざとよみがえるが、秋野不矩の名前がでてこなかった・・・

あれこれ・・・猫跨ぎ

死にかけて4キロ痩せた?どういう診断だったのかなあ。差し支えない範囲で教えてほしい。ひょっとしてエイズか?

そうそう秋野不矩美術館では、諸兄の冷笑をかったなあ。大作は二階にあったね。あやうく感動を逸するところだった。
浜松では鰻を食べたことを思いだした。こっちは普通の鰻重だったが、鰻のお茶漬けが何人かいて、そっちにすれば良かったと悔やんだものだ。何でこんなことを覚えているんだ、全く。

いやまいった・・・・逸徳

飲み会は失礼した。 俺だけ飲めんという状態は、いつもなら腹立たしく、みんな悪酔いすればいいと、一人呪いをかけていたものが、今回は全然くやしくならなかった。よっぽど体調がよくなかったと思う。医者にしにかけたぞと脅かされたが。とにかく、4キロやせた。

閑話休題 天浜線の秋野不矩美術館によったとき、作品に感動のあまり、美術館に二階があるのを見忘れてきた人がいた記憶があるが、あれはお師匠て゜はなかったかな?

2013年8月28日水曜日

大したもんだ・・・猫跨ぎ

そうか、色々行ったもんだなあ。大したもんだ。
女流画家の件は、浜松の秋野不矩美術館の話。浜松行の時で、柳生さんにはお世話になった。あの時は台風に遭遇したなあ。仁ちゃんもいたね。
女流画家秋野不矩(ふく)。文化勲章を授与されたのは他に、上村松園、小倉遊亀(ゆき)で計三人。他の二人に比べちょっと知名度は低いが、印度を題材にした大作が印象的だった。奥行きがあって、何というか、構想力が大きいんだね。

真面目に歩んできた道をふりかえると・・・褌子

    コバさんに感謝しつつ、過去をまじめに真剣に振り返ることにした。
   諸君はすっかり忘却のことと推察するが、まず、去年の旅行は遠野で一泊、菊池運転手で朝一番に苔むした五百羅漢をみて山越えし宮古の田老地区へ。大槌、山田、釜石、大船渡をへて陸前高田へ。らまっころ山猫で女将さんは可愛いく愛くるしい菅原行奈さん。猊鼻渓、賢治の東北採石工場跡などみましたね。
  その前の年は、山寺立石寺から出羽三山、鶴岡、酒田へ。注蓮寺のカメムシと羽黒山の五重の塔が忘れがたい。
  その前は石見・出雲だ。宍道湖のシジミが貧相だと國兼さんが怒っていました。その前はむろん高野山。持明院宿坊が寒かったが般若湯が旨かった。秋の熊野の山々が今も目に浮かぶ。
  えーと、その前が函館・定山渓で里塚霊園で中野さんの墓参。その前が近江の十一面観音。その前が飛鳥で河野君が当時はとても元気だった様子が目に浮かぶ。その前がたぶん佐渡の鬼太鼓と薪能ではないかね。その前は天浜線の何とかいう女流画家の雨の何とか美術館。その前が怪しいがたぶん兵庫の山の中の武田尾温泉。その前かずっと前か、もっと昔か西浦温泉が記憶に残る。小生の記憶力もここらへんが限界だが、国兼さんの緻密な頭脳ならば全部順番に思い出せるのではないか。
  そして今度はいよいよ能登の旅だ。

ホロホロ会:2013年秋の旅・・・国兼

 この4月に計画されたホロホロ春の飲み会が雨で延期になり、先週8月23日に開催された。
私は場所確保という名目で上野の例の「かよひ路」に4時30分に行き、ビールを飲んでいた。そこに褌子さんがどかどかとやってきて、開口一番、「逸徳氏がが亡くなった」と。オーと思ったね。嫌な予感がしていたが・・。本人から電話があったと。ムー、死者が電話?? 落語の世界に出てくるようなお話で、よくよく耳を澄ませたら「これなくなった」ということらしい。彼も早口で誤解を招く。ホロホロ秋の旅の楽しい計画作りが、すんでのところで「偲会」になるところだった。女房に逃げられても、親の死に目に会えなくても…と言っていた御仁が来れなくなったのは、よほど重篤なる、悪性の風邪だろう。快復したのだろうか?

 所で、今年の秋のホロホロ会は11月23日(土)~25日の二泊3日の能登半島の旅と決まった。こういう時一番頼りになるのはコバさんである。すぐに事前に調べたコース内容の説明に我々4人はただ頷くだけであった。本日さらに詳細なる計画をメールで送られてきた。レンタカー会社への電話、泊まるべきホテル候補等々実に微に、細にわたる内容である。
 コバさんのこの明細なる計画性は、何年か前の湖北の旅をしたときに知った次第。リュックの中にJRのポケット時刻表を持参しており、地方のバスの時刻表も調べていたのには唖然としたことがある。この時間への感覚は、正に、ホロホロ会の松本清張的存在である。

 その時の話題に今年は「カミさん同伴」はという声が出た。私もそうしようとその時思った次第。帰って落ち着いて考えると、昨年9月に脳梗塞になって以来、料理は減塩で味気なく、私専用の減塩醤油を持たされ、晩酌時には焼酎のお湯割りの回数を横目で観察し、特高に常に見張れている感じである。旅行に行った時ぐらいは羽を伸ばし、解放気分の中で美味しく能登のお酒飲みたいものだと。カミさんを同行するのを止めようと!!!

2013年8月26日月曜日

戦勝国連合・・・猫跨ぎ

  まあさ、家康の四代前は木曽の山奥で木樵をしていたと言うことで、日本では貴種をいくら誇ってもしゃあないね。みんな、なかよく貧乏しよう。
ネットを見ていたら、韓国人の国連事務総長談話が伝えられた。どうも昨今の歴史認識問題が妙な具合になっていて、日本の常識は世界の非常識になりかけている。
  国連の地盤沈下が叫ばれて久しい。いまや世界の紛争地域で実質的な影響力を振るえているところはどこか。アフガン、パレスチナ、北アフリカ、カシミール、中印、尖閣、北朝鮮、みんなノーだね。そんな国連の事務総長が何言っても、詮無い気もするが、何を思ったか、日本の歴史認識の誤りを批判している。加盟国に対し何の権限があって出しゃばるのかね。一体、「正しい」歴史認識とは誰が決めるのか。少なくとも君ではない。実に不遜千万だ。そんなことより、一度締結された国際条約を引っ繰り返すような国内法に走る母国の司法を諫めるのが先決ではないか。対馬の仏像を早く返せとも促すべきだろう。国連はせいぜいそのくらいの仕事ではないか。
閑話休題、ちょっと観点を変えて見よう。国連はUNITED NATION。つまり戦勝国連合なんだね。戦敗国は下に控えておれという事なんだ、事務総長の言いたいのは。しかしそろそろ、そうはいくまいて。

強度愛ではなかった郷土愛・・・・褌子

   熊さんの御父上の御出自はやはり徳川御三家のひとつ紀州和歌山藩でしたか。 
   いま、流山の柳生君と電話で長話をしたところ。柳生君は美深生まれで小樽→札幌→日立→浜松→いまは千葉県の流山に住んでいる。
  柳生君のおじいさんがやはり紀州和歌山藩のご出身。おばあさんが徳島の阿波蜂須賀家のご出身だといっていた。おじいさまおばあさまは手に手をとって明治時代に美深にきた。その息子が小樽にきて商売に成功して、そのお坊っちゃまが柳生秀樹君だ。ぼくらは学生時代に柳生君の小樽の家に遊びに行って、いたれりつくせりの待遇でびっくりしたものだ。高分子学の本は少なく、ガロや白土三平などのマンガ本ばかりで二度びっくり。
  北海道の人はみな内地にご先祖様の故郷をもっているはず。たしか猫跨ぎ様のご先祖が福井の越前は朝倉氏ゆかりの北ノ荘のお殿様松平家の御家老筋の御末裔ではないかと氏の古武士風の御風貌からして何となく。国兼様の曾祖父は越後長岡藩の藩主酒井伊豆ノ守のお姫様の曾孫が戊辰戦争で官軍に逆らったばっかりに敗退おちぶれて、屯田兵となりフンドシ一丁で滝川へんの北海道開拓へ・・ではなかったか。国兼令夫人こと奥様のご先祖は周防の国岩国きっての名刹西本願寺派龍谷院が蝦夷地に別院を御建設、勇躍して親鸞上人の御布教で、えーと何だっけ。小林様のご先祖はといえばこれはもうすごい!徳川四天王の猛将筆頭格、本多佐渡ノ守の一番の御家来衆で千葉周作門下示現流だったか新陰流の居合抜きの達人小林雲谷齋の御子孫が御維新で都落ちをして札幌開拓史学校へ…。
  ちなみに五本さんのご先祖様は越中富山藩のご出身だとおねえさんがいっておられました。明眸皓歯からしてあながちまちがいなかろう。なにか日本海方面が多いねえ。拙者はといえばいうまでもないが、さる承久の乱で鎌倉幕府北条執権にやぶれ絶海の孤島佐渡島に恐れ多くも御配流になられた順徳院がつい島の娘とのあいだにおなしになった御落胤の御末裔の子孫が世を忍ぶ仮の姿ではないかという噂がとびかっているきょうこのごろの残暑きびしい季節柄ではある。
  柳生君の弟さん柳生佳樹さんが北海道の美深で松山農場を経営し、森の雫こと白樺樹液を製造しているのは有名なはなしで一昨年、毎日新聞グリーンファーム大賞を受賞した。9月9日~10日と二泊で松山農場を訪ねることになった。いま、佳樹さんの弟さんのお嫁さんと電話でお話して予約したところ。佳樹さんは北大農学部出身でお兄さんに負けず劣らずの美男子で、イケメン俊才兄弟として知る人ぞ知る。
  あー! 早く食べたいなあ~松山農場のジンギスカーン ♪

2013年8月25日日曜日

郷土愛   九州の熊

脈絡のないはなしを思いつくまま・・。
わたしのオヤジ(10数年まえに他界)は和歌山県出身だけど旧制中学を卒業してすぐ札幌に職を得、住みついた。わたしが物心ついたときには北海道弁で会話をしていた記憶がある。今となっては確認しようがないけどなんとなく道産子のような雰囲気があった。わたしはこちらに住みついて間もなく50年、家内は延岡生まれ延岡育ちの日向かぼちゃ。ふたりの子供ももちろん延岡生まれの延岡育ち、かれらの交友範囲も宮崎県人。こちらの風土がわたしにはすべて心地よくごくごく自然に宮崎県人になってしまった。それを少し誇りに思っている部分もある。オヤジの生きざまがDNAとしてわたしに宿っているのではと思えるような?。わたしの長女の婿は東京出身だけど就職した地がここ延岡でこちらののんびりした風土や自然が大変気に入っていて将来はこちらに拠点がある子会社の社長になってこちらで生活したいといっている。これまで付き合ってきた流れや言動をみるとあながち義父へのリップサービスだけとは思えないような気がするのだが・・?プロ野球は日ハムファン。札幌がフランチャイズになっているのとマーくんのファンだから。道産子であることとのつながりはあまりないようだ。高校野球はまずは宮崎、九州、そして北海道のチームの順。このへんはみなさんとおなじ感覚ですね。まあ郷土愛というのは日本国内であればどこでもいっしょという気もするけど。東京、横浜、大阪などの大都会地区に妙に反発を感じるのは田舎生まれ田舎育ちのひねくれ反骨心からきているのでしょうかね。

函館通信216・・・民族意識・・・仁兵衛

 郷土が話題になってきたが私の生まれは東京です。実家の近くの産婦人科で生まれました。数年前に小学校の同窓会で集まった時同じ産婦人科で生まれたのが3人いました。何か同じ子宮から出てきたのではないかと錯覚さえ覚え親密さが深まった感じを強く持ちました。

 生まれはこうでも四男坊だから無意識の内に家は早く離れる必要があるんだなと思っていて北海道ー福島ー北海道と居住地を移って行ったのだと思います。しかし社会的には郷土が移っても内面にはやはり産まれた地東京はしつっこく残っているものですね。時々心の中から顔を出す時が今でもあります。

 さて、もう少し大きく見て日本人としての民族意識はどうでしょう。幸か不幸か解りませんが戦後直ぐの教育を受けた我々は戦前の軍国教育をただひたすら全面否定して歴史をぷつっと切った状態で歴史教育を受けてきたような感じを私は受けます。日本語を話す事だけが共通の日本民族意識ぐらいにしか線が引きようが無いのでしょうか。オリンピック招致で国威発揚を狙う人、被支配は千年経っても忘れはしないと言う韓国の意識、イスラム圏の民族を越して宗教種族?同士の争い等上げたら切りが無い状態に見えます。

 郷土愛と民族意識の接点は日本には殆ど無くなってしまったのかな。居住が都会というお化け屋敷に集中すればするほど民族意識は薄れて行くのだろうね。さて、今日も懲りずに日本ハムファイターズを応援するか。
 

高校野球とわが郷土・・・猫跨ぎ

  高校野球は何のこだわりもなく郷土愛を吹聴できる数少ない機会だと思うね。これは全国規模の現象だろうなあ。翌日にそこここで昨日の郷土の球児の奮闘振りが話題になる。
褌子氏に同じく、私の第二の故郷は千葉だが、ここは結構強豪校がいる。最近はさっぱりだが銚子商業、習志野、市立船橋、拓大紅陵、等々。しかし率直に言って、熊さんほど熱くはならない。千葉は何というか、郷土意識の持ちにくところなんだなあ。何故か判らんが。
  やはり目は北海道に行く。2004年、2005年甲子園連覇した駒大苫小牧が記憶に新しい。田中マー君ばかり関心の的だが、何せ打線も凄かった。何だか負ける気がしなかったね、見ていて。2004年の凱旋の時は北海道庁前広場が人で溢れたとか。津軽海峡を初めて越えたというわけだ。
ところで田中マー君は兵庫県出身で野球留学だった。もっとも両親も移り住んでいたらしい。いまはこちらにさぞや豪邸を建てたことだろう。里田まいというタレントとはやばやと結婚したが、彼女は北海道出と聞くと、やはり同郷で何か惹くものがあったか。
そこへ行くと、延岡にしても前橋育英にしても、県内出身者ばかりというのはなかなか好感が持てる。しかし攻守、好打でよく鍛えられているなあ。心暖まる凡ミスって見ないね。

“超残念なり!”に思う・・・褌子

熊さん
  延岡学園超残念でしたね。準優勝は超おめでとうございます。
  わたしが超面白いと思ったのは、熊さんがすっかり延岡ッ子というか宮崎県人になりきっていることです。私はいくつになっても佐渡島出身意識がぬけず、いまだに千葉県人になりきっていない。なんとなく偶然に千葉に来て、うっかり住み着いてしまったような感じがしている。高知の四万十川河口出身の女房もそうで、夕べのテレビで四万十川紀行など熱心にみていた。千葉で生まれたうちの子供はきいたことないが千葉県人のつもりなのか、そんな郷土意識など全くもってないのか。
  二年前に母校佐渡高校が21世紀枠で甲子園にでたときだけは興奮してテレビみました。あっというまに智弁和歌山に敗退しましたが。甲子園まで応援に行った同級生から悔しいと電話がきた。
 高校野球でよく覚えているのは、大学2年のときだったかに痔の手術で豊平川わきの平岸のなんとか病院に入院したことがあります。ちょうど北海高校が準決勝で勝って病院中おおさわぎになった。決勝で下関商業に負けて、院長まで私の痔の手術ほうりだしてしきりにがっかりしていた。当時、北海道のひとはみんな内地にご先祖様がいるはずなのに、すっかり道産子になりきっているのが不思議に思えたものだ。
 仁ちゃんは北海道の次が住んで長かった福島・東北勢、最後に生まれ育った東京だと書いている。東京がふる里というひともいるんだね。ふる里というと「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」についなってしまうのだが
【写真 ⇒モネの家の小川わきの柳の巨きな株・小生の姿も小さく】
【下の写真 ⇒パリのノミの市で櫛を買ったおじさん。今回握手は男性限定になってしまった残念】

2013年8月23日金曜日

超残念なり!   九州の熊

とりあえず準優勝ということで「優勝」の文字が入っているからよしとしましょう。準優勝盾も持ち帰ることだし・・。応援ありがとうございました。
高校野球ってよほど力の差が抜きんでていないと本命で勝ちきるというのは難しいのが過去の歴史。かっての桑田清原のPL学園やマーくんがいたときの駒苫のように。だからわが郷土の代表も来年はいちから出直し、県予選を勝ち抜くことさえ難しい、今回頂点をのがしたのでこのようなチャンスはもうなかなか巡ってこない、と考えてしまいます。勝つだけが勝負ではない、純粋無垢な美学を体現したではないか、という慰めのことばはあまり受け入れる気にはならない。ここは浮かれず冷静に今後の課題を整理して次に備えてほしいと願うや切! とまあ評論家気取りで云ってはみたもののここ数日で体験させてもらった高揚感は一時的なものかもしれないけどありがたや、ありがたや。選手、監督、関係者のみなさんの御苦労に大拍手です。それにしても生粋の道産子がいまではもう完全に宮崎県人になりきってしまったなぁ。生まれ育って22年、こちらに住むようになってもうすぐ50年。あたりまえじゃぁ~!

2013年8月22日木曜日

函館通信215・・・残念でしたね熊さん・・・仁兵衛

 九州の熊さん本当に残念でしたね。高校野球観戦は好きで好きで殆どTV付けっぱなし。特に今年は接戦の試合が多く大いに楽しませて貰いました。
 不思議なもので応援の気持ちの順序として先ず北海道、次に福島を含む東北、そして生まれた東京都、関東になってしまいます。
 今年の傾向として固い守りから攻撃のリズムを作り出す野球が多く見られたと思います。ずば抜けた投手がいたのではなく守りの好プレーが実に多かった。抜けそうな打球をバランスを崩しながら捕球し味方のピンチを救うのを何回と見たことか。
 延岡も選手が戻ってきたら歓迎でさぞ大変でしょう。昭和46年にいわきでも磐城高校が準優勝した。小柄な大投手といわれた田村選手を筆頭に広い市内をオープンカーで凱旋したのを思い出しています。
 兎も角、延岡学園 準優勝おめでとう!!

2013年8月21日水曜日

わが郷土、快進撃!    九州の熊

延岡学園、とうとうファイナルゲームに到達しました!のびのびと一つ一つのプレイに集中する姿が清々しい。高校野球はプロ野球なんかとまたひとあじちがう味わいがあることを改めて感じています。当地の反応はもちろん大フィーバー。みんなくちをそろえて「ここまで来たら優勝じゃぁ~」。たまにこんな経験をするのも(みるのも)いいものです。みなさん応援してくださいね。

ひとは皆同じで、ひとは皆ちがう----パリの空港から褌子

 パリ5日目の夜で、明日は帰りの飛行機に乗らねばならない。朝晩は10度以下で寒く、蚊に刺されずに眠ることができるようになった。
 前日のルーブルの人混みにこりてプロヴァンという田舎町に出かけた。パリからガラガラの列車に乗って1時間半。パリ郊外にでるとすぐ刈り取りを終えた麦畑が地平線まで広がる。青々としているのはトウモロコシ畑のようだ。北海道に似ている。確かめるとパリは稚内の緯度。ずっと美しい農村風景が車窓に続く。フランスは農業国なのである。 プロヴァンは中世の古い町並を残している。開発や発展から取り残されたおかげで世界遺産に指定された。坂道を登って12世紀ごろの古めかしい聖堂にはいる。七人ばかりに信者を前に年老いた神父さんが説教中。ステンドグラスからさしこむ光のなかでミサ曲を歌い始めたので、そっと後ろの椅子に座る。しばし頭を垂れ前世からの罪を悔い改めた。フランスは九割近くがカトリック教徒の国なのである。
 列車でのんびりパリに帰り、モンマルトルへ。浅草よりもっと人であふれかえっている。サクレクール寺院まえのあまりのにぎやかさにおそれをなして寺院の裏に回って坂道を下ると静かなアパート街。ルノワールやベルリオーズもここらへんに住んでいたそうだ。階段を登るとまた芸術家らしき人々がたむろする一角にでて、豆科のリラの茂みの向こうにエッフェル塔が見えた。ふと五本さんのやさしい笑顔を思い出した。 混んでいる地下鉄で帰る。3才、5才くらいの男の子、女の子を連れたお母さんが床に座り込んで子どもと楽しそうに話している。子どもが嬉しそうにぴょんぴょん跳ねながらお母さんにまとわりつく。なんとも微笑ましい光景で、混んでるのにまわりの乗客も笑っている。
 ホテル近くのお惣菜屋さんにたどり着く。中国人一家の経営で、近所のおばさんたちが量り売りのおかずを買っていく。奥のテーブルで焼きそばとチャーハンと青島ビールで満腹。これで900円くらい。この店に三日も通って夕飯を食べた。
 店番の娘さんが長江沿いの揚州からきましたという。揚州出身の鑑真和上という偉い坊さんがむかし日本に渡海したこと知っているかと紙に書いて質問したが、しきりに首をかしげるばかりだった。
 「再見」と中国語でいうと「さよなら」と娘さんが手を振ってくれた。会うは別れの始めだなあ。
 夕闇迫る区役所の庭を抜けてホテルへ。区役所玄関の時計の下にLIBERTE・EGALITE・FRATERNITEと刻んである。市庁舎、裁判所など古い公共的建造物にはみな正面破風に自由・平等・博愛の文字。屋根には三色旗がひるがえる。フランス大革命の国なのである。
 こうしてパリ5泊の旅が終わった。いちばん印象に残ったのは壮麗な建物ではない。オペラ座の前のストリートミュージシャンかもしれない。スラブ系の姉妹の少女が裸足で踊ったり歌ったり。演奏の男たちもなにかわびしい。ボヘミアンというかロマのひとらしい。しばし、オペラ座の石段に腰掛けて小銭を箱に入れて立ち去った。

2013年8月20日火曜日

花のパリの汚れためとろ、、、こんし

思い出してきましたか。よかった。全くたいしたもんです。記憶が映像音声付きで脳にいくらでも折り畳まれてしまいこまれているのは不思議です。
たしかにパリの地下鉄はホームに入る前に切符つかうだけで、出るのは別の出口から切符なしで出る。その切符もどこで降りようが料金関係なしで大ざっぱです。我らも出口から切符なしで入ってしまったから、あれだとキセルやり放題。このいい加減さがラテン的で非常によい。几帳面なドイツ人はあきれかえっているのではないか。ヴァカンスのせいか地下鉄は半分観光客で半分は金がなくて遊びに行けないアフリカ系のひとばかり。ときどき日本語でもスリにご注意!と放送している。けっこう汚れていて、勝手にアコーデオンひいてお金集めたりもしている。駅入り口に女性乞食もみかけた。車内で地図で道きくと実に親切。席も譲られた。パリのエリートは高級車で移動し、こんな雑然とした地下鉄には普段から乗っていないのではないか。アフリカ系を中心にいろんな人種が車内に乗っていて、広大な植民地もっていた旧宗主国だと痛感させられる。それにしてもオルセー美術館などなんと駅舎だったと言うではないか。アールヌーボーの豪華きわまる洒落たつくりに目をうばわれた。植民地から吸い上げられた富が、自国庶民階級から吸い上げた富がこれだけ絢爛豪華なパリをつくりあげた。
金持ちは遊びに行って空っぽのパリを観光客と旧植民地からの移民が闊歩している。ヴィクトリユーゴー駅とかフランクリンルーズベルト駅とかある。フランクリンはフランス人だったんだね。自由の女神像を新興国にポンと寄付した心意気に成り上がりものへの優越感も感ずる。
昨日のルーブル美術館は疲れたなあ。 もう二度とこんなとこくるもんか(*^^*)

西澤昭裕

2013年8月19日月曜日

思い出してきた・・・猫跨ぎ

だんだん思い出してきた。パリの地下鉄は入口と出口が異なっている。それを知らず、出口専用のところから何か変だなと思いながら、やや強引に入ったなあ。何とかなったが。地下道にサキソホンを吹いて小銭を稼いでいた若者がいた。
味噌ラーメンとスーパードライか。良くないねえ。郷にいれば~の線を維持しなければなあ。ウレシー僕、困ったらブーとかケツ臭せーとか言いながら、向こうのモノを食う、これに徹すべし。偉そうなことを言うと、美術品なんて日本にしょっちゅう来てるじゃない。それこそ、こてこての既視感。それもいいが、下町の路地をなんかうろつきたいなあ。
モンマルトルのへたくそな画家の卵の絵をひやかすのもいい。おお段々思い出してきた。

パリの蚊もやっぱり痒いです、、、こんし

パリにきて三日目となった。猫跨ぎさんと仁ちゃんからうれしい反応があったのでiPhoneからの発信が日本に届いていることがわかり急に元気がでてきた。猫跨ぎさんが若い頃パリのシャンゼリゼ通りを歩いた話を35年くらいまえに、うちに泊まった時にしていました。いらい、ずっと死ぬ前に一度オレも…歩きたいなんて思い続けてきました。
きょうはくたびれましたね。エアコンのない安宿に五泊もするのだが涼しいと窓開けて寝ていたら蚊が入ってきてかゆくてかゆくて。6階だからと油断していた。パリの蚊も市原の蚊も鳴き方は変わらないね。睡眠不足のまま、朝一番に女房とノミの市にいってルーペと櫛(髪がないのに)を買ってしまった。枠が金縁に輝くルーペはブルボン朝のマリー何とかいう王妃様がお使いになっていたものを恐れ多くも値切ってしまい15ユーロだから1950円くらい。櫛は日本製か。そのあとロダン美術館の庭で「カレーの市民」独りずつの顔を至近距離でみた。上野には集団立像だが。バルザック像の“にぎり金玉”の話には現物をみて納得。一角にゴッホの「タンギー爺さん」があって背景には浮世絵がかきこんである。ロダンは人間のもつ苦悩とか悔恨とか逡巡みたいなものが迫ってくる。
そのあとオルセー美術館で例の二枚のゴッホ自画像に対面したがルノワールやモネやマネ、セザンヌ、ゴーギャン、ドガなどと全く違う。ユトリロは哀愁とか生きる屈託があるが。ゴッホの絵は弟テオ以外に生きているときには誰にも理解されなかったという。
オランジェーでモネの睡蓮の丸い壁一面の大作をみて、ゴッホ自画像のはなつ重苦しさから開放され自然の光の賛歌にひたった。コンコルド広場でオベリスクの古代エジプト象形文字をみあげてから、はるかシャンジェルデ通りの彼方に凱旋門を遠望し、ああヨワイ70にしてパリに来たんだと危うく感涙にむせぶところであった。その後はヘトヘトになってパルテオン神殿そっくりの教会とかプロシアから分捕った大砲で作った青銅の塔のうえにシーザーのいでたちでナポレオンがはったとローマの方向をにらんでいるのを見ているのをフラフラになって見上げて、さらに数百メートル這うように歩いてサッポロラーメンにたどり着きアサヒスーパードライ560ミリリットルを飲み干して味噌ラーメンと炒飯喰ったら生き返った。ふと後ろから日本語が聞こえて来た。年の頃65位のおっさんがメガネを頭の上にずらしタオルで汗を拭きながらギョウザと焼き鳥喰って麒麟ビールのガブ飲みをしていた。なにもパリまできて焼き鳥くわなくてもなあ。急に元気出てきてホテルにかえったら蚊取り線香ありませんと平気でいうのでガッカリ。みなさん!いくら安くても夏場は外国でエアコンのない安宿は泊まらないようにお願いします。蚊が入らぬように閉めて寝てると外は涼しいのに暑いです。フランスにはまだ網戸がないのかね。日本から輸入するべきだ。パリにはコンビニがないようだ。雑貨屋さんはバカンスで閉まっているし蚊取り線香も電池も買えなくて困っている(-。-;

2013年8月18日日曜日

函館通信214・・・うぃパリ・・・仁兵衛

褌子さん羨ましいね。褌をキュッと締めてエッフェル塔に登って楽しんで来てください。
昔歌った歌に「パリのエッフェル塔で小便すればすれば・・・云々」という歌があったのを思い出した。
そうそう今豪雨の函館はユトリロ展をやっています。「パリの友夏の終りのユトリロ展」。

猫跨ぎ氏俳句観賞
・釣堀のどの区画にも夏の雨・・・今の釣堀はみんな管理されているけど釣れるのだろうか。釣はへらに始まりへらに終ると言われる。函館の朝市では烏賊釣が出来る。句は単純だが静かな夏の雨を感じさせる。
・蚊を打ってから灯明をあげにゆく・・・お盆の時はたとえ蚊でも殺生はまかりなりませぬ。面白そうな作者の意図がありそう。特選。
・ジェット機の急に現れジギタリス・・・ジギタリスの花は良く知らないが薬草として有効な事は知っている。そこにジェット機が急に現れたのには驚かされた。韻を踏んでいるのにはユーモアさえ感じる。準特選。
・団子虫の転がる先の真夏かな・・・団子無視が丸まったままならさぞ暑かろうに。
・雲の峰扉小さき無言館・・・何も言わなくても無言館は大自然に包まれて存在している。準特選。
面白く鑑賞させて頂きました。

巴里のこと・・・猫跨ぎ

  まだパリに滞在中かな。最初にしては、なんだかあまり感動が伝わってこないねえ。人間70を過ぎるこんなものかな。小生が行ったのは30年以上前かな。パリにいるんだという感じがしみじみしたのは、夕方、サンラザール駅近くのホテルを出て、シャンゼリゼへ繰り出したとき。二階の大衆食堂みたいなところで何を食べたのか覚えていないが、ワインボトルのおかわりをした。帰途、裏通りの店のショーウィンドが洒落ていたなあ。ビルの高さが均一で、かつ佇まいも統一されている。要するに寄ってたかって、パリ全体を演出しているわけだ。野放図な東京の街並みと全く対照的。しかしどちらが良いかとなると、甲乙つけがたい。印象派美術館(今は改名している)へ行く道を間違えて、綺麗なパリジェンヌに教えて貰ったのも良い思い出。そちらも得意の握手に持ち込むよう成果を期待したい。

ゼロ戦---褌子

宮崎監督『風立ちぬ』は見に行きたい。アニメ場面に組み立てた零戦を牛車でそろそろと名古屋から各務原飛行場へ運ぶ場面があるらしい。吉村昭『零式戦闘機』で、開発当時、世界最高速の戦闘機と牛車の対比に一驚したものだ。最近、百田尚樹『永遠のゼロ』を読んだばかり。敗戦前夜の日本海軍が、米軍の新鋭機に遅れをとった旧式零戦に未熟な学徒兵を乗せて特攻攻撃をさせる話。八月十五日の朝に飛び立っていった特攻機もあるという。
ーーーーいま、パリにいるが日本の九月末くらいかと思う気温で涼しい。電車とバスに乗ってモネの睡蓮の池を見てきた。モネが蒐集したたくさんの浮世絵や錦絵がモネの家に展示してあった。
 夕方、セーヌ川の船に乗った。はじめてパリに来たのだが、船から見物するノートルダムなど何となく既視感のある歴史的建造物ばかり。反面、もう二度と来ることはないだろうという思いもある。
ーーー
一泊朝食つきで三千円!の安いホテルだがWi-FiサービスがあってiPhoneからの発信に成功したようだ(^-^)

2013年8月16日金曜日

「風立ちぬ」・・・猫跨ぎ

  今評判の「風立ちぬ」(宮崎駿監督)を見てきた。画像の迫真性、綺麗なことにただただ一驚。戦前の街並や製造工場の風景の細密な再現、冒頭の関東大震災のシーンの迫力。要所要所の飛行機のシーン、ジブリ映画の技術の蓄積は凄いものだと感心。
零戦設計に携わった敏腕設計技師(これは実在の堀越二郎)の活躍と、小説「風立ちぬ」(堀辰雄作)のラブロマンスを織り合わせた物語り。堀越の恋人役の菜穂子がいい。
所謂アニメ映画に期待する盛り上がりはなく、坦々と進んで終幕を迎えるがそれなりの満足感は残る。別離の哀しみと、何もかも失った敗戦は勿論基調にある。幾つかの挿話シーンには作者の意図を感じさせるが、省略。まだの向きは、推薦したい。
 ところで「日本禁煙学会」なるところが、映画に喫煙シーンが多いと制作者に抗議したらしい。子供の教育上よろしくないと。喫煙の害が声高に言われるようになったのは、近々10年くらいか。嫌煙権ももう今更という感じ。昔は普通の生活習慣だったから、それを描いて何の不思議もない。馬鹿らしくて話にならないが、こんな視野の狭い近視眼の連中が最近多い(多分、女性だろう)。今の価値観で昔を裁く愚のひとつだが、これからも続々と起こりそうなことだ。
ついでに言うと、戦争映画の危険性を指摘する声もある。これもその一例だ。

2013年8月15日木曜日

酷暑の俳句鑑賞・・褌子

辰巳団地までわが家から車で5分くらいだが、何十年ぶりに訪問すれば、あまりの変わりようにびっくりすることだろう。近所に住んでいても辰巳は変わったなあと思うから。
先週は那須の満蒙開拓団の再入植地である千振村のおじさんにトウモロコシをもらいに行った。那須高原は秋の気配だったから、函館あたりは一雨ごとに涼しくなることだろう。そのあと、郡上八幡と関市で二泊三日の帰途、浜岡原発を訪ねた。岐阜の郡上八幡は暑かった。長良川は冷たかったが。鵜飼いはあっというまに終わった。千葉もあまりに暑いので明日から一週間パリに行って涼んでくる。夏のパリは現在、最低気温13度~最高気温29度とか。23日の上野かよい路の飲み会にはフランス語がとびだすかもしれないが許してほしい。
―――――
・軍場の松籟夏の野外劇
   五稜郭で野外劇だとすると、演目は「見果てぬ夢…土方歳三の生涯」
・奉行所の通行手形蟻の列
   通行手形と蟻の列だと「鬼平犯科帳」や「眠狂四郎」の一シーン
・複眼の睨んでをりぬ今朝の秋
   トンボですね。ドラゴンフライ好き。せんじつ静岡袋井のトンボ公園で稀少種ベニイトトンボ見ました。
・舳にも艫にも降りて星月夜
   千葉は暑くて蚊もいるし星月夜など楽しむ余裕ありません
・メビウスの輪になりかけて盆踊
面白い表現。郡上八幡ではえんえんと飽きもせずに踊っていましたね。
・空港に人を送りて遠花火
♪あうは別れのはじめとは~♬ 
・新涼や地下鉄降りた踵まで
新涼は秋の季語ですね。函館の夏は短いんだね
・朝顔や青潔く滲み出る
青く薄い花びらはじつにさわやか。迷うことなく潔い青である。特選
・唱歌には明治の苫屋夏の雲
なんか懐かしい
―――――

・清めの塩振られて潜る夏暖簾
   絹ごしの冷や奴と冷酒「浦霞」か秋田の「高清水」でもよい。いや青森の「田酒」か
・降りつづく一葉旧居跡紫蘭
   旧居跡行きましたね。一葉と夏目金之助ばったり出会って一目惚れ
・蚊を打つてから灯明をあげにゆく
なにげない日常の所作。奥様のお盆ですね。
・釣堀のどの区画にも夏の雨
   いい光景だ。少し涼しくなりそうだ。
・緑雨いま豪雨に変はり火焔土器
火炎土器の豪快な赤さとゲリラ豪雨の対比鮮やか。特選
・ジェット機の急に現れジギタリス
ゴマノハグサ科の淡い紫の鐘状の花の静寂とジェット機の激しい爆音
・滑走路の先の夏野や将門記
陽炎がたっている。逃げ水かも。平将門の決起とはかない末路
・雲の峰扉小さき無言館
   上田の無言館、小さな木の扉を押してはいる。薄暗いなかに戦没画学生の絵。
   彼らは、安倍や石破死刑発言、麻生ナチス発言をどうみているだろうか。
・魚臭き路地裏夏の下弦月
安宿の古畳に寝転んで団扇ぱたぱたさせて芋焼酎をオンザロックで飲みたい

2013年8月14日水曜日

極暑の候・・・猫跨ぎ

  帰省中の息子の車に乗って、市原の辰巳団地へ久し振りに行ってきた。昭和43年から同59年まで住んでいた。鉄道が延伸してくる計画がずっとあり、中央部に広い空き地があって何とも纏まりのない団地だったが、京葉コンビナート各社の新しい社員アパートがそれぞれの区域に林立する、高度成長期の申し子みたいな、或る性格を見せた住宅地区だった。
  それが様変わりであっけにとられた。まず、鉄道延伸計画が取りやめになり、空き地は細切れの宅地分譲と相成った。重化学工業の衰退もあるが、社員アパートというものがいわば昭和の遺物であり、その存在理由を失ったのだろう。小生のいたアパートもしかり、更地になり宅地分譲されたらしい。何の面影もない。全体にのっぺらぼうの無性格の住宅地と化していた。アパートの近くの夫婦二人でやっていた小さな中華料理店が今あるだろうか、久し振りに行ってみようというのが、ことの発端だったのだが、その店はまだあった。が、お盆休み。感傷のドライブ旅行。

最近の十句
・清めの塩振られて潜る夏暖簾
・降りつづく一葉旧居跡紫蘭
・蚊を打つてから灯明をあげにゆく
・釣堀のどの区画にも夏の雨
・緑雨いま豪雨に変はり火焔土器
・ジェット機の急に現れジギタリス
・滑走路の先の夏野や将門記
・団子虫の転がる先の真夏かな
・雲の峰扉小さき無言館
・魚臭き路地裏夏の下弦月

2013年8月11日日曜日

浜岡原発を訪ねる・・・褌子

   長崎原爆忌の八月九日、浜岡原発を逸徳さんのご案内で訪ねた。
   福島事故以来、核と人間は共存できないなどとエラソーに言ってきたが、じつは原発がどんなものか一度も見たことがなかったのである。
  市原からKさん夫婦とうちと二組で車で出かけた。菊川IC出口に逸徳さんが炎天下、待っていてくれた。
  浜岡原発まで30分くらい車を走らせると中部電力の宣伝用の電力展示館が見えてきた。
  一号館は風力などの自然エネルギー館だが、われわれのお目当ては原子力館。全景を見渡せる展望台に登る。遠州灘に面して巨大な五基の原発建屋が眼下にみえる。総発電量は五百万キロワットで東電柏崎刈羽に次ぐ。福島事故後に政府命令でむろん停まったまま。監視員がいて撮影禁止なので持参したカメラのシャッターを押せないのが残念。
  福島の事故後にはじまった高さ21メートルの津波対策の防波堤の工事が今も続いているようだ。海上には原発の冷却水の取水塔が二基たっている。はるか彼方の東方に御前崎が見える。強風地帯らしくたくさんの風力発電塔がゆっくりと大きな三角羽根をまわしている。 展望台下の原子力館は撮影自由。圧巻は実物大の原子炉模型。沸騰水型軽水炉の高さ22メートルの威容に目が釘付けになる。【↑実物大原子炉を前に逸徳氏と】
  東電福島第一では3基の原子炉全部が損壊し膨大な放射性物資が大気に放出され、四号基もふくめて毎日三百トンもの汚染水が海洋投棄され絶望的な汚染水対策が続いているが、むろんそんなことには一言もふれてはいない。実物大の制御盤、長さ4.5メートルの実物大ウラン燃料棒、制御棒も展示されていて百聞は一見にしかず。
  逸徳さんが原発建屋がみえる穴場があるというのでぐるぐる車を走らせて、防波堤の一カ所にたどりついた。堤の上から五号基が遠望できるが海からの強風でたっているのもやっと。天気がいい日もいつも強風が吹いているという。過酷事故が起きたら放射性物質はあっというまに静岡市、浜松市に到達し、首都圏や中部圏一帯を襲うだろう。【→防波堤からの遠望】
  菊川ICまで車中での逸徳氏の説明が面白かった。日本中の原発村は原発マネーでたくさんのハコモノをたてて、原発中毒というか人心が荒廃する依存症になる話はよくきいてきたが、地元でこつこつ反対運動をやっている逸徳さんの話はリアルでじつに興味深かった。炎天下、親切にご案内していただき、貴重な運動資料と静岡の銘茶までいただき、鯖味噌までご馳走になった逸徳さんに深甚から感謝の意を申し上げたい。市原市から同行したKさん夫妻も「すばらしいお友達ですねえ」と感嘆の声をあげておりました。

2013年8月9日金曜日

八月度仁句鑑賞・・・猫跨ぎ

  暑い。今日は殊の外暑い。網戸にして扇風機をがんがん回している。ちなみに私の小部屋にはエアコンなし。でもこれでしのげる。暑い夏を味わっている気分もちょっとある。
御当地は、今日は大雨らしいね。いやはや。

まず、通常の写生句から
・複眼の睨んでをりぬ今朝の秋
トンボがもう飛んでいるんだね。ふと目が合ったというところか。
・舳にも艫にも降りて星月夜
舳(へさき)にも艫(とも)にも、星が降るような夜か。星月夜は月がなくても星明かりで明るいということね。影絵のような風景。準特選句。
・迎へ火や風除けつくる二三人
門前で焚く門火。風よけに二三人がぐるりと囲んでいる。景の動きがよく見えるね。特選句で戴く。
・空港に人を送りて遠花火
空港へ送って行く、或いは送ったあとか。遠くに花火が見える。感傷的になるねえ。
・新涼や地下鉄降りた踵まで
地下鉄を降りたときに感じた涼気か。踵までが面白い。
・朝顔や青潔く滲み出る
朝顔の青の鮮やかさは本当に息をのむ程だ。

次に、個人的体験にやや特化した作。
・軍場の松籟夏の野外劇
いくさば。戦場のことね。昔の戦場に格好の松籟が鳴っている。野外劇が繰り広げられている。これも臨場感があるね。準特選。
・メビウスの輪になりかけて盆踊
踊りの輪がよじれてつながる妙な瞬間を面白く表現した。俳諧味がある。準特選。
・ひとりだけじじとは呼ばず孫の夏
じじの気持を察してくれる賢い孫がいてよかった。
・新盆や従兄弟はとこの顔知らず
これそうだね。核家族化が進行して、本当に日本中で起こっているんじゃないかな。

疑問符、気触れ、奉行所、カリヨン、苫屋の五句は、仁ワールドということで、解釈は遠慮しておこう。


函館通信213・・・忘れてた・・・仁兵衛

 函館は今大雨だ。兎に角気候が不安定のまま八月に入っている。首都圏や西の方には悪いが今年の函館は未だ30度を越えた日が一日も無い。札幌や旭川は真夏日が続いているそうだ。
 海流の影響が大きいのだが道東の港では黒マグロが多く水揚げされトキシラズなどの鮭は極めて少ないそうだ。そんなこんなしている内に7月の投句をすっかり忘れてしまった。孫達との楽しい時間も終ったので先月分も含めて駄作十五句厚かましく並べました。宜しく。

平成二十五年八月
・  疑問符に引き摺られてる炎暑かな
・  軍場の松籟夏の野外劇
・  大夕焼気触れたままの肌の上
・  奉行所の通行手形蟻の列
・  行先を告げぬカリヨン風死せり
・  複眼の睨んでをりぬ今朝の秋
・  舳にも艫にも降りて星月夜
・  メビウスの輪になりかけて盆踊
・  迎へ火や風除けつくる二三人
・  ひとりだけじじとは呼ばず孫の夏
・  空港に人を送りて遠花火
・  新涼や地下鉄降りた踵まで
・  朝顔や青潔く滲み出る
・  唱歌には明治の苫屋夏の雲
・  新盆や従兄弟はとこの顔知らず

2013年8月5日月曜日

jubilantly・・・猫跨ぎ

  原爆のはなしの続き。今日の東京新聞にドナルド・キーン氏が思い出話を書いていた。二発目の原爆を長崎に落としたあと、トルーマン大統領は、「この知らせをjubilantly(喜々として)発表する」と言ったという。キーン氏は当時海軍にいたが、これにはさすがに違和感を覚えたという。凄まじい破壊力は広島で充分に知っていたからだ。
jubilantlyとは最大級の喜びの表現だ。この事実は知っておいた方がいい。「やすらかにお休み下さい。あやまちは繰り返しませんから」と主語不明なことを言う前に。

と昨夜書いたのだが、今朝の報道に
 インタビューで、オリバー・ストーン監督は、原爆を投下した米国は英雄であると教わってきたと説明したうえで、「80年代までそうした幻想に疑問を差しはさむことはなかったが、歴史をもっと深く見るようになった。私は歴史に対して建設的でありたい。日本の人々も、米国の神話を受け入れず、なぜ原爆が落とされたのかを学んでほしい」と話した。(読売新聞)
ようやく、アメリカ人はそういう声を出し始めた。日本人はもっと怒れと諭されている。なんと大人しいことよ。

2013年8月1日木曜日

烏瓜の花から歴史認識・・・猫跨ぎ

  烏瓜の花の写真は見事だねえ。夜ひらいて朝になると萎れてしまう実に怪しげな花。以前、朝歩きのときに里山の一角で萎れかけたのを見たのが唯一の経験。ちゃんと五弁の形をしている。夜行性の蛾を誘引するための開花らしいが、こんなのを見ると生き物の不思議さを改めて思う。
色々なおじさんたちの人物模様を拝見したが、病気が多いね。生活環境のせいだと思うが、糖尿病が二名か。こんなところにも格差が覗いている。
 
  日韓の歴史問題軋轢がヒートアップしている。日韓というより、韓国の一方的なヒステリックな対応が目立つ。センサーをぎんぎんに研ぎ澄まして、日本の一挙手一投足を睨んでいる感じだ。何か言えば過剰に反応する、黙っていれば歴史問題に鈍感だといきり立つ。アメリカの各地に件の銅像を建てるなんかを見ると、もう病的な感じさえ受ける。政治家は落とし所を心得て行動するのだろうが、朴大統領にはそれが見えない。驚くのは韓国の司法がこれまた常識外の決定をする。朝野をあげて日本けしからんの大合唱になってしまった。ゴールが見えない。謝罪要求は果てしもない。そのうちに日章旗も揚げるな、天皇を呼びつけて土下座させると言うに決まっている。
  原爆投下は日本人への懲罰だと言った新聞社の論説委員がいたらしい。子供の与太話ではない、いちおう社会のリーダーの発言だ。どんな頭の構造になっているのか。
原爆投下については、「このお蔭で太平洋戦争は終結した。正義の行為だ」というのが、アメリカの有力な歴史認識だそうだ。おそるべき歴史認識だ。まあ歴史認識なんてそんなものじゃないか。
結局は、前の世界大戦の勝者の論理がまかり通っている。

2013年7月31日水曜日

いろんなおじさんたち・・・褌子

最近の近況を備忘録的に書く。【→カラス瓜の花。夜だけ咲く。ついに撮影に成功した】
いろんな境遇のおじさんたちの相談相手になっている。わがやの隣が畑で地下水をポンプでまいてやるので年中、野菜をもらう。この野菜を配って歩いているおじさんたちのはなし。
■天涯孤独の無籍のKさんのことは以前も書いた。逸徳さんのアドバイスもあって地裁で就籍に成功したのだが、宿願を果たしたとたんに糖尿病になりKさんは元気がない。横浜大空襲をうけた保土ヶ谷区を探しまわり孤児院があったという土地を探し当てたときの感動がうそのよう…。
■80何歳のAさんとは長年のつきあいなのに、広い邸宅の一部屋に実弟を住まわしていることをはじめて知った。この独身の弟Bさんが外国で会社の顧問をしているのだが帰国したとたんにAさんの玄関で倒れ、脳梗塞で全く話ができない。兄弟だがふだんの会話がまったくなくて高い治療費もこれからの介護料も年金暮らしのAさんには負担できない。わたしも相談をうけて、弟さんの部屋を徹底的にさがしてパスポートやQ国の貯金通帳多数を発見。名刺がでてきて片っ端からQ国に電話したら、ついに日本語が何とかわかるおじさんがでてきた。向こうもBさんからずっと連絡がなくて困っていたという。きのう病院で兄弟並んでの写真を撮ったが会話も字も書けない。9月になって涼しくなったらAさんとQ国を訪問して貯金をおろしてくることになった。うまく行くかどうか。相当下調べをしていかないと…
■Cさんは外国人の嫁さんと離婚し子供三人抱えて県営住宅に住んでいる。糖尿病で目がみえなくて仕事ができず生活保護をとった。小学生の末っ子が学校に行かないので私の女房も何度も相談をうけている。担任の先生も困り果てているようだ。この小学生の女の子がご飯をつくっていて私も野菜やおかずを時々届けている。
■Dさんは有名企業のスポーツ選手だったが職場結婚の奥さんが新興宗教に洗脳されて自殺。Dさんも会社に居づらくなって退職してからずっと貧乏ぐらしで子供もいない。写真をみせてもらったが奥さんはすばらしい美人。Dさんは仕事の腕はいいのだが、ものぐさでゴミの山のなかに寝ている。すぐ近所なので年中、野菜届けたり、中古自転車をプレゼントしたり。美男子の落ち着いた雰囲気の紳士で飲み屋の独身ママさんにもてるらしく、誰と同居して家賃を半分こしようかなあと贅沢なことをいっていた。
■Eさんは元羽幌炭鉱労働者。縄文人みたいな雰囲気のいいおじさんで私のいちばん好きなタイプ。だまされて保証人になり自宅競売になった事件を解決して親しくなった。庭木剪定などに老夫婦でよくきてくれたが、去年、夜中に腰がぬけた。救急車呼ぶこと忘れて一晩たつうちに悪化して入院したがまったく回復しない。悩みは50過ぎた二人の息子がまだ結婚しないこと。おばさんは年中失禁するので玄関も小便くさい。Eさんの願いだった羽幌と生まれ故郷の留辺蘂に一緒に行こうと約束していたのだが夢はかなえられそうもない。
■Fさんは某有名建築学科卒だが高校時代からボクシングをやっていたのがあだになった。ゼネコンで部長なぐって失職。どこに行っても喧嘩っぱやくて殴ってしまう。サラ金相談を解決して親しくしていたが、万引き事件で逮捕された。スーパー側と和解して、もらい下げて解決。しかし、反省文をかかないとゴネテ…私としばらく絶交中。
■書けばきりがないが、全くの仮名であっても万一のこともあるので、ここらへんでやめておこう。

2013年7月27日土曜日

戦争画・・・猫跨ぎ

  ちょっと前になるが、東京国立近代美術館(竹橋)に久し振りに出掛けた。大きなイベントはやっていなくて、所蔵展を中心の閑散とした館内。何と65歳以上は無料。この所蔵展がなかなかのもの。国立の施設は矢張り違う。教科書に見る明治以降の近現代の有名絵画が随分陳列されて、儲け物だった。
  その中で意表を突かれたのは「戦争画」。戦争中に軍部の依頼で画家の有名どころが協力、戦意昂揚を目的に戦場を舞台にした大作を描いた。戦後これらは米軍の戦利品として押収された。随分後になって、アメリカのどこかの倉庫に埃まみれになっているのが発見され、日本へ長期貸与(無期限だろう)の形で里帰りした。その受け皿になったのが当美術館というのである。
いずれも2m四方くらいの大作が取り敢えず五枚ほど掲げられている。
中村 研一 「北九州上空 野辺軍曹の体当り B29ニ機撃墜/1938年」
大空にB29二機が半壊状態で煙を上げて墜落する様子。多分当時、大喝采された事件だったのだろう。むしろ叙情的の静けさが感じられ絵としてはよく描かれていると思った。
それから、藤田 嗣治 「血戦ガダルカナル」
これは日本軍が玉砕する寸前の死闘。銃剣を振りかざして日米の兵士達が血みどろの接近戦で息をのむ。激情が迸っている。
  藤田は当時協力した画家達のリーダー格で自身率先して大作に挑んだという。ところが戦後、一転して戦争責任を問われた。まもなく再び渡仏して二度と日本には戻らなかった。向こうへ帰化したはずだ。我々が知っている藤田嗣治の絵は、細い線の輪郭で描かれた繊細な猫や女性像。その画風でフランス画壇で独自の地位を確立した。両者の落差たるや呆然とする思いだった。八月がやって来る。藤田は戦後の日本をどんな思いで眺めていたのだろうか。そして自身を。

2013年7月24日水曜日

一強多弱・・・猫跨ぎ

  参院選挙もあっという間に終わってしまったね。予想通りで、事前予測の精度に驚くばかり。自民が70を窺う、民主が半減以下、みんな、維新はそこそこ、共産が健闘、それ以外は存続の危機、みな予想通りだった。ひとこと、一強多弱。
自民はいうなれば大吉が出たわけだが、見方を変えれば、あとは下るのみということか。参院の捩れ解消で重要法案が次々に自民ペースで成立してゆくのだろう。さて。

  選挙後の各党の討論会をテレビで見たが、集団的自衛権の可否でまたわあわあやっている。社民党はもう政党要件ギリギリになってしまったのだろうが、地球の裏側に戦争をしに行くのかと、化石みたいな事をまだ言っている。馬鹿馬鹿しくて切ってしまった。

私の印象を言うと、反対党は結局自公の政策の反措定をるる並べているに過ぎない。原発反対に対しては、エネルギー問題の今後は現実に即してどうなるのか。日米安保破棄、沖縄基地全面返還は結構だが、その後の安全保障はどうなるのか。TPP反対はいいが、孤立政策でこの国はやっていけるのか。この国の稼ぐ手立てはなにか。これらについて、一貫した矛盾のない政策を提示してくれないと、どうにもならん。個々の問題点を追求するのは結構だが、この国をこうしようというグランドデザインは聞いたことがない。
  民主党は事実上崩壊したが、それが無かったからだ。しかし一強多弱では、この国は危うい。まっとうな議論をする対抗軸は当分無理か。結局、自民党のなかの、党内野党がその任を負う、つまり派閥復活がすでに囁かれているではないか。

2013年7月20日土曜日

フェースブックの発言から転載・・・褌子

   政治とりわけ国政選挙は激烈な党派間の闘争である。原発、憲法と安保・基地、TPP、消費税・社会保障…どれも、国民生活を犠牲に財界やアメリカいいなり政治をまだ続けるのかどうかの問題。
  反原発を公約する候補者たちから、一人を選んで投票する基準はいつも国民の側にたって主張し行動してきた政党に所属する候補者であるかどうかだと私は考える。川田龍平さん、橋下聖子さん、やわらちゃん達が国会という海に沈んで姿が見えなくなるのは、政治が暮らし・平和・民主主義のすべてをめぐる党派間の闘争であり、とりわけ国会が数の論理で法案が決まる場であるからだ。反原発というシングルイッシューだけで候補者を選ぶことに私は賛成できない。
 吉良よし子さんという候補者個人を私は詳しくは知らないが、反戦平和というぶれない日本共産党に所属する党の候補者であるならばと東京の知人に支援をお願いしている。
―――――いっぽう、反原発というシングルイッシューだけを堅持して毎週金曜の官邸前行動を持続、発展させ世論に巨大な影響を与えてきた反原連のひとたちは、日本の新しい市民運動のあり方を切り開いた。
  原発ゼロを願う一人ひとりの市民があくまで個人として参加できる運動は貴重。思想信条にいっさいかかわりなく、団体や政党に属する市民も全く属しない市民もみな対等平等に「原発イヤ!」の一点だけで参加できるからだ。子供も在日外国人も参加できる、反暴力で平和的なNoNukes運動を持続させ日本中の反原発世論を励まし国会議員にも大きな影響を与えつつある反原連の方々には心から敬意を表したい。選挙がすんだら家族ぐるみで参加したいと思っている。

2013年7月11日木曜日

天声人語考・・・猫跨ぎ

  朝日新聞の「天声人語」は面白い。最後の1~2行に必ずひと言ある。頂門の一針というか、ここぞのひとことの積もりだろうが、私には耳障りな最後っ屁に聞こえてしようがない。今朝は、福島第一原発の吉田元所長の死去につき、縷々述べたあと、

〈ご冥福を祈りつつ思う。「身を挺しても」の気概頼みで原発を操ってはならない。〉

そりゃそうだろうが、ここは素直に弔意を表して閉じてもいいのではないか。
ギリギリの断崖絶壁で乾坤一擲の指揮をとることなぞ、そう出来ることではあるまい。
後理屈で偉そうに教訓を垂れることは、明日からやってくれ。

2013年7月10日水曜日

一句のまえに・・・猫跨ぎ

 「季語辞典」と言わず、「歳時記」ね。俳句をやるなら必携だが、やらなくてもこれは買っておいて損はないです。ぱらぱら読んでいるだけで面白い。季節の経巡りに敏感になり、諸事楽しみが増える。角川文庫版なんか手頃でいい。

それから、もしやる気になったらだけれど、これを傍に置いて、さてうーんと考え込んでも俳句は全く出来ません。筆下ろしは難しい。つまり、定型詩だから、それなりの規則はある。最低限は知って、その規則に則る快さを体感しないと徒手空拳感はいつまでもついて回る。そして結局止めてしまう。地元にカルチャーセンターや身近に格好の先達がいなければ、最後は入門書を読むしかない。
お薦めは、角川学芸ブックス 「新版 20週俳句入門」藤田湘子著
この本(旧版)は、私自身が体験済みで、類書あるなかで抜群にいい。真面目に読めば、ね。

しかし、梅雨明け三日とはよく言うが、暑いね。

2013年7月9日火曜日

そこで一句   九州の熊

俳句かい おれはそんなの 創れない
そうか季語がないなぁ 季語辞典を開けてみる、結構おもしろそう、フムフム・・、なんていう展開になれば目出度し々々、なんだけど・・。
最近の新聞記事(投稿かコラム)にあったけど、人格やそのひとのオーラはいろんな現象に素直に感動する、ということがベースになっているとか。ひとによっては加齢とともに感動が薄くなるというけどわたしは逆に最近いろんなことに注意がむくようになったように思う。それなら俳句が一番、と言われそうだけどとりあえず合唱だけで当分はいきたいです。

2013年7月8日月曜日

前衛の喜劇・・・猫跨ぎ

おや、熊さんか。久し振りだね。俳句に余り関心がないキャラと思っていたがこれはこれは失礼しました。
「時期尚早」の真意は兜太大先生に聞いて貰うしかないが、内容については御説のように、まだまだその域でないということかも知れない、可能性としてはね。ただ誰もそんなこと思っていない。
金子兜太は戦後俳句の革新、前衛運動の旗手を自他共に任じた俳人。齢九十を超えて、まだ元気、大御所中の大御所。
俳句という文弱の徒の集まりで、最も政治から遠い世界なのに、やはり政治が幽霊のように現れた。かって前衛の旗手を任じた男によってというとことだ。組織になるとどんな世界でも政治があらわれるという理がまた現れたという意味で興味深い。
この問題は「蛇笏賞」なるものの来歴、色んな背景を説明せなければいけないので、この辺にしようや。大して面白い話でもないので。そんなことより、一句どう?

金子兜太の発言    九州の熊

俳句の世界にはまったく疎いのです金子兜太という名前くらいは聞いたことがある。
件の「時期尚早・・」という発言の真意はどういうところにあるのでしょうかね。照井翠『龍宮』の作品が紹介されていてその雰囲気はなんとなく伝わってくるのだけど、そのなかにあるメッセージをいまはまだ受け入れるべきでない・・、とか。金子兜太がいいたいことがなにかあったのでは、と考えなくはない。あまりほじくり返しても意味がないことかもしれないけど猫爺さんの心境やいかに?

函館通信212・・・照井翠・・・仁兵衛

 猫跨ぎさんが掲げてくれた照井翠の句本当に素晴らしい句ばかりだ。素晴らしいと感じると同時に実体験の強みと時宜を得た内容だと強く感銘している。日記的に次から次へ体験が拡がってゆきそれを鋭い表現で一句一句大切に表している。到底届かない存在にさえ見える。
 実体験が甘ければどうしても句も甘くなる傾向になるのだろう。そしてこれが十年、二十年後に読者にどう鑑賞されるのか想像するのは楽しいことだ。まあ芭蕉の名句と並べて考えてはいけないのかもしれないが。
 そういった意味も含めて時宜を得た作品集と言えると思っている。表現するのは何時なの!いまでしょう!
 「蛇笏賞」での金子兜太の発言は自身の固くなった頭の現われとしか言いようが無い。老害のの一種だろう。

『龍宮』・・・猫跨ぎ

  俳句の世界の話をすこし。
今日某出版社の俳句大賞の受賞式があったのでちょっと覗いてきた。
選ばれたのは、照井翠『龍宮』。照井翠は昭和37年生まれ。釜石高校の教師で、東日本大震災に実際に被災した。実体験者の句集と言うことで評判を呼んだ。私も一読したが迫真に迫り息をのむ句が多い。

・泥の底繭のごとくに嬰と母
・双子なら同じ死顔桃の花
・朧夜の首が体を呼んでをり
・春の星こんなに人が死んだのか
・穴といふ穴に人間石榴の実
・津波より生きて還るや黒き尿
・春昼の冷蔵庫より黒き汁
・三・一一神はゐないかとても小さい
・唇を噛み切りて咲く椿かな
・撫子のしら骨となり帰りけり
・朝顔の遥かなものへ捲かんとす

・泥の底繭のごとくに嬰と母
などは、何時までも語り継がれるだろう。

ちょっとこぼれ話を。
「蛇笏賞」という一応俳壇で最高とされる賞がある。今年度の受賞作品としてこの句集はノミネートされ、最後まで残ったが、結局、金子兜太の「まだ時期尚早」の一言で落ちた。これが一部で激しい反発を呼んだらしい。「時期尚早」など文学者の言葉ではない、官僚の言葉だ、と。 笑うべし、かっての前衛俳人、老害というべきか。

2013年7月1日月曜日

軍人手帳・・・猫跨ぎ

  軍人手帳は神保町の古書街で古い絵葉書とかその他もろもろの雑物のなかに時たま散見されますね。これちょっと脚色していて、実はそんなに高くない。それから、芸大の美術館で漱石展やっていて、漱石のデスマスクが陳列されている。なに、覗き込んでいたら、ご婦人が傍へ来て一緒に見たということで。

  写真展が好きでよく出掛ける。先週は恵比寿の写真美術館で三つの写真展を見た。「日本の写真1968」、「世界報道写真展2013」、「写真のエステ-光、反映、表層、喪失、参照」
それぞれに面白い。
「日本の写真1968」は、昭和43年に軸を据えて、その前、以降の日本の写真界を振り返ったもの。我々が社会へ出た頃だ。日常、事件が活写されている。当時コンテンポラリー写真という運動があった。同時代という意味。カメラマン自身が何を撮っているのか、どんな意味があるのかは判然としなかった写真が、40年たって今見ると、まさに時代を見事に活写していることがよく判る。なつかしく涙ぐむのもある。不思議なものだ。
こういう歴史がぼんやりと綴られて行くのはどういう作用なのだろうか。

さて、フロアを変えて「世界報道写真展2013」。まさにup to dateな写真。爆撃されたガザで死んだ子供を抱いた葬列。パキスタンのDVで夫から酸を浴びせられた女の無惨な顔。アメリカ黒人街の荒廃。現実が、まるで生木を断ち切ったような衝撃で目の前にある。
ふと思う。50年後この写真は、どんな歴史の薄膜を被って未来の人の前にあるのだろうか、と。

函館通信211・・・句評遅くなりました・・・仁兵衛

猫跨ぎ氏の句評遅ればせながらそっと。先ず目に付いたのが
・香水の香や漱石のデスマスク・・・・・香りとデスマスクの取合せに驚かされ、発想の面白さに圧倒された。
同じ様に自分には無い発想の斬新さに惹かれたのは
・アマリリス右脳の夜の襞の中 ・満州の野を駆け抜けし跣足かな の二句。
更に作者の過去に何があったのか想像しながら楽しめたのが 
・夏蝶や軍人手帳の高値札 ・卯の花腐し叔父が鶏絞めに来る
軍人手帳というものは見たことが無いので強い興味を惹かれました。又、鶏絞める事も本当に過去のものとなってしまったね。



梅雨空・・・猫跨ぎ

  辛坊治郎が「自己責任」で叩かれていると聞き、何のことかと思っていたが、イラクの人質事件の報道時の発言を問われているという。自分は救助要請し自衛隊機で助けられた。イラクの女性に救援機派遣などとんでもないとかって発言していた。なら、今回の掛かった費用を弁済せよ、か。辛坊氏が払うというのなら払えばいいしということだろう。
  印象をいうとこういう攻め方は意地が悪いね。風と桶屋の話みたいに、色んな関係性が入り組んでいる社会にあって、前言、前行為を人質に取られ、そら見たことかとつつかれていたら敵わんなというのが率直な印象だね。いわんや、マスコミで碌を食んでいる人間においておや。これが前例になると後顧をおそれて、沈香を焚かず屁もひらずの大人しい人間ばかりになる。マスコミの人間は一種のトリックスターみたいなところがあるから、放し飼いにしておいた方が面白い。あまりカリカリすることもないのでは。
  それから、相も変わらずアメリカ帝国主義と日本独占資本が諸悪の根源みたいな論調につながるが、つまりそれが最も坐りが良いような思考様式のように思われるが、どうなんだろうね。すくなくともイスラムの地殻変動は違う視点から見ないと見えてこないのではないか。まあ好きずきではあるが。

因果はめぐる・・・褌子

   因果はめぐるである。
  ネット上ではテレビキャスターの辛坊治郎氏が話題を呼んでいる。
  辛坊氏らがヨットで太平洋横断に乗りだし、宮城県沖で船が浸水して自衛隊機に救助された事件である。荒天をおかしての  自衛隊機による決死的な救出だったようだ。問題は、辛坊氏が日ごろから読売新聞系のテレビで「自己責任論」を展開してきたので、こんどは税金をつかった救出費用を「自己責任」で弁償しなさいという議論がネット上に噴出しているのである。
  私が記憶に残っているのは、イラクで戦争孤児支援にあたっていた高遠さんという女性達が、イラクで人質になってしまい日本政府が救出して帰国したときに辛坊氏が「自己責任論」を展開して高遠さんたちに費用を弁済しろとテレビで追及したことだ。戦争孤児支援にがんばるほどの高遠さんという正義感の強い気丈な女性が、事前に身内から説得されたらしく、成田空港で頭を下げ続けて謝罪し続ける姿は痛々しかった。あれほど自己責任をテレビキャスターとして主張してきたからには、一千万~四千万円ともいわれる税金をつかっての負担を辛坊氏は払えという議論がネット上にとびかうのも無理はない。
  私は、こんどのヨットの太平洋横断計画がテレビでの出演を意図したものであったにせよ、無謀だったのかどうかはわからない。国民の生命、財産をまもるのが政府の仕事である以上、救出は当然であり救出費用の弁済などはする必要はないと思う。(三浦雄一郎氏がもし遭難していたら…とかいろんな事例が想定されるが)
  しかし、辛坊氏はかつて自己責任論で追及したことだけは高遠さんたちに謝罪する必要があるのではないだろうか。謝罪する必要はないと強弁するのであれば、言ってることとやってることがちがうときびしい批判が続くであろう。
 (辛坊氏が当時の石原都知事に単独インタビューして東京都民は福祉に頼りすぎだと元知事と意気投合していた放映場面を苦々しく思い出す)
  こんど、国会末に民主党の醜い右往左往であやうく成立しかけた生活保護「改正」案も、困窮している国民が生活保護に頼らないように水際で撃退し、増え続ける生活保護費を抑制しようという法案だった。最近、大阪で餓死した母子がみつかったり札幌でも病気の姉妹が生活苦で心中した事件があったが、困窮する国民の最後の命綱まで断ってしまうという冷酷無比な法案だった。こういうものがでてくる背景にあるのが「自己責任論」なのである。貧乏になるのも病気になるのも身体障害をもって生まれてくるのも自己責任だというのである。当時、小泉首相や竹中平蔵氏がもっとも強力に主張し、辛坊氏らマスコミ関係者がそのお先棒をかついで、自己責任という妙な嫌なことばがはやりだした。
当時の小泉内閣が「財政再建のためには国民は痛みにたえる必要がある」と喧伝し、社会保障費を毎年二千六百億円も削減するために生活保護受給などはできるだけ遠慮すべきだと自己責任論を展開していたから根は深いのである。
 多くのネット氏らも、あのときの印象が強烈だったので、こんどは最低でも一千万円はくだらないといわれる税金をつかった救出費用を辛坊氏は負担せよというのであるが、もし負担をしたらかえって「自己責任論」は肥大化するのではなかろうか。
―――――
 話がすこし飛ぶが、だいたい、七年前のイラク戦争自体がイラクのフセインは大量破壊兵器をもっているとでっちあげてアメリカのブッシュ大統領が国連決議を無視して軍事介入をしたものである。9・11の首謀者をイラクが匿っていると無理矢理強弁したうえでの侵攻だった。
 イギリスのブレア首相につづいて小泉首相もアメリカのイラク介入を支持し、自民公明政権がイラク特措法を成立させてはじめて大規模の自衛隊海外派兵に踏み切った。大量破壊兵器など全く無いにもかかわらず数十万のイラク国民が犠牲になり、四千人ちかい米英の若者たちが戦死した。それどころかフセインの強権で抑えられていたスンニ派シーア派の抗争が、イラク戦争でいっきに激化し、いまだに悲惨な自爆テロ事件があとをたたない。
  「大英帝国の民族対立を利用しての植民地支配を脱してやっと独立を達成した発展途上の石油だけが資源の複雑きわまるイラクという国家」が、アメリカの軍事侵攻で民族対立再燃という地獄の釜がいっきょに開くことになるのではないか、という危惧が当時からあったが、事態はその通りになった。大量の米英軍の兵士の戦死でブッシュ大統領もブレア首相も退陣し、派兵したスペインでも政権交代が起きた。
  日本の自衛隊は日本国憲法九条が幸いして、戦闘地域には送られず、サマワという地域に駐屯してひとりの戦死者もださずに帰還できた。当時の指揮官のひとりが帰国後、日本の憲法に救われたと発言したことが印象深い。しかし、小泉元首相はイラク戦争を支持した不明を黙して語ってはいない。
  このアメリカ侵攻軍に従属しての自衛隊派遣で、中東諸国の親日感が一変したといわれている。ペシャワールで奮闘している中村哲医師たちもそのことをなんども日本のマスコミに寄稿して警鐘乱打してきた。昨年、北アフリカで起きた日揮の事件もその延長線上にあるのではないか。もし自衛隊派遣がなかったら高遠さんたちが反米ゲリラの人質になることがなかったかもしれない。うっかりイラク旅行にいってしまった幸田さんという青年が人質になり小泉首相に見殺しにされて頭部切断で殺されずに済んだかもしれない。
  軍事をもっては世界のもめ事は結局は解決しない、いっそう事態は複雑になり犠牲者の身内から報復にもえるテロリストがでてくるということを示している。

2013年6月29日土曜日

ピコピコ・・・猫跨ぎ

 Twitter、Facebook が世界中に蔓延しているらしい。時の総理大臣が、もと高級官僚を名指しでやっつけたりしている。岩手の県会議員がアホなこと言ったのは悪いが、ブログが炎上したとかで、自殺してしまった。死ぬことはあるまいに。しかしネットは肉声でないからどんどんエスカレートする。この恐怖心は経験しないと判らないらしい。
電車の中は言うまでもないが、最近は駅のホームで歩きながらピコピコやっており、放送で注意を喚起している。とにかくしゃべりたいんだね。自己表現、自己露出、したくてしたくてか。おおむね自分は安全なところにいて、玉を打ちまくる。あまり健康的じゃない。
ポアンカレの問題に没頭し世捨て人になってしまったロシアの数学者を対極におき、人間の知性の奥深さを珠には拳々服膺したいものだ。

『死の家の記録』・・・ 褌子

   4月にiPhoneを買った。5月にTwitterとフェースブックを始めた。電車のなかで本も読まず、居眠りもせずにピコピコやっている奴をしんそこ軽蔑していた自分が、ピコピコ族に転落した。
  夜9時ごろ寝ると朝4時過ぎに目が覚めてフトンのなかでしばし沈思黙考。あれやこれやと腹がたつことが多いなあ。安倍首相が「事故を経験したから日本の原発は世界最高水準の安全技術」をもっていますと、あっちこっちに核のトップセールスをして自慢している。高市早苗自民党政調会長が「原発事故でひとりも死亡していないのだから、再稼動もしたらどうか」と演説したこと・・・これらは橋下の慰安婦発言よりも莫大な復興予算を関係ないことに流用していたというニュースよりも腹が立った。腹にためておくのは身体によくないと清少納言もいっているので、ちょっと腹がたったことをわずか140字以内でTwitterで文字通りつぶやくように発信するのである。そうすると数分以内にどこのどういう人かはわからんが何人もの人から反応らしきものがある。さらに、賛否もふくめて首相のトップセールスに対する発言などを自動的に広い集める機能が働いて一時間くらいで何十人もの意見が自分の携帯電話上に次々とあふれる。(世の中ヒマジンが多いらしいが、世の中同憂の士も多いようだ) 
   慰安婦発言で大阪市議会で橋下市長の問責決議案がでたときに、公明党がどたんばで維新側について辞職が不発になった夜には数千人が「コウメイはコウモリだ」とか「やっぱりそうか、そうかがっくり党」などの発言がTwitter上にあふれた。右翼の誹謗中傷(ネトウヨというらしい)、「なりすまし発言らしきもの」はブロックすれば来なくなる。こういうネット上での即時的な簡単な意見交換の場というのはいままでなかったから流行っているのもうなずける。わたしもときどきつぶやくが、下品な個人攻撃などは決して書かないように注意している。
   いっぽうフェースブックは匿名性がないかわりいくらでも書ける、友達の友達…というふうに交換の輪がどんどん増えていくが、ある一定の枠のなかでの情報交換のようだ。Twitterのように、はちゃめちゃな四方八方への広がりがない。私の性格ではいまのところTwitterのほうがおもしろく、しかも外出中、電車のなかなどで世論の動向を観察するのに向いている。Twitterで情報が流れて一日くらいたつとテレビや新聞がおそるおそる報道するがメディアが流すものは権力迎合の取捨選択されたものが多いのだと痛感させられる。
   「アベノミクス 株価」などと打ち込んで検索すると、もうかったぞ、いま買えという株屋らしき発言、いやアワノミクス、サギノミクスだと損して怒り狂っている人、アホノミクスだと早くから一刀両断して警告していた浜矩子同志社大教授への共感と反発、構造改革なくして経済成長はありません貴方も株買って経済再建に一役をなどと年中しゃべりちらしている竹中平蔵などの御用学者などなど百花繚乱の場外乱闘。
―――――
   もちろん、Twitterよりもフトンのなかで読む小説のほうがはるかに面白いのはいうまでもない。「光文社古典新訳文庫」というのはありがたい。いま読んでいるドストエフスキー『死の家の記録』もむかし難解だなあと投げ出したことがあるが、望月哲男訳だとすらすら読める。人間、いつの時代も地球上のどこにいてもやること考えることは似たようなものだな…いやいやそうと決めてかかると間違うぞ。人間離れした囚人たちの異様な体験告白、言動の数々・・・

2013年6月27日木曜日

そして日本は・・・猫跨ぎ

 ぱたと訪れが無いので続けよう。都議選が終わって、参議院の選挙も大体結果が予想されるようになった。自公の圧勝、民主、維新の惨敗。安倍内閣の異様な人気で他は蹴散らされた感がある。共産党のみは自公の反措定との位置づけで存在感を発揮したと言うことか。
  民主党、維新の凋落は、ふわふわした民意が如何にはかないことかということの証左だろう。民主党は、綱領がないことに象徴されるが結局何をしたいのか判らないままだった。憲法改正可不可、原発推進可不可もはっきりしない。小澤、鳩山、管の結党三人男が政界から事実上消えてしまった。こんな事ありか。消えただけでなく、罵詈雑言を浴びせられている。なんの蓄積のないまま消えてゆくのは、政党政治の歴史の中で損失だろうに。維新は、太陽の党と合流したあたりから、急におかしくなった。しばらくは大阪で実績を上げていればよかったのではないか。慰安婦発言がなくても失速していたと思う。
  やれやれ自民党の利権政治がまた復活するのだろう。目に見える。
その前に、アベノミックスの行く末はどうか。誰も予想できない。株価上昇、円安というまるで絵に書いたような推移にあっけにとられているのが現状。マスコミは、一時東証が大幅に下げ、円高に振れたとき、そら見たことかと手を叩き、メッキが剥げたと囃したが、それも収まるとまた黙ってしまった。それに増してけしからんと思うのは、多くの経済学者だ。今は黙っている。行方が見えて来たときに、偉そうに後講釈をするのだろう。過去十年の悪性デフレに対し何の処方箋も出せずにきた連中だ。

2013年6月25日火曜日

ついでにCIA・・・猫跨ぎ

ついでに、CIA職員がCIAの大規模な盗聴を暴露した事件。香港政府が匿い、出国させてモスクワ経由でキューバを経て、エクアドルへ亡命させるということだった。ところが今朝、モスクワで行方不明になったと報じられた。一週間ほど前、ロシア通の元外交官佐藤優がもしロシアの手に落ちたら最後、彼は洗いざらい知っていることをしゃべらされる、そういう薬剤を彼等は持っていると言っていた。これはお膳立てされた筋書きと思われる。
職員はそういう罠に知ってか知らずか落ち込んだのだろう。それから冷戦時代の構図が世界地図上にまだしっかりと残っているという事だろう。

2013年6月24日月曜日

判らんことが多い・・・猫跨ぎ

  これも新聞を読んでの雑感なのだが、ぎょっとしたことが続いている。パキスタンの最高峰ナンガパルパットを目指していた外国登山隊(ウクライナ人、中国人など)をタリバンが襲撃し10人が殺害された。これは、その前にタリバンの指導者が殺害された事への報復という。登山隊と何の関係があるのか。
  それから先々週だったか、パキスタン南西部の都市で女子大生の乗った通学バスが爆破されて大勢が殺傷された。念の入ったことに、負傷者が担ぎ込まれた病院も一味に襲撃されて多くが死んだという。これはスンニ派の過激集団が、多数派のシーア派との紛争の一環という。手当たり次第の襲撃で、目的も効果も見通しも何も考えずやっているとしか思えない。
  イスラム過激派が無茶苦茶するという印象は数年前、アルジェリアで武装集団が、いきなり村を襲って女子供老人構わず殺害を繰り返したのを思い出す。同胞だろうにと思うが、宗派間の対立は半端な物ではないのだ。これがこの前、日揮のいたプラントを襲った北アフリカのイスラム過激集団のルーツだろう。
全く、世の中判らんことが多い。彼等に一つ転んで、核兵器が転がり込んだらどうなるか。躊躇しないだろうなと思う。そういう時代だ。

2013年6月23日日曜日

存えて古希・・・猫跨ぎ

昨日の葬式参列の件は、今月の10句の内容と無関係です。念のため。

冷酒や存へ卒寿の喉仏
の存へは、ながらえ、ですね。 生きながらえて卒寿の爺さんの意。

梅雨曇り・・・褌子

・冷酒や存へ卒寿の喉仏
存へは何と読むのですか?
・降り出しはいろいろ匂ふ夏の雨
なるほどねえ。たしかにそういわれれば
・アマリリス右脳の夜の襞の中
「夜」を「昼」にすると一句の味わいが千分の一くらいになる。襞を皺にすると印象が百分の一くらいになってしまうし、アマリリスをクレマチスにすると句の諧謔が台無しになる。理屈っぽい逐語的な左脳に比べて、アマリリスのおおらかで、おおざっぱな雰囲気がなんともよい。。右脳で俯瞰しどんどん歩いて左脳でちょいと立ち止まり地図をみるのが粋な生き方らしいが。右も左も襞も皺もないとどう生きればいいのか。深い苦脳  
・満州の野を駆け抜けし跣足かな
    そういう経歴の持ち主だったのですか故人は
・夏蝶や軍人手帳の高値札
そういうものが柩のなかに入っていたのですか。
いぜん、あるひとの葬儀にいったら柩のなかに大学時代のゼミの古ぼけたノートが入っていた。びっしり鉛筆で書き込みがしてある。奥さんが、このノートが主人の出発点だと思って…と言っていた。
・卯の花腐し叔父が鶏絞めに来る
少年のころの記憶?
―――――  
  松本清張の『古代史疑』をぱらぱらと読んだ。
  日本古代史に関する最古の資料とされている『魏志倭人伝』について日本人が鎌倉室町のころから現代にいたるまで、どう読み解こうとしてきたのかをざっと全部俯瞰して論点難点を整理し、発掘された考古資料まで駆使して邪馬台国と卑弥呼について自説を開陳している。推理小説の大家だけに四方八方から切り込む深い推察が読者をうならせる。二世紀後半から三世紀前半の古代日本。霧がかかっていてよくみえない。いぜん、玄界灘にのぞむ糸島半島前原の古代史博物館を訪ねたことがある。魏使はこの伊都国にまで対馬、壱岐をへて来たことは間違いない。そこからが魏使がどう歩いたのか、本当に歩いたのか…なんとも難しい。
とにかく清張は右脳も左脳もおそろしく襞が深い。