2012年12月31日月曜日

つまり・・・褌子

   熊さん、ぼくのつたない発言を読んでくれていたんだね。ありがとうございます。
  来年のささやかな抱負は↓の「いよいよ本格的に真剣勝負で、耳を傾け、出来るだけ相談にのりたいと思う」というところです。
  じつは相談にのっても解決しないことが多いね。しかし本人がすこしでも元気がでてくれればいいんだ。こっちも一期一会のつもりで生き甲斐感じてやってるんだ。熊さんが合唱に熱中するのと同じ心境かもしれん。
―――――年の瀬のつぶやきツィッターは以上でおしまい。大晦日の今晩は、難しいことは考えず旨い酒をじっくり飲みながら年賀状を書くことにしよう。
ではみなさん良いお年を!

それで・・?   九州の熊

来年の抱負はなんなの?

来年の抱負・・・褌子

   古稀記念に来年の抱負を書いてみる。
  世の中には生活に困窮している人がじつに多い。食うに困らなくても家庭的に悩んでいる人も本当に多い。
  来年こそはいよいよ本格的に真剣勝負で、耳を傾け、出来るだけ相談にのりたいと思う。
  きのうは亡妻の生命保険九百万円だましとられた独り暮らしの老人の相談にのった。今日の午前は、若気のいたりでつくった三千万円の借金を土建業の下請け業者として死にものぐるいで働いて返済している青年が、無申告だというので同世代の青年税理士のところに年末無理を承知で連れて行った。中卒のこの青年とは25才から十年つきあっている。午後は、電話だが離婚相談にのった。パチンコ狂の主人と別れる、いや可哀想で別れられない…ずっと同じことを悩んでいる生活苦の奥さんだ。こちとらの年賀状も手つかずのまま、えんえんとつづく長電話に、いらいらしていた女房が『大掃除!どうすんの!!!』ととうとう怒鳴りだした。こういうのを内憂外患というのだ。
  こういうとき、机のうえの田中正造の肖像画がみるのがいい(写真)。軍人恩給の相談にのったおじいさんが自分で模写して置いていったもの。
  田中正造の名言はいくつもあるが、「辛酸亦入佳境」が簡潔でいい。
  真の文明は山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし
第一級の日本人である。

2012年12月29日土曜日

髙野素十・・・褌子

   方丈の大庇より春の蝶の髙野素十がこんなぴったりの句をつくっているんですね。大蔵経を安置している部屋は寒くて薄暗く障子をあけたら外は一面の雪だった。大蔵経は一切経ともいって、仏教の聖典を網羅している。そういえば福島にも一切経山があります。
  若山牧水のうたは正しくは    けふもまた心の鉦を打ち鳴らし打ち鳴らしつつあくがれて行く 
  年の暮の心境としてはどっちでもよろしいが記憶力が恐ろしく減衰している。

一切経を蔵したる・・・猫跨ぎ

雪明り一切経を蔵したる  高野素十
まさに格好の一句だね。

年も押し詰まり、孫も来るというのに風邪をひいてしまった。今日になって大分回復。なんとかなりそうだ。午前中は蒲団の中で、枕もとの本をあれこれ斜め読みしていた。
こういう気分も悪くない。

2012年12月27日木曜日

年の暮れの心境・・・褌子

   湯宿温泉という群馬の水上の奥に行ってきた。
   粉雪の舞うなか野仏めぐりをする。寒くて観光客もだれもいない。谷川岳は真っ白。写真は泰寧寺という古刹の野仏たち。
   若山牧水も泊まったという金田屋という古い旅館で一泊。
   旨い酒を二合飲んだ。目の前に牧水の掛け軸あり。
人の世にたのしみ多し然れども酒なしにしてなにのたのしみ
   まさに逸徳さん向きのうただね。私の年の瀬の心境はむろん
   けふもまた心の鉦をうち鳴らしうち鳴らして独り旅ゆく 
  牧水ゆかりの談話室みたいな部屋があり、そこの本棚に「大正新修大蔵経」全100巻があった。誰かが寄贈したらしい。大蔵経という名前はきいたことがあるが巻物ではないにしても本の現物をみたのははじめて。↓写真のように手に取ってみる。びっしりと経文の細かい漢字が並んでいて目がまわりそうである。諸橋轍次『大漢和辞典』を図書館で開いて見たときみたいになにやら厳粛な気持ちになったから不思議だ。
   キリスト教は新旧の聖書、イスラムもコーラン114章だけだが。
  広辞苑をひくと
  『大蔵経』=仏教聖典の総称。経蔵・律蔵・論蔵の三蔵およびそれらの注釈書を網羅した叢書。パーリ語・チベット語・モンゴル語・満州語・漢語のものが現存。一切経。蔵経
  『大正新脩大蔵経』=1924年(大正13)から34年(昭和9)にかけて、高楠順次郎・渡辺海旭・小野玄妙らによって刊行された日本で最大の大蔵経。正編55巻、続編30巻、別巻15巻(図像12巻、昭和法宝総目録3巻)の全100巻から成る。大正蔵・正蔵と略称。
  

今夜は冷える・・・猫跨ぎ

  しかし今日は冷えるね。北海道は雪も冷え込みも一級らしい。いやはや当地も予報では明け方-7℃となっている。ホントに水道管大丈夫かな。
  仁ちゃん、過分な言葉どうも有難うございます。ここ数年、割と一生懸命俳句をやってきたつもりだけれど、世界がどんどん開けてゆく。実にいい伴侶をえたという気がしている。物理的な時間は、音を立てて過ぎ去ってゆくけれど、俳句の世界に遊弋していると、ここには別の時間が流れている。もう何度も未だの人には俳句(勿論これに限らないが)を勧めてきたが、全く後悔はしていない。改めて勧めたい。

2012年12月24日月曜日

函館通信195・・・猫跨ぎ句評・・・仁兵衛

 今年も押し詰まったね。猫跨ぎさんの秀作一年間楽しませていただきました。今月は特に味のある優れた句が多いいじゃないかな。

・鍋敷があつたので買ふ文化の日 ・フィリピン産オクラを刻み十二月・・・二句とも生活観が滲み出ている共通点が面白い。鍋敷とオクラの焦点が決まっているのが良いんじゃないかと思う。

・ボロ市や根付の棚の混み合へる・・・こちらは個人的に世田谷線の若林を知っているので懐かしさ一杯で特選にしてしまった。

・古書の傍線腑に落ちて寒鴉 ・鳥渡り父の時計の動かざる・・・この二句には季語の使い方の上手さに感心。季語と季語以外の所との距離が絶妙といえるのだろう。

 以上五句を選ばせて頂きました。函館は雪も少しあり、真冬日が続いていて本当に寒い。句作もとかく億劫になりがちです。
 来年も宜しくホロホロ句会を盛り立てて下さい。

2012年12月23日日曜日

わかるわかるよ一杯飲もう・・・褌子

逸徳さんのお怒りはもっともだ。
迷走日本はどこへ行くのか。
ちかくの袖ヶ浦公園に女房といったら寒風の大きな沼一面に水鳥が楽しそうに泳いでいた。かるがもの親子の可愛いこと。あの連中は悩みなんてないんだろうなあ。
とりあえず猫跨ぎ句を鑑賞して逸徳さんの怒りを鎮めたい。
・古書の傍線腑に落ちて寒鴉
  古本屋で経験あります。先日、神保町で一海知義『漢詩 漱石と河上肇』を立ち読みしていたら、かつての持ち主の傍線があってぴたり腑に落ちた。買おうと思ったが高いのであきらめた。百円で買ったのは石光真人『ある明治人の記録――会津人柴五郎の遺書』これはいい本だね。近所の会津会をつくっている横山医院の先生にプレゼントしたい。
 薩長の下級侍どもは天下をとったとたんに位人臣をきわめ、旧藩の江戸藩邸を接収し勲章ぶら下げてふんぞりかえった。会津藩士は下北の辺地で俵のなかで寝てネズミを喰って飢えに耐えた。
・鳥渡り父の時計の動かざる
 準特選
掲句は時間というものをしみじみと考えさせる秀句。考える自分もほどなく時間のなかに埋没し消え去ってゆく。いいねえ、人生というものはそういうものらしいのだ。親戚の八十過ぎのおじさんから『うたかたの三万日』という部厚い「自分史」をいただいた。面白く読んだが、他人の自分史などというものはなんとなく儚いものだ。まさにうたかた。私は自分史を書く趣味も家系図調査の趣味もない。しかし道産子がご先祖様の出自を調べに内地を訪ねるのはあれはよくわかる。自分も屯田兵の子孫だったら同じことをやるだろう。
・鍋敷があつたので買ふ文化の日
 鍋敷たった一枚ね。文化の日に自分で買ったのね。あたたかいしみじみとした庶民性がよい。
 今夜は牡蠣鍋か、白菜たっぷりのチゲ鍋か。立ち上る湯気がみえるよう。幸福はこんな日常の細部に宿るんだ
・悔恨といふ塊の秋落暉
 落魄のひとの相談によくのるんだ。とにかく延々と話をきくんだ。生きる気力が本人のなかに少しわいてくるまで耳をかたむけるしかないんだ。人間はどんな親をもつかで人生は大きく左右されるね。ひとは親を選べないんだ。
 安倍とか石破とか小沢とかみんな苦労と無縁のお坊ちゃん育ちだね。おれも苦労という苦労もしないで古稀になったんだけど…
・着ぶくれやメタセコイアの暮れ残る
 メタセコイアの紅葉は大好きだね。あの色がいい。夕景によくあうし初冬の朝日にもよくはえる。地面も一面針葉がしきつめられている。北米外来の木がすっかり日本に定着している。長柄町にふる里村という別荘地帯があって見事なメタセコイア並木がある。外来種といえば今はセイタカアワダチソウもススキの陰にひっそりと控えめに。おごる平家は久しからずだ
 特選
・フィリピン産オクラを刻み十二月
  オクラの花は黄色の大輪。昔はオクラなんてなかったな。
  ちゃんと自炊して作者は御飯食べているんだね。
・冬構鏡台の裏はじめて見る
  奥様ご愛用の鏡台。新婚時代を思い出している微笑ましい景。
・草か木かまだ朽ちかねる枯芭蕉
  芭蕉は多年草だそうだ。あの葉っぱは豪快だ。
・ボロ市や根付の棚の混み合へる
  根付けというと池波正太郎の世界へなぜか飛ぶ。
・「目覚めよ」と叱られ年末大通
  はて誰が誰に叱られたんだろう。
  一方的に、悔い改めよ、さすれば神は貴方を救う…大音響で流している宗教団体があるけれど。こちとらは悔い改めることは今のところあまりない。牛飲馬食以外は。  

2012年12月22日土曜日

まあ判るけれど・・・猫跨ぎ

  怒りはごもっともだがどうすればいいのか。民主主義に替わってどんな政治体制がいいのか。世代間責任という言い方をするなら、今の人間の存在のありようが救いがたく後世に無責任だな。シェールオイルの成功で石油問題は解決だなんて喜んでいるが、たかだか数十年先に伸びただけ。ウランだって資源の寿命がある。みな食い散らかして居るだけだ。まあ、亡びるだけじゃないか。未来永劫に人類はあらねばと思うから悲愴になるが、どう転んでもそんなことはありえない。
で、最近の十句。
・古書の傍線腑に落ちて寒鴉
・鳥渡り父の時計の動かざる
・鍋敷があつたので買ふ文化の日
・悔恨といふ塊の秋落暉
・着ぶくれやメタセコイアの暮れ残る
・フィリピン産オクラを刻み十二月
・冬構鏡台の裏はじめて見る
・草か木かまだ朽ちかねる枯芭蕉
・ボロ市や根付の棚の混み合へる
・「目覚めよ」と叱られ年末大通

2012年12月21日金曜日

もうわやくちゃだ・・・・逸徳

今回の選挙 とちゅうから気持ちが悪くなり 新聞もテレビも一切みるのはやめた。 残り少ない人生、精神衛生に悪いことはやらん。 しかし、ほんとにほんとに政治かも財界人もばかに見えてしょうがない。 民主主義について。 これ制度疲労おこしていないか。 ワイマール憲法のもと、民主的な選挙制度のもとで国民に選ばれて!!! 出てきたのがナチスだったのは、もうみんな忘れたのだろうか。 で、一番気になるのが原発の使用ずみ核燃料の問題である。 エネルギー問題だ、経済問題だなんてわーわーいっても、この問題、いまだに解決のめどがたっていない。 環境倫理学における基本的視点としてよくいわれる「世代間責任」ということばが、頭をよぎる。 要するにわれわれは子孫たちの安全性をくいものにして現在だけを生きているのだ。実に反道徳的、反倫理的。一度この世界はガラガラポンにすべきか。 しかし、この使用ずみ燃料の処理は選挙ではまったくとりあげられなかった。 もう、今が良ければ゛というバカばっかりである。
 民主主義という政治システムは再生可能なのか。 こういうことを考えていると、吐き気がしてくる。 もうやめた。 あと20年ももってくれればいいや。

十二月もあとわずか・・・猫跨ぎ

  寒くなったね。昨日は師走の東京を某麗人とあちこち歩き、十年ぶりに某焼鳥店を訪ね懐旧談をして久々に気分良く帰宅。寒いが心地よい。冬はこうでなくては。
古希か。信じられん年になったなあ。生きていることが不思議だ。これからもだらだらと馬齢を重ねていくか。
  選挙の話に戻る。言っておくけど、小生は今回の結果を慶事とは全然考えていないから念のため。選挙制度はどれにしても長短ありで、結果はそれなりに受け取らねばならない。偏りが大きい議員数はともかく、支持政党のなまの数字が現れた比例選挙の結果はそれなりに正直な結果を見せている。原発の略容認派は、自民、民主、維新、公明で併せて70.3%、即停止は、共産、社民、未来で併せて16.4% 。まあこの結果で結局は原子力政策は決められていくのだろう。それが「民主主義」ではないのか。

仁句鑑賞
・問はれたる核エネルギー12月
そうね。選挙では原発含めたエネルギー問題が本来問われたはずだった。
・玄冬や此処が始発の駅となる
北の入口函館への挨拶句かな。
・余所行きを着ることもなし冬の海
ネクタイなどは無縁になったなあ。今年は一回。
・ダイヤルは二十の扉夜半の冬
二十の扉。アナウンサー誰だったかな。藤倉修一?ダイヤルは何だろう。黒電話はとっ くに消えてしまったし。この辺は仁ワールド。
・去年今年リバーシブルに使ひけり
裏地も表にして着れるのをリバーシブルというが、季語のことを言っているのだろう。
・散らかした百の話題や忘年会
その通りで、言いっぱなし、聞きっぱなし。この無責任がいい。
・帰還船どしんと落ちて枯野かな
北海道の帰還船といえば終戦間際の樺太からのものね。撃沈された悲劇があった。
・円盤や独りで年末吸ってをり
仁ワールドだなあ。年末を吸う円盤とは。
・観音地蔵不動の順に収めけり
お札をこの順に収めたのかな?
・天元の黒石活きて虎落笛
囲碁は句意を醸しやすく、俳句のタネが転がっているように思うね。私は残念ながらやらないけど。 特選。

2012年12月20日木曜日

目出度い!仁ちゃんもついに古稀・・・褌子

    七十にして心の欲するところに従って矩をこえず   
    最近やっと女難剣難水難酒難にも動じなくなった。安心立命の境地になんなんとしている。
    銀座高級バーの客飲み残しブランデーをちびりちびりやっている。タダ酒だと思うと実に芳醇にしてかぐわかしい、肴はスルメにマヨネーズ(国兼さんの大好物とか)でたいしたことないがとにかく酒がいいんだ!
    仁ちゃんは今月二三日生まれだったね。私は一八日で五日間の先輩だ。
・問はれたる核エネルギー12月
 原発が争点にならなかった総選挙のことかな
・玄冬や此処が始発の駅となる
  準特選。朱夏とか玄冬とか雰囲気のある漢語だ。赤と黒。春と秋はなんていうのかな
・余所行きを着ることもなし冬の海
  寒いもんなあ。正装して出かけることなんか無くなったということか
・ダイヤルは二十の扉夜半の冬
  二十でなく二重の扉ではないですか。あの日あの頃のNHKラジオ
  笛吹き童子とか赤胴鈴の助。♪ヒャラリコひゃらリーコ。
・去年今年リバーシブルに使ひけり
  面白い発想だね
・散らかした百の話題や忘年会
  忘年会だなあ。
・帰還船どしんと落ちて枯野かな
  戦後まもなくの風景。舞鶴港。白山丸や興安丸そして「岸壁の母」
  「帰り船」♪波の背の背に~。函館港にも樺太からの帰還船が入港したはず
・円盤や独りで年末吸ってをり
  なるほど面白い
・観音地蔵不動の順に収めけり
  観世音菩薩→地蔵菩薩→不動明王の順番なのね
・天元の黒石活きて虎落笛
 特選

函館通信194・・・古希・・・仁兵衛

 おーい!俺も古希仲間に入れてくれ。12月23日まで行けば無事入会とさせてください。何も皆さんに振舞うものも見当たりませんので拙句をお届けします。古希が見えてきたら自分がどんどん老けて行く速度が早くなってきているみたい。句の中に溌剌としたものを出したいんですがそれがさっぱり表せません。

   問はれたる核エネルギー12月
   玄冬や此処が始発の駅となる
   余所行きを着ることもなし冬の海
   ダイヤルは二十の扉夜半の冬
   去年今年リバーシブルに使ひけり
   散らかした百の話題や忘年会
   帰還船どしんと落ちて枯野かな
   円盤や独りで年末吸ってをり
   観音地蔵不動の順に収めけり
   天元の黒石活きて虎落笛



 

妙な古稀祝い・・・褌子

   民主党の惨敗は当たり前だが、自民党が圧勝したのは小選挙区制のせいだ。
「東京新聞」では全有権者でみると自民党は小選挙区制で24%、比例代表では15%の支持にすぎないと報じている。小選挙区制では四割の支持で議席の80%を獲得したが、安倍や石破もさすがにあまり浮かれてはいない。
   世論調査では65%くらいが原発反対、55%くらいが消費税増税反対、憲法改定は賛否半ばとなっているから、民意を正確に反映していない政党が圧勝し政権をとることになった。まあこれも民意といえば民意ということか。
   きのうの夕方、わが家の二階から富士山の写真をとった。逸徳さんと東西両方向から富士山を眺めていることになる。
   数年前、銀座のレストランに勤めていた女性のリストラ相談にのったことがある。私が交渉してかなりの退職金をもらって円満解決した。ひさしぶりに彼女に電話で選挙を頼んだところ、いま銀座でバーテンダーで元気に活躍しているとのこと。日本バーテンダー協会賞ももらったそうだ。
   私が古稀になった祝いだといって彼女がおととい訪ねてきた。リュックからとりだしたお土産はなんとお店で飲み残しの高級洋酒五、六本。まだ半分くらいスコッチやコニャックがはいっていて芳醇な薫りがする。お客相手にどんどん高級酒の封を切ることが優秀なホステスなのはいうまでもない。こんなもったいない飲み方をして店員のもちかえりOKなんだから金持ち相手の高級クラブらしい。写真手前の小さな瓶はメキシコのテキーラ。寝るとき、枕元でちょいと舐めてから寝たらいい夢をみた。
   おととい一八日に逸徳さんのあとを追って小生も古稀になった。いやあ目出度い弥栄とひとりで乾杯している。
   

2012年12月17日月曜日

民意・・・猫跨ぎ

  結局、民主党が体を成していなかったということか。最後まで綱領が無かったんだね。素人の何とは無しに集まった集団。なにか問題が起きると大勢が群れを成して簡単に脱党していった。その連中がまた何とは無しに集まって小政党を作り、わらわらと大河の中に消えていった。この三年は何をやっていたのか。大部分を演出したのは小沢だがこれで完全に政治生命は断たれた。未来の党か。あっけなく未来が来てしまったね。小沢などはどうでも良いが、日本の政治に何を残したのか。
  脱原発はどこへ行ったのか。今朝の東京新聞は「民意は何処へ」と憤懣やるかたない。これが民意なんだろうに。今回の選挙はそもそも消費税を問うはずだった。これも全く争点にならなかった。自公300超。民意は原発と消費税を認めたんだろう。違うか?
あっけらかんとしたこの国の空気は何だ。

2012年12月12日水曜日

お気づきかもしれないが・・・・逸徳

朝日の「プロメテゥスの罠」という連載で、遠野の酪農への放射能汚染の問題の連載がはじまったよ。 タクシーの中で聞いたことが生々しく語られている。 なかなか興味深いよ。

2012年12月10日月曜日

活断層・・・猫跨ぎ

  活断層がある(らしくて)そこの原子炉は廃炉だと新聞は大見出しだが、一番困っているのは当の地質学者じゃないかと思う。今の地質学が明確なことが言えるレベルかね。3mくらいの穴を掘ってためつすがめつ眺めたり、手で崩してみたり、デジカメを撮ったりしているのを見たが、失礼ながら笑ってしまった。いつ動いたのか、いや単なる地辷りだと小田原評定をやっている。俺たちに責任押しつけられてもなあという表情ありあり。政治家や行政はさあ専門家の意見を聞きましょうとゲタ預けているお気軽さ。どうなるんだこれ。

この件は・・・猫跨ぎ

  この問題はきちんと片付けておこう。この水流がくっついて分かれないのは表面張力効果だろうね。二本よりも併せて一本の方が表面積が小さくなる、エネルギー的に安定になる。或いは、一旦まとまった水流が重力で二本に分かれようとするよりも、水の凝集力(分子間力)が優るといいかえてもいいか。
表面張力の源はお説の通り分子間力。分子間力はイオン相互作用、水素結合、ファンデルワールス力なんかに分類される。この場合は水素結合が主だろう。

そうだなあ・・・・逸徳

確かに不思議なんだが、どうも世の中には二種類の人間がいるらしい。 ある事象をみて「おやなぜだろう」と驚くタイプと、「ふーん、で、だからなんなんだ?」というタイプである。詩人はおそらく前者なのだろうが、後者がなぜ生まれてきたのかということがよくわからない。おそらく相当のプラグマティストだろうという気はするのだが。で、やっぱり一番不思議なのは人間という存在なんだろうなあ。

おいらの授業では、鉛の大きめの重りをふたつ用意して、カッターで表面をけずり新しい面をだしておいて、そこでえいやっと互いにおしつけると、ふたつの重りが接着する。 これ金属結合だと説明しておき、さらに空き缶の下の横の方に1㎝ぐらいの間隔で穴をふたつあけ、水をいっぱいいれておいてカンを持ち上げると、当然のことに穴から放物線を描いて二本の水流が流れだす。これを水の出口で指先でえいやっとはさむようにして水流をくっつけてやると、2本の水流が空中で1本に合体してしまう。これは分子間力のせいだと説明してきた。 しかしこれどうも変だなあという気がしていた。ただ、現象に名前をつけているだけという気がして・・・・。 そこで、この二つを普遍化して「万物の粒子はみな引き合うのである。」とのたまい、状態変化の講義にはいった。 しかし、どっかでなんだか「ジャパネットタカダ」とおんなじだなあ、と思っていた。 うむ、教育というのは美しいウソをつくことだなあ。

2012年12月9日日曜日

身近な不思議・・・猫跨ぎ

  フィルムがどうしてものにくっつくかはよく考えると色んな問題に発展していくので面白い。金箔がものにくっつくのに、何故金貨はくっつかないのかということもそう。黒板のチョークの字はなぜ落ちないかもよく考えると簡単ではない。その力の源は、結局ファンデルワールス力としか言い様がない。そう言えば中川先生とそんな話をしたことがあった。むかし、「物理の散歩道」(ロゲルギスト)という本があった。身近な話題からはじまり結構高度な物理学へ読者を誘うというもの。ほんの僅かの手先の力で自転車のブレーキが効き止まることも考えてみれば不思議だ、という話とか。


2012年12月7日金曜日

函館通信193・・・クレラップ・・・仁兵衛

 “美味しさをそのまま包むクレラップ” 逸徳さん よくぞ思い出させてくれました。有難うと深く深く感謝致します。
 ラップがなぜ物にくっつくのかは猫跨ぎ先生の仰られる通りです。フィルム状の樹脂の上に可塑剤がブリードして単分子膜を形成しているものと考えていました。塩素系の樹脂の燃焼時のダイオキシン問題に続き可塑剤の環境ホルモン問題で長い時間を費やした日々を思い出すのです。表面の凹凸は光学的な輝度で測るとよく解ります。
 

2012年12月6日木曜日

やっぱり・・・猫跨ぎ

  さっき半畳を入れたときに、熊さんから一言あるべしとは思っていた。ところで「旭味」はまだ現役なの? なつかしいねえ。故河野君が雪印製品に思い入れ強く、私が雪印バター、マーガリン愛用と言ったら感謝されてびっくり。彼の父君は雪印に勤めていた。面白いものだ。かくいう小生も王子製紙とかサッポロビールにそこはかとない親しみを感じる。ビールは勿論サッポロだ。日本の会社主義の良き時代の名残のような気がするなあ。だんだん薄れて行くのだろうが。

商品名の雑談   九州の熊

呉羽(クレハ)だから「クレラップ」。A社なら「サランラップ」。味の素株式会社のグルソーがいつの間にか食品添加物の代名詞になっていてほとんど普通名詞のようにつかわれていたのでA社製品「旭味」はずいぶん苦労した。”A社が製った味の素”といわれて悔しい思いもした。わたしがかつて赴任していたインドネシアは自動二輪車が愛用されていて「ホンダ」「スズキ」は自動二輪車の代名詞になっていた。自己紹介で、わたしの名前は「すずき」です、というと”おお!ホンダ!”とひやかされたものだ。そのうち「野田」や「安倍」がだめリーダーの代名詞になったりして・・。

粘着・・猫跨ぎ

  粘着は濡れと言いかえてもいい。ガラスとゴム糊としようか。ガラスの表面に濡れ広がる。肝心のガラスと粘着剤の間で働くのは何か。化学結合、水素結合など様々あるが、この場合はファンデルワールス力だろうね。あと粘着剤の材料強度が重要。水はよく濡れるが粘着剤にならないのは強度が小さいから。

・・・そうだった・・・・・すまん・・・・逸徳

そうだった クレラップだ・・・・なんもいえん。 笑ってごまかす。 で、粘着力とは何だ。金属でも有機化合物でもセラミックでも働く力というのは、どう説明しようか。 

回答Ⅰ・・・猫跨ぎ

��あなたね、仁ちゃんに聞くのに「サランラップ」はないでしょう。「クレラップ」といわにゃ。)
閑話休題。これポリ塩化ビニリデンに可塑剤を配合したもの。単純に可塑剤による粘着性だと思うね。

突然ですが・・・・逸徳

ちと困った。誰かサランラップがなぜくっつくか、説明してくれないか。容器のほうはガラスやセラミックのようなものから、金属、プラスチックまで、ミクロには全然性質のちがったものに、どれでもくっつくのはなぜか。その接着力の原因は何か。 高校生に聞かれてこまっている。「先生、高分子学科だったでしょ」といわれた。ちくしょう、沽券にかかわる。 いい資料でもいい。情報がほしい。 確か仁ちゃんはサランラップやっていたんでないかなあ。 

2012年12月5日水曜日

このご時世・・・猫跨ぎ

  ステレオに通販で買った中古パソコンを接続して画面を見ながら選曲するようにしたらcomfortable になった。バッハや松任谷由実なぞ聞いているここ数日。
最近のアレの最たるものは笹子トンネルの崩落事故。人ごとでないね。今後幾らでもあり得るということだろう。巻き込まれて亡くなった人はこの世の無常というには余りに気の毒だ。コンマ数秒の差で車の片側を潰されながら助かった人もいる。禍福はあざなえる縄の如しか。
  感心したというと不謹慎だが、板橋のマンションの主婦殺害事件。典型的な通り魔事件で捜査難航を予想したがあっさり犯人は検挙された。ひとえに防犯カメラの威力だ。成増で東武に乗り池袋で降りたとか、事細かに解明されている。知らぬ間にカメラが細かに張り巡らされており解像度もいいのだろう。そういう時代なんだな。もはや監視社会が到来しているんだ。これを問題にする向きもあろうが、犯罪捜査はまったく違った世界に入った。あとはDNA鑑定の精緻化だろう。わずかな痕跡から個体識別が出来るとうことの意味は繰り返すまでもない。

2012年12月3日月曜日

選挙か・・・猫跨ぎ

  新党が雨後の何とかみたいに出現し何が何やら判らないね。原発も「反」、「脱」、「卒」とあり、日本語は便利なものだと思いきや、fade out するありで目くらましが極まる。ごく普通の選挙民の感覚で言うが(自分の感覚はそれ程間違っていないと自負しているが)あほくさくなるね。嘉田とかがばたばたと出て来て、小沢の傀儡だいや違うとかいっているのもどうでもいい。小沢が原発廃止論をいつから抱いたのかよく判らんし、相変わらず子供手当なんか聞くと、ただの大衆受けがみえみえだ。財源は行財政改革で幾らでも出てくると3年前に聞かされたことをまた言っている。誰も信用しないのではないか。それにしても皆、もっともらしくぺらぺらしゃべるなあ。
  こういう態度は良くないのだろうが白けるばかりだ。既成政党がさっぱり受け皿にならないのは、共産党も社民党も相当に反省しなければならないのだろう。人ごとみたいにいうと日本の統治機構を支える世界が全体に漂流を始めたのではないか。
ナショナリズムを軸にする立場は判りやすいがそれでいいのかと皆思っている。それに対する対抗軸が見えて来ない。中国を中心に帝国主義の匂いがぷんぷんし、日本が地域平和を率先して唱道すべきとしたこれまでの進歩勢力の考え方がそれじゃ立ち行かないだろうとこれも皆感じている。今度の選挙を「原発」のsingle issue にしたいむきもあるが、そんな単純な事ではないとは皆気付いている。温暖化の問題はどうしたのか。原発事故以来ぱたと声が消えてしまった。

2012年11月30日金曜日

イラン映画 『友達の家はどこ?』・・・ 褌子

   高倉健はあまりみてないが「単騎、千里を走る」とか期待はずれ。「幸福の黄色いハンケチ」は良かった。健さんの魅力で感動物語に仕上げようとすると中途半端なできになるのかも。
  イラン映画『友達の家はどこ?』は深い印象が残った。学校に明日の宿題を忘れた友達に小学一年くらいの坊やが届けに行く話。
  母親は一日中、家事に追われ休むひまも子供の相手をするゆとりもない。道ばたで日がなタバコ飲んで閑つぶししているおじさんたちに、道に迷った坊やが何度も『友達の家はどこ?』ときくのだが、無駄話に夢中の男たちは誰も相手してくれない。     あの国はイラン革命後もあまりかわってないのではないか…。(アフガンのタリバンも恐るべき女性蔑視の組織らしい)。
  と、いっても私がイスラム教徒をきらっているわけではない。映画の名前を思い出せないが、パリで雑貨店をいとなむ敬虔なイスラム教徒のトルコ人のおじさんが、万引きを何度もみのがしてやった孤児の少年と仲良しになって、一緒にトルコへポンコツ自動車で帰郷するはなし。やっとたどりついた故郷を目前にして嬉しさのあまりハンドルを切り損ね、ふたりとも自動車事故死してしまう。なにか、無性にイスラム教徒がすきになってしまう映画だった。
  思春期の頃みた映画というのは影響力大。いぜん、グランド・キャニオンにいったとき、浅草出身だという60才くらいのおばちゃんガイドが娘時代に映画『帰らざる河』をみて、英語猛勉強、家族の猛反対をおしきってアメリカに来てしまったとつぶやいていた。あのおばちゃんまだガイドやっているかなあ
 わたしもエリザベステーラーの『愛情の花咲く木』みてアメリカにあこがれ、『シベリア物語』をみてロシアの大地にあこがれたことがあった。世間知らずで単純、愛惜すべき思春期のあの日あのころ。

まだまだ映画談議・・・猫跨ぎ

  いや「太陽はひとりぼっち」ではないなあ。ネットで粗筋を見たが違う。思い出せない。しかし褌子氏の映画通にはかなわないね。いまもせっせと話題作には足を運んでいるようだし。
  このまえ高倉健の「あなたへ」を見た。随分入っていた。中高年の男性が一人で見に来ているのが多いのにびっくり。なに、自分がそうだが。ちょっとこの映画、筋を追えないところが数箇所ある。あとで原作を読んだが。それに健さんにすっかり凭りかかった映画作りで余り感心しなかった。時代背景がよく沁みてこないんだな。それが奥行を無くしている。亡妻の遺書を読んで何かを納得して、さあこれから生きて行くぞと歩くところでラスト。こころに沁みるものがあまりない。ストイックな老齢の主人公―張り切って行く先があるのかねと心配になる。

『海の牙』・・・ 褌子

    「太陽がいっぱい」(1960)でなく「太陽はひとりぼっち」(1962)ですね。いっぱい、とひとりぽっちでは反対だ。戦後フランス中産階級の倦怠とか頽廃を感じる映画だった。モニカのはまり役。
  モニカ・ヴェッティなんて突然、猫跨ぎさんがいいだすので、つい五〇年前に想いがとんで、↓のようなはしたないことを書いてモニカ全盛期の写真までのせてしまった。 恥ずかしい。逸徳さんにつづいて古稀を迎えんとして岩上の清水のような心境にやっと到達したばっかりなんだ。せっかくの明鏡止水をかきみださないでほしい。
・・・・
  敗戦後のフランス映画といえば『禁じられた遊び』だが、私が記憶から離れないのはルノワール監督『海の牙』
  ドイツ崩壊でナチス党員たちが南米に多数逃げた。(アイヒマンも生体実験のメンゲレも南米でイスラエル特殊部隊に捕まっている)
  『海の牙』は潜水艦でナチス高官らが逃げる物語。大西洋上で燃料切れになり、通りかかった貨物船と交渉して燃料をわけてもらう。満タンになって別れるやいなや、容赦なく貨物船を撃沈する。狭く息苦しいUボート内部の葛藤、ナチスの非人間性をあぶり出した傑作だった。
  いま思いついたイタリア映画の傑作は『ドベレ将軍』
  北イタリアのレジスタンスの希望の星だったドベレ将軍がアフリカからイタリアに上陸したとたんにドイツ軍に射殺される。ドイツ軍側が反ナチの逮捕者たちの口を割らせるためにチンピラみたいな男に刑務所内でドベレ将軍を演じさせるのだ。ところが平凡な男が次第にドベレ将軍になりきって堂々と処刑台にたつ… 「人生で迷ったら困難な方を選べ」という偽将軍のセリフが今も耳に残る。

 追伸=中川先生はフランス映画なら『大いなる幻影』(1937)だといっていた。スペイン内乱を描いていたが、あまり記憶に残ってはいない。

2012年11月29日木曜日

違ってた・・・猫跨ぎ

あれあれ違ってた。モニカ・ヴェッティでなく、マリー・ラフォレだったとか。ずっとそう思いこんでいた。すると、モニカ・ヴェッティは何で見たのかな。なに?アルツハイマー?佳人薄命と行きたいものだ。

そうそうモニカモニカモニカ・・褌子

    そうそうモニカです。すこし退廃的、気怠そうな顔だったが理知的な頭のよさそうな細身の女優。
  アランドロンと無人島にヨット乗り付けて砂浜でいちゃいちゃしてさ。モニカの野郎、横になって抱き合うと片手がじゃまね、なんていいやがってさ。ちくしょう。だから勇気化学に集中できなかったんだ。
モニカちゃん、もうどんなおばあちゃんになっているんだろうなあ。
 BBことブリジットバルドーはいまもパリのアフリカ系移民の子供の就学援助をしているそうだ。BBおばあちゃん偉い!
 謹厳な僕は一度もみたことないけど、逸徳さんあたりがたぶんあこがれていた「エマヌエル夫人」も最近亡くなったそうです。
 やっぱりさみしいね。瞑目合掌






追伸=インターネットでみたらモニカ・ヴェッティが80才になってアルツハイマーだと報じてある。生老病死は世の常だが…

いろいろ思い出す・・・猫跨ぎ

そうそう「シベールの日曜日」だ。この映画と「赤い風船」がどうもごっちゃになる。どんどん出てくるなあ。「太陽がいっぱい」か。実にいい名前をつけるもんだ。ちみちみ、ブリジット・バルドーじゃないよ。モニカ・ヴェッティというグラマー女優。アンニュイを漂わせるぴったりのはまり役だった。野心たっぷりの青年が一世一代の大勝負で親友を殺し、彼の財産と恋人を手に入れる・・・が。このテーマ音楽もよかった。実にフランス的な、シャープな、格好のいい映画だった。

シベールの日曜日です!!

    五本さんと乾君がふたりっきりでみにいったのは「シベールの日曜日」です。
   じつにけしからん。ぼくは五本さんと映画みにいった記憶がない。あんな暗い映画館に二人っきりで入る勇気ないもん。生まれつき内気だもんで。
   仁ちゃんの自転車を無断借用して、大通り公園で日曜日の真っ昼間に逢い引き、自転車の後ろにのせてすーいす~いと女子寮まで送っていきました。太陽がいっぱいのきわめて健康なふたりでしたね。
   アランドロン・ブリジットバルドーの「太陽がいっぱい」もありましたなあ。BBいまどんなおばあさんになったかなあ。
   しかし最高傑作といえば、やっぱり敗戦直後のウイーンを舞台にした『第三の男』だ。これも札幌のどこかの映画館でみた。『カサブランカ』のイングリッドバーグマンよかったねえ。スペイン内乱を舞台にした『誰がために鐘が鳴る』のバーグマンも捨てがたいが。バーグマンは乳がんで先年亡くなったそうだ。瞑目合掌
   

おどろいたなあ・・・逸徳

そりゃ「シベールの日曜日」じゃないかねえ。 しかし、みなさん古い話をよくおぼえているなあ。 老化は直近の記憶からだめになり、古い記憶が鮮明化してくるというが、それだな。 みんな、立派なじいさんになってきたということだ。 五元さんの結婚式に出席した記憶を思い出した。あの時、ほかに誰がいたのか記憶にないだが、変なはなし披露宴の料理や、余興のバイオリンをやった少女の記憶がある。

戦争と映画・・・猫跨ぎ

  「ひまわり」も忘れられないなあ。悄然と佇むソフィア・ローレンの背後に広がる果てしもないひまわり畑。ヨーロッパ中が戦場だったから、第二次大戦をテーマにした多くの名画があった。「禁じられた遊び」はフランス映画か。ドイツ映画に「橋」があった。ソ連映画も数多い。「僕の村は戦場だった」は印象深い。
  ベトナム戦争自体をテーマにしたコッポラの「地獄の黙示録」も忘れられないが、乾君が五本さんと二人で見に行ったというけしからん話があるが、その映画(タイトルは忘れた)もいい。或る男と少女の秘められた交流。彼はアメリカの来る前に敗退したフランス軍にいた兵士。戦闘機で降下して銃撃した先に恐怖に充ちたベトナムの母子がいた。爾来精神に異常をきたし、廃人のように日々を送ることになった男。あのタイトル何だったかな。

2012年11月28日水曜日

いいねえイタリア映画は・・・褌子

    白黒のイタリア映画といえば「無防備都市」もよかった。バチカンはナチスのユダヤ人虐殺をわざと見て見ぬふりをしていたが、ローマを占領したドイツ軍とたたかって従容と銃殺されるローマの神父さんが印象に残る。レジスタンスの一員になってナチスとたたかったカトリック左派が、戦後になってカトリックの祖国の名誉を救った。
    カラー映画になってからは、やっぱり『ひまわり』  ソフィアローレンとマストロヤンニ
    庶民を戦後も引き裂く戦争の悲劇…出征した長男が戦死したと思って、長男の嫁を次男と結婚させて子供もできてまもなく、長男が命からがら帰ってきたという話は日本でもたくさんあったらしいが、「ひまわり」は最愛の妻とひきさかれて出征したイタリア兵士が凍死寸前にロシア娘に救われて夫婦にまでなってしまう。がソフィヤローレンがあきらめきれなくて、ロシアにまで夫を探しにゆくのだ。えんえんとつづくひまわり畑・・・
    『ニューシネマパラダイス』
    シチリア島の映画技師と少年の物語。鉄道員の坊やみたいに可愛い少年だった。
    イタリアは日本と同じ敗戦国だから戦後まもなくは庶民もおなじく限りなく貧しい。そのころの映画が日本人の琴線にふれるのはそういうところもあるかもしれない。ヨーロッパからのアメリカへの移民のなかでもイタリア系がアメリカ社会の下層を形成しているらしい。アメリカ映画だが『ゴッドファーザー』はシチリア出身のマフィア親分一家の物語。
  以上はみんなイタリア庶民を描いているのだが『山猫』はがらりとかわって、滅び行くイタリア貴族を大河小説風に描いている。監督のビスコンティも貴族の末裔。話の筋はなにも覚えていないが独特の茶系統の天然色だけが滅び行く貴族の頽廃にマッチして脳裏にのこっている。

2012年11月27日火曜日

イタリア映画・・・猫跨ぎ

「鉄道員」の主演、監督はピエトロ・ジェルミ。よく流れるテーマ音楽の音源はラストシーンのサウンドトラックからのもの。朝の登校時に同級生が男の子を呼びかける声が入っている。
「自転車泥棒」は名匠ビットリオ・デシーカ監督か。筋書きは何ともみじめな親子の話。「鉄道員」もそうだが、敗戦後のイタリアの庶民の貧しい生活、哀歓がしみじみと描かれる。日本人の琴線に触れるね。それにしても娯楽主体になった今とは大違いの、くそまじめな映画がくそまじめに作られていたんだなあ。
「道」か。アンソニー・クインと女優はジュリエッタ・マシーナ。印象深かった。
いずれも背景には戦後の匂いがただよう―日本で言えば昭和の映画だった。

「鉄道員」・・・・褌子

 鉄道員・・・いい映画だったね。
   もう五〇年も前か二十歳のころに札幌でみた。
   頑固親父がストやぶりをしてしまい、坊やが友達からいじめられるシーンありましたよね。優しいお姉さんに恋人ができて、おやじさんがおれは許さんぞと怒る。お母さんはいつも子供をかばっておろおろ泣いている。
   庶民の家庭というものは、どこも似たりよったりだなあと、わびしく美しい音楽とともに可愛い坊やの語りがかすかに記憶に残っている。
   敗戦直後の貧しいイタリアを描いた映画といえば北大桑園寮のテレビでみた「自転車泥棒」。全財産が自転車だけの貧乏な父子が自転車を盗まれてしまい、逆に他人の自転車を盗んで捕まるはなしでおやじさんと息子が泣き出す場面でこっちも涙ぐんだ。薄野の映画館でみたフェデリコ・フェリーニ監督「道」も記憶に残る。精神薄弱の女の子と粗野でわびしい旅芸人のはなし。つきはなしてもつきはなしてもついてくる女の子…

鉄道員・・・・猫跨ぎ

  きのう何げなくBSを入れたら、イタリア映画「鉄道員」をやっており、途中から最後まで懐かしく見た。何ということもないイタリアの庶民の家庭を描く。頑固一徹の父親。末っ子の男の子が何とも可愛い。そして随所に流れる哀調をおびたテーマソングが実にいい。この映画の最大の主役かもね。壊れかけた家庭が最後は纏まってハッピーエンドだが、それを見届けて父親が眠るように息を引き取る。小津安二郎をふと連想。この頃、洋の東西で古い家庭の形が崩壊していくのが共通のテーマだったのだろう。最近涙もろくなったが、この映画も随所で涙を禁じ得なかった。

2012年11月24日土曜日

『俳句いきなり入門』・・・褌子

  私は選挙で忙しくなってきたが、あいまをみて仁ちゃんが紹介している『俳句いきなり入門』を読んだ。面白かったので詳しい感想はゆっくり書きたい。とにかく、日本語というものの面白さ深さ。隠喩・比喩・換喩なども、違いがなんとなくわかった。一発芸の俳句と詩歌の違いを力説していて納得する。「だめな句は全部似ているが、いい句は一句一句違っている」などは「幸福な家庭はどこも似ているが、不幸な家庭はどの家もみな違っている」というアンナカレーニナを想起したりして楽しい。
  近所の若者に貴志祐介『黒い家』をすすめられた。ホラー小説というものをはじめて読んだが文章がうまくて違和感がない。中身はそんなに怖くもなかったが、こういう類の人間がいる現代社会はやっぱり怖い。最近の尼崎の連続殺人を想起してしまった。清張『霧の旗』のほうが理不尽な過剰すぎる報復に怖さを感じたが。わたしもいぜん、不登校の子供をかかえている母親の悩みをきいてやったところ、突然責任をとれ貴方を呪って死んでやると三年くらいつきまとわれたことがあった。
  筆力といえば津島祐子『火の山――山猿記』。太宰の娘が描く、甲州の母親の一家の五代にわたる長い長い物語。一家のいろんな人間が次々としゃべり出すのだが、時間と空間の配置がしっかりしていてちっとも混乱しない。大勢の人びとの生老病死のむこうに火の山、富士山がいつもそびえている。父太宰の情死事件も淡々と語っている。青森の太宰の実家のはなしもいろいろ出て来て、先年、逸徳さんと五能線旅行で訪問した斜陽館を思い出した。
  一家の物語といえば西武の提家をえがいた辻井喬『父の肖像』がいちおし。小説好きの女性にすすめたら絶賛していたが、いまは『火の山――山猿記』にはまっていて、曰く親戚身内に作家がいたら私は嫌だねえ…と電話してきた。

2012年11月20日火曜日

総選挙・・・猫跨ぎ

  総選挙だが何かぐじゃぐじゃになってきたな。統治機構の溶解状態だ。さっき鳩山元首相が出馬を取りやめたという。消費税反対ならさっさと離党すればよかったのに、ぐずぐずしてる間に念書を書かされるハメになり、選挙区の情勢も怪しくなって投げ出したのだろう。まったくぶざまな最後だった。こんな格好の悪い政治家の最後も珍しい。
安倍は誰から知恵をつけられたのか、建設国債を日銀に買わせると言い出した。国債に印が付いているわけもない。財政の無制限の緩和だ。成蹊大学出身か。こんなレベルだ。(おっと差別発言かな)
石原―橋下新党もバタバタ節操がない。石原の年来の核武装論が表に出て来た。これが最後の機会だ、このままだと日本は亡びると血相変えているのも嗤うしかない。野田がまともに見えてきたぞ。

吟行句・・・猫跨ぎ

  吟行句が当事者以外の人に判って貰えるかはいつも問題になるね。私も逆の立場はしょっちゅうあるけれど、矢張り隔靴掻痒感は否めない。俳句の限界だろうね。
特別の環境であるなら尚のこと。今度の被災地での句はまさにその典型だった。これも俳句の限界かな。そもそも俳句表現の対象になるのか。震災句はそれこそごまんと発表されたけれど、後になっても残るのは如何ほどか。

函館通信192・・・猫跨ぎ氏句評・・・仁兵衛

 相変わらず深い鑑賞性のある句にまた脱帽です。東北旅行の作はそこにいかぬ人にちょっと解り難い所もあったけど(行けなかったやっかみも入ったが)11月の句は心棒の入った句があり楽しませて呉れているね。

・鉄路にも程よき起伏吊し柿 ・・・中七の程よき起伏が鉄路と吊るし柿との間を見えぬ糸で結んでいるような感じに打たれた。
・耳掻を栞にしたる獺祭忌 ・・・ユーモアを感じて入る内に獺祭忌で締める上手さが何とも云えぬ。
・梅擬ポー詩集あつたので読む ・・・取合せの妙の極意か。梅もどきも地味な花だけどここでは輝いているようだ。特選。
・謎の螺子一本残る夜寒かな ・・・謎のとしたところが良し悪しの解釈に迷うところだが・・・。
 
・よもつひらさか蜩の鳴く時間です ・・・よもつひらさかが難しくて。
・雑炊に塩を振る夜や鳥渡る ・・・塩の摂取は控えめに。
・熊吊られ猟師(さつを)と同じ谷を見る ・・・落選した候補者と応援者と考えたら面白くなった。
・狭庭にも大いなる闇菊月夜 ・・・狭庭のないマンションは闇ばかり。
・評判の金木犀は路地の奥 ・・・北海道に居ると金木犀の香りが殆ど無い。
・木の実落ち座敷すみずみまで深夜 ・・・選挙で落ちた人は本当に寂しさを感じるのかな。

子規・・・猫跨ぎ

  正岡子規の生没年は1867~1902。1867年と言えば明治維新前年だから、彼の年齢はその時が明治何年かで判る。没年は明治35年だから、彼は弱冠35歳で亡くなった。
近代俳句の確立、写生文の提唱、短歌革新運動主導とアララギ派の設立。今の35歳の頼りなさを思うと、こんな事跡は全く奇跡に近い。しかも闘病生活を送りながら。
勿論時代がそれぞれの分野の革新を要求していた。この天才がたまたま縦横にその任を果たしたというべきだろう。いま、俳句も短歌も彼の敷いた路線の上を走っているのはいうまでもない。そういう時代だったんだね。
日暮里駅から歩いてすぐのところ、今は連れ込み旅館の並ぶ一角に子規庵がある。狭い庭があって、色んな草花がびっしり植えられている。糸瓜棚もあり、鶏頭もあった。

獺祭忌だっさいき・・・・褌子

    三陸旅行のドライバー菊池さんから手紙がきました。不況で苦労しているだけに、ほろほろ会の案内が本当に楽しくうれしかったそうです。
―――――
・よもつひらさか蜩の鳴く時間です
    よもつ‐ひらさか【黄泉平坂】=現世と黄泉との境にあるという坂なのだそうだ。三途の川みたいなものか。ヒグラシは夕暮れにわびしく鳴くが、蜩の鳴く時間ですといいきったところが潔し。
・木の実落ち座敷すみずみまで深夜
    南部曲屋にも凩がふいていることだろう
・梅擬ポー詩集あつたので読む
    紅葉したウメモドキと幻想的なポー詩集のとりあわせが面白い
・謎の螺子一本残る夜寒かな
    分解して組み立てたら一本のネジが残ってしまった。ハテ
・雑炊に塩を振る夜や鳥渡る
    独り暮らしの景かも
・熊吊られ猟師(さつを)と同じ谷を見る
    特選。猟師を「さつを」というのか初めて知った。語感に縄文のかおりがする。猟師の物語というと「喜作新道」
・狭庭にも大いなる闇菊月夜
    陰翳礼讃あるいは雨月物語
・評判の金木犀は路地の奥
    いい薫りがしてきた。この先だ。
・鉄路にも程よき起伏吊し柿
    たしかにレールには起伏がある。つるし柿との配合秀逸
    やっと回復なった三陸鉄道を思い出した。
・耳掻を栞にしたる獺祭忌
    子規忌は9月19日だそうだ。明治35年に亡くなっているから生きていれば110才。われわれも70年生きたのだからそんなに古いひとではない。先人がみじかに感ずるのは加齢の効用。獺=カワウソは何となく愛嬌があって耳かきの栞と相性がいい。糸瓜忌だと子規の病苦を連想してしまう。芥川の河童忌とか、太宰の桜桃忌とか近くは司馬遼太郎の菜の花忌とか誰が決めて人口に膾炙し季語として定着するんだろうね。正岡子規は最もすぐれた日本人のひとりだと思う。



2012年11月18日日曜日

11月10句・・・猫跨ぎ

いつの間にか石油ストーブをつけている。今年も過ぎ去ろうとしている。いろいろあったが、諸兄と行ったみちのくの旅が何と言っても印象深い。
元気で記憶を積み重ねたいものだ。11月10句。

・よもつひらさか蜩の鳴く時間です
・木の実落ち座敷すみずみまで深夜
・梅擬ポー詩集あつたので読む
・謎の螺子一本残る夜寒かな
・雑炊に塩を振る夜や鳥渡る
・熊吊られ猟師(さつを)と同じ谷を見る
・狭庭にも大いなる闇菊月夜
・評判の金木犀は路地の奥
・鉄路にも程よき起伏吊し柿
・耳掻を栞にしたる獺祭忌

2012年11月16日金曜日

昭和のあの頃・・・猫跨ぎ

衆議院が解散とか。涙目になって親父に正直者は偉いと頭を撫でられたとか。いい人物だとは判るが、一国のリーダーとしてはなあ。一年後、誰も覚えていないエピソードだろう。
500人の御身大事の右往左往を、しばらくは見させて貰おうか。

・訃報メールアムステルダムの秋運河
河野君の追悼句。アムステルダムの運河沿いに「アンネの家」があったなあ。欧州駐在の青年社員も老い、逝った。なんと人の世は短くあっけないものか。
・初雪や真空管の語りだす
真空管か。子供の頃、真空管をしげしげ眺めたことがある。なんと複雑で精妙で想像力を掻き立てたことか。3,4本の端子をロケットの噴射口に見立てたり。それに対しトランジスターの何と単純で味も素っ気もなかったことか。ちょっと拝借して〈木枯や真空管の光り出す〉
・落葉踏むうしろに夢声の語る声   特選
徳川夢声がいいね。「宮本武蔵」を思い出す。そう、戦前の匂いをたっぷり残した昭和の声だった。これも拝借した。〈河豚鍋の煮えたと夢声呟けり〉
��むせいを漢字変換すると、夢精が出てくる。褌子氏が気付かぬ訳はないのだが。)
・月冴ゆる鉄腕アトム充電中
昭和懐旧シリーズですな。妹はウランちゃんか。お茶の水博士、ヒゲ親父。鉄腕アトムは面白かった。手塚治虫は100年に一人の天才だ。あの漫画から実に多くのことを学んだ。独特の手塚ワールドは馥郁として、懐かしい。  
・鳥渡る歌声喫茶の手風琴
昭和シリーズの掉尾。歌声喫茶か。ユートピア的な何かをまだ信じていたんだな、あの頃。

函館に初雪せまる・・・褌子

函館通信ももう191号。はやいものだね
「俳句いきなり入門」は書名からして面白そうだ。
・訃報メールアムステルダムの秋運河
 秋運河。河野君が走り回っていたアムステルダムの運河も秋色が濃い。愁いという字は秋の心だが、何か胸苦しい青春よりも夕闇迫る黄昏のほうが心安らぐ。デンデラノへの棄老はいやだが黄落も静かに受け入れたい…なんていっちゃって。
・木枯しやよく見えているスカイツリー
  今日の風は冷たかった。千葉は秋と冬のせめぎ合いも今日あたりがピークか。
  木枯らし、凩・・日本語はいいねえ。スカイツリーの余波で東京タワーが繁盛しているとか。あっしには関係ござんせんが
・湯豆腐の八つ当たりして崩れけり
  わかります。犬猫にも八つ当たりしたくなる昨今の世相。女房は老人性短気症というけれど
・初雪や真空管の語りだす
  トランジスターラジオがでたのは中学生ころか。あの真空管の質感が懐かしい
・色変へぬ松に鞍掛け葦毛馬
  何となく南部の曲屋を思い出した。幕末だね。芝居じみた光景ではある
��描線で北窓塞ぐ古径かな
  描線というと近代だが古径というと中世。何となく一茶めいた寒々しい景
・落葉踏むうしろに夢声の語る声
  そうか作者は真空管ラジオをもって徳川無声の「話の泉」だったか「二重の扉」だったか聴きながら散歩している?…
・脇役の主役になりて菊の前
  先日、脱原発集会にいったとき日比谷公園で菊花展をやっていた。丹精込めた見事な菊の大輪よりもテント脇に無造作に寄せ植えされていた野菊の深い黄色、深い紫に感動した。
・月冴ゆる鉄腕アトム充電中
  鉄腕アトムは100万馬力の超小型原発でしたか。あのころ原子力の平和利用という幻想があった。煌々たる寒月のもとでアトムもウランちゃんのことをおもいつつ充電中?
・鳥渡る歌声喫茶の手風琴
  特選。アコーディオンも手風琴というといい味がでてくる。鳥渡るという季節になったんだ


2012年11月15日木曜日

函館通信191・・・初雪・・・仁兵衛

 本当に今年の北海道は秋が短かった。といっても初雪が遅れているのだからいったい気候の変化はどうなっているのやら。
 俳句界でも季語の見直しをやろうという動きがあるとか。この気候変動で実際の皮膚感覚が季語と合わなくなっているのだろうか。
 そんな中「俳句いきなり入門」(千野帽子著・NHK出版新書)を読んだ。面白かったので褌子さんに是非読んでもらって感想を聞かせて欲しい。要は俳句は作るよりも評を加える事の方が大切なのだと言う著者の主張をどう感じるかだと思う。私は読んでいったら俳句が作りづらくなってしまう錯覚に嵌ってしまいそうになっている。

   訃報メールアムステルダムの秋運河
   木枯しやよく見えているスカイツリー
   湯豆腐の八つ当たりして崩れけり
   初雪や真空管の語りだす
   色変へぬ松に鞍掛け葦毛馬
   描線で北窓塞ぐ古径かな
   落葉踏むうしろに夢声の語る声
   脇役の主役になりて菊の前
   月冴ゆる鉄腕アトム充電中
   鳥渡る歌声喫茶の手風琴


2012年11月10日土曜日

リーマン予想・・・褌子

   NHK BSの「ポアンカレ予想」も面白かったが、
『素数の魔力に囚われた人々~リーマン予想・天才たちの150年の闘い』も非常に面白かった。
   「リーマン予想」数学史上最難関と恐れられ、今年問題発表からちょうど150年を迎えた。数学の素数が、2,3,5,7,11,13,17,19,23・・・と一見無秩序でバラバラな数列にしか見えない素数が、どのような規則で現れるかは、素数の並びの背後に「何か特別な意味や宇宙の調和が有るはずだ」と数学者たちは考えて来たというのである。素数の規則が明らかにされれば、宇宙を司る全ての物理法則が自ずと明らかになるかもしれないとプロジェクトXなみのNHK式感動の押し売り方法で大げさにいうのである。たしかに素数が並ぶ規則を数式化すると原子核の振動を表す数式と同じになるというのだから感動症の小生はたちまち感動の涙を流してしまった。
  さらにこの「リーマン予想」が解かれれば私たちの社会がとんでもない影響を受ける危険があることはあまり知られていないともいって脅かすのである。クレジットカード番号や口座番号をRSA暗号化する通信の安全性は、「素数の規則が完全には明らかにならない事」を前提に構築されてきたからだという。
  へー、そんなこと算術が苦手だったので知らなかった。
  「リーマン予想」と「素数の全性質」が解決すればRSA暗号が効率的に破られるのだと、NHKは現代文明の基礎が崩壊するみたいに脅かすのだが、早速、ある数学者がおいおいNHKがそんなこと放送していいのかよとインターネット上で以下のような反論をしている。
   RSA暗号の小ネタは「素数の音楽」から取ったネタなのだろうが、リーマン予想とはあまり関係がないネタなので、これは詐欺的ともいえる印象操作である。しかも、RSA暗号が破られる条件として「リーマン予想の解決」と「素数の全性質の解明」を同時に比べているところが小ずるい。リーマン予想が解決されたとしてもRSA暗号にはほとんど影響はないだろう。ただ、リーマンζをL関数に置き換えた予想である、拡張リーマン予想を仮定すれば、ある程度素数の判定が効率的になるアルゴリズムが存在する可能性が指摘されているのだが、RSA暗号が一気に破られるということにはなりそうにない。それに対して「素数の全性質」が解決されれば、そりゃRSA暗号なんてものがダメになるのは当然だろう。RSA暗号の安全性は巨大素数の合成数を因数分解することが困難であるということに基礎を置いているのだから。それにしても「素数の全性質」なんていったいなんのことだかわけがわからない。
   ・・・・??読んでいるボクもいったいなんのことだかよくわかりません   (*^_^*)
【写真は11月11日の原発ゼロ100万人集会で.
恥ずかしいので小さくしました】
 

2012年11月7日水曜日

人智は貧困だ・・・猫跨ぎ

いやね、E=mc(2)を持ち出すまでもなく、物質とエネルギーは等価なのだから、星間物質だろうが空間エネルギーだろうが同じ事だ。ただエネルギーという方が、想像力が羽ばたいて、想念が自由に飛翔できるのではないかという話。物質は重力を内在しているからね。死んでから捕らわれることもあるまい。しかしダークマターってあったなあ。かように人智はまだまだ貧困だ。

ふむふむふむふ~ん・・・褌子

    法華経までとびだして、またまた話が難しくなってきました・・・

ふむ・・・・・・・逸徳

賢治の世界であることはよくわかる。 しかし、凡人が現世に執着し、存在に拘泥するのはしょうがない。そこをつきぬけたら、悟りをひらいたえらいひとになるのだろうが、簡単にはできない。これは、死後の世界がわからないからであって、それによる必然的な心理的現象なのだろう。わからないことはこわい。客観的には「宇宙に雲散霧消」するのだろうが、それもやっぱりこわい。そこで人は、そのこわさを克服しようとして、いろんな装置、あるいは「ものがたり」を考えたという気がする。宗教や、あの世のイメージなどそういう営みから生まれた傑作品だ。 つまりそういう「ものがたり」にすがって、死という物理現象を乗り越えようとしているのではないか。 死後のイメージは、ひとによってさまざまなものがたりがある。その中で「ひとは死んだら星になる」というイメージは文学的で、みたこともない「あの世」とか「天国」なんかより、おいらたち凡人にはすがりつきやすいという気がしたわけ。 まあお遊びかもしれないがね。 ちなみに100億年とか50億年というのは我々の認識能力をこえた長さなのか、ちっとも長いという感じがしないのである。

空間エネルギー・・・猫跨ぎ

我々が星間物質に還元されて、次の星の材料になることは、全然面白くない。それは物質を介して存在に拘泥しているだけに過ぎない。それは現世への執着心だ。まずは、空間エネルギーになって宇宙に雲散霧消する。永劫の後、また物資に形を変えることはあろうが、それはその時だ。これ、法華経のイメージ。宮澤賢治の世界。賢治は宇宙と或る官能を抱いていたな、間違いなく・・・

2012年11月6日火曜日

大河の一滴・・・猫跨ぎ

  1億5千万年周期説か。そのとき数百万年の寒冷期を経験するという仮説。どうなんだろうね、周期というのは同じ事の繰り返し、つまりほぼ元に戻るということ意味しよう。しかし肝心の宇宙構造自身が進化するわけで、進化しつつの周期性。その生々流転する超大河のなかで、太陽系の中の一惑星の寒冷化など、誤差のなかの誤差の100兆乗ではあるまいか。

したがってだ。・・・・逸徳

太陽の超新星爆発で、地球も再び星間ガスになると宇宙に飛び散って、またどこかで新しい星が生まれたら、その一部になる。だから人は「死んだら星になる」のだ。 この話ものすごく面白くて、最近いろんなところでふりまいている。 だれか書かんかなあ。

銀河構造と気候変動・・・・褌子

  もう7年前の話なんだね。猫跨ぎさんによって、佐渡のひとなら誰でも知っている日野資朝卿が徒然草にも登場するきわめて高位のお公家さんであることを知ったのは。
 はなしはとぶが、BSコズミックフロントの銀河系の構造は面白かった。
ちかくのマゼラン星雲とかアンドロメダ星雲の構造よりもわれわれの住んでいる銀河系のほうが、内部の地球から観測するのでかえって、わからないことが多いらしい。が、だんだん構造がわかってきて、地球の超長期的な気候変動が銀河系の構造と深い関係があるというのである。
  カナダの地質学者が、一億五千万年前の化石を発見して当時がきわめて寒冷だったことをつきとめた。さらに三億年前の化石も地球が寒冷だったことを示しているというのである。大体、地球は一億五千万年ごとに周期的に数百万年間の寒冷期を迎えていて生物の絶滅や進化に影響してきたというのである。
  いっぽう、天文学者が銀河系は単純な渦巻きではなく、巴構造になっていて巴のところにはたくさんの星が渋滞状態で溜まっていることを近年、発見。そして我々の太陽系もこの巴構造に一億五千万年ごとに突入していてこの星々の渋滞をぬけるのに数百万年かかっているというのである。
  この星の渋滞にはいると超新星爆発などに遭遇する機会が断然増えて、地球にたくさんの宇宙線がふりそそぐ。このシャワーのように地球に降りそそぐ宇宙線によって水蒸気が発生し地球全体を巨大な雲が数百万年もとりまくことになり、太陽光をさえぎってきたという仮説で、カナダの地質学者がとなえる超長期的な地球寒冷化の周期とぴたり一致するというのである。
 巨大な銀河の構造と太陽系の運行が、地球の周期的気候変動を引き起こしているとは。ずっと地球に住んでいるがちっとも知らなんだ。
  このつぎ太陽系が渋滞に巻き込まれるのはいつのことかはっきりしないらしいが、誕生して数百万年の人類がそのころまで生き延びている可能性があるのかどうか。いずれ太陽自身が超新星爆発を起こすときには地球上の生命は絶滅することになることだけは確か。
 

2012年11月5日月曜日

日野資朝・・・猫跨ぎ

日野資朝。佐渡旅行で話題になった。あの後、当欄に投稿していたので再掲してみる。印象深い人物だった。2005年のこと。やれやれ。

日野資朝(1290~1332)という鎌倉末期の公家が佐渡に流され、最後に刑死した事跡が妙宣寺の掲示に記されておりましたな。後醍醐天皇をかつぎ倒幕運動の謀議をこらしたという罪状。才学に秀でたなかなかの人物だったらしい。ところで徒然草に彼の変なエピソードが記されている。
第152段:ある内大臣が、西大寺のよぼよぼの長老を見て、「何とも尊い様子だなあ」と感に入っている。資朝は「あれはただ歳をとっているだけだ」といい放ち、後日やせ衰えた老犬をつれてきて「なんと尊くみえることよ」と、かの内大臣殿のもとへ届けさせたという。
第153段:京極為兼が逮捕されて庁舎へ連行されるのを見て、資朝は「羨ましい。この世の思い出として、あのようになりたいものだ」といった。為兼は歌人で、これは公家同士の係争に負けて土佐に流される時の事。後年の本人の佐渡配流を予期していたとでもいうのか、変な話だ。
第154段:資朝が東寺の門で雨宿りをしていた。そこに集まっていた大勢の不具者たちが、手も足もねじ曲がり反り返って異常な姿であるのを見て、「類のない変わり者だ。愛賞するだけのことはある」とじっと見守っていたが、たちまち興が失せ、不快になった。邸に帰って、集めていた植木を前に、普通と違って曲がりくねっているのを賞玩していたのは、あの不具者を面白がるのと同じだったと興ざめになり、みな捨ててしまったという。

吉田兼好は資朝と同時代の人であり、資朝は端倪すべからざる人との評判だったのではないか。またこの挿話から資朝のきまりに捕らわれない近代人の目線が感じられると思うが如何か。
資朝に関してもう一つ。今回の本間能舞台の「俊寛」はなかなか感銘深かったが、佐渡の真野町を舞台にした彼にまつわる能の曲目があるという。「壇風」(世阿弥作)というのがそれ。佐渡に配流の資朝を誅せよとの鎌倉の下知。梅若(資朝の子)は今一度資朝に対面したいと佐渡に渡るが、父の前に名乗り出るより早く資朝は誅せられてしまう。その夜、本間三郎の館に逗留の梅若は本間を討ち、船着場へ逃げるが、追手が迫る。そこへ熊野権現が海上に勧請され、舟はたちまち若狭の浦へ。無事、都へ向かうという話。太平記の話を翻案したもの。もっとも、この演目を本間家の能舞台で演ずるのは差し障りがあるかな。
日野資朝は当時の人々にとって忘れがたい不思議な印象を与えた人物だったのだろう。話が妙に現実味を帯びて来るのも佐渡の空気を吸ったお陰というしかない。

佐渡は中世文化が残っているところらしい・・・・褌子

   佐渡は越佐海峡のせいで、生き物も朱鷺とか何とか佐渡ネズミとか残ったらしい。かくもうす小生も粛慎の末裔か、はたまた順徳院の御落胤のなれの果てか…
  流刑地だったので貴種流離譚も多いところ。怪しげな安寿塚とか厨子王塚とかもある。高校の古文の日野先生は目元涼しい独身教師で、日野資朝卿の末裔だといわれ女学生のあこがれの的だった。十年くらい前に日野先生の自宅そばの大膳神社の能舞台を掃除している美しい白髪の奥さんにであって、確かめたところ「いえ、手前どもは資朝卿の血のつながった子孫ではございません。都からこんな僻島までお下りになった日野資朝卿のお世話をしましたところ、日野姓を名のれと卿に賜った家系でございます」とのことであった。七百年前のはなしを何のてらいもなく話す奥様の気品に圧倒されました。はい。
   日野資朝は醍醐天皇に抜擢され、北条氏討滅の企てに加わったが、発覚、佐渡に配流、殺された。謡曲の阿新丸(くまわかまる)はその子で、毎年、この大膳神社の能舞台で演ぜられる。
   ほろほろ会の佐渡旅行でもみた日野資朝卿の墓は近くの妙宣寺にあるが墓の掃除は日野先生の一家だけに許されているらしい。(むかし、こんなことを書いた記憶がある。年取ると同じ話を何度も・・・)
   佐渡は近世の佐渡金山の圧倒的な影響もあって、遠野のような縄文弥生の匂いが消えているように思う。佐渡は中世文化が色濃く残っているところらしい。
   佐渡に流刑された世阿弥ではなく実は初代金山奉行の大久保長安が奨励したらしいが、全国の能舞台の半分の三十いくつも能舞台が佐渡の山村集落にあって今も演じられている。
  柳田国男も佐渡にきているが佐々木喜善のような人に会えなかったのだろう。ダンノハナ、デンデラノのような薄気味悪いところもあったんだろうな。無数の水子の地蔵がある海岸端の真っ暗なおっかない洞窟に入ったことがあるが…
  子どものころ昔話をいくらでもしてくれるおばあさんが近所にいたし、終戦まもなくのころか琵琶法師がわが家に泊まったこともかすかに記憶している。佐渡八十八カ所をまわる白装束の遍路さんから炒り菓子をもらうのも楽しみだった。
   
  注:粛慎(みしはせ)=中国の古書にみえる中国東北地方の民族。隋・唐の勿吉・靺鞨はその後身というが確かでない。日本書紀には、欽明天皇の時に佐渡に来り、斉明天皇の時に阿倍比羅夫が征したと記す。

2012年11月4日日曜日

ダンノハナ・・・猫跨ぎ

ちょっと修正。ダンノハラではなくダンノハナだった。今は墓地で、遠野物語の話者の佐々木喜善の墓もあるとか。ここを「死の空間」とすれば、集落は「生の空間」。そしてデンデラノは、その中間という位置づけになるという。なにか深いな。掘り起こせば、まだ何かがありそうだ。そうそう、この近くに現役の水車小屋があった。
  そういえば、何処の町にも、こういう不吉な場所、何となく近寄るのを憚られる場所はあった。北海道は歴史が浅いが、それでも必ずあった。ダンノハナ、デンデラノと繰り返し言うと何となく一種の薄気味悪さに突き当たる。我々の文化の古層に隠れている何かがある様な気がする。佐渡なんか沢山あるんじゃないか。

自分はどこから来たのか?・・・・褌子

   Horohorokaiきってのイケメン国兼さんと行奈さんの美顔がどうも寸足らずだとおもっていたが見事に整形処理されてよかった。修正されたご尊顔を拝するとお二人ともアイヌ系日本人ではなく日本本土系日本人だと思われる。
   日本本土系日本人はDNAで調べると沖縄系日本人よりも朝鮮半島人によりちかく、その次にいわゆる漢民族・中国人に近く、その次に沖縄系日本人に近くて、アイヌ系日本人とは非常に遠く離れているそうです。
   逆にいうとアイヌは色白、琉球人は色が黒い人が多いがDNAでみると非常に近いというもの。
   以下は11月1日の各紙からの引用。
   日本列島の先住民である縄文人と韓半島から渡ってきた弥生人が混血を繰り返して現在の日本人になったという「混血説」を後押しするDNA分析結果が出たと日本経済新聞など日本のメディアが1日、報道した。
  東京大学や総合研究大学院大学などで構成された研究チームが先月31日、このような研究結果を総合して発表した。日本経済新聞は「今までも似たような研究結果があったが、今回の研究は1人当り最大90万カ所のDNA変移を解釈して信頼性を大きく高めた」と評価した。研究チームは今まで公開された日本本土出身者とアジア人・西欧人約460人分のDNAデータにアイヌ族と沖縄出身者71人分のデータを追加して分析した。アイヌ族は紀元前5世紀ごろから北海道をはじめとする東北部地域に住んできた日本の原住民だ。
分析結果、アイヌ族は遺伝的に沖縄出身者と最も近かった。その次が日本本土出身者、韓国人、中国人の順だった。また、日本本土出身者などはアイヌ族や沖縄出身者などより韓国人、中国人と遺伝的にさらに近いと分析された。アイヌ族は顔の輪郭がはっきりしていて白人に似ていて、沖縄原住民は肌が黒く東南アジアなど南方系に似て容貌上は互いに明確な違いが生じるがDNAの分析ではきわめて近い。


らまっころ・・・猫跨ぎ

また余計な仕儀かも知らないが、国兼さんの写真が縦に縮んでいる。横/縦比は300/200となっているが、300/225のはず。勝手に修正させて貰ったが、どう?自然でしょう。

「らまっころ」は、行奈さんの説明では、「らま」がゆったりした、北海道弁でいえばあずましい感じか。「ころ」は処という意味で、アイヌ語による造語だったと記憶するが。

2012年11月3日土曜日

デンデラノ・・・・褌子

    国兼さんの写真付き旅行記は楽しく見事だ。とくに行奈さんの笑顔がかわゆいね。行奈さんの生き生きした話もよかった。行を「あん」と唐音で読ませるのがいい。行宮とか行在所とか。
   行奈さんとアイヌの話をゆっくりしたいです。おとといドキュメンタリー映画「カムイと生きる」というのをみたばかり。浦川治造さんというすばらしいアイヌのおじさんが主人公。
    菊池さんの名刺もらったのでみなさんの旅行記を郵送することにします。国兼さん小林さん行奈さんにくれぐれもよろしくお伝えください。
―――――

・カッパ消え皀莢の莢捩れたる
    遠野の旅に参加した人ならよくわかる句だ。
    河童は愛すべきグロテスクな顔をしている。菊池さんが案内してくれた河童のでる川も楽しかった。サイカチのサヤは強くねじれていて堅い。黒ずんだ茶褐色でいまわがやの玄関にかざっている。

・穭田に忘れ鍬ありデンデラノ
  デンデラノの語感が恐ろしい。なんの変哲もない原野みたいなところだが、六〇すぎた年寄りは…とあの話をきいてしまった以上、寒風吹きすさぶ深夜に独りでデンデラノに立つ勇気はない。「楢山節考」のような棄老伝説は信州北部の姨捨山だけかと思っていたら、貧しい山村にはあっちこっちに残っているんだね。
年寄りたちだけで筵がけした小屋に住み、山菜をとり共同生活をしながら死ぬときをまつ…現在の老人ホームも本質的には同じか

・柘榴熟れ坂を上がればダンノハラ
  ダンノハラは罪人の首切り場だときいた。ダンは断首のダンか。江戸でいえば鈴ヶ森か小塚ッ原。水車小屋をみたあと、あそこらへんがダンノハラと菊池さんが説明してくれたが、ダンノハラの近所にも農家が点在していた。子供のころ提灯もって墓場の前を通って近所にお使いに行くのが怖かったことを思い出した。

2012年11月2日金曜日

2012年ホロホロの旅(猊鼻渓編)…国兼

 岩手の震災の爪痕を見た後、その日は猊鼻渓の「らまっころ山猫」なる不思議な名前の旅館に宿泊した。小林さんの事前調査から200年前創業の由緒ある旅館で、宮沢賢治も宿泊したらしいとか、「らまっころ」はアイヌ語だということを聞いていた。どうしてこんなアイヌ語を旅館の名前にと不思議に感じていた。夕食時にみんなで楽しくお酒を飲みかわしていたら、ここの女将さん(菅原行奈さん)が挨拶に来た。
老舗の女将というと相場はお年寄りだろうと思っていたら、未だ若さを維持した奥さんである。旅館の名前の由来からアイヌの話になり、この女将さんは父親から酪農の勉強ということで旭川に長く住んでいたという。そこでアイヌに関心を持ちアイヌ語を勉強したという。息子も同じくアイヌ語に関心を持ちアイヌ語弁論大会で優秀な成績だったとか。「らまっ」と「ころ」という2つのアイヌ語の合成と話していたが、残念ながら酒を飲んでいたためにどういう意味だったか覚えていない。私が滝川だというと懐かしそうな顔をし、アイヌの熊祭りのお話や東北や北海道に残るアイヌ地名研究の山田秀三氏の話、更に宮沢賢治に由来する「山猫」という名から賢治に関する話題で、また話が盛り上がってしまった。楽しい夜のひと時を過ごした次第(写真左は女将さんを囲んでの記念写真)。

 翌日朝に女将さんと別れを告げて、日本百景の一つだという猊鼻渓の砂鉄川という名の川の船下りを楽しんだ。100m近い絶壁の渓谷(日本3渓の一つと書かれている)の間を「今年は紅葉が遅くてと、でも私の責任ではありません」という船頭さんのユーモラスなお話を聞きながら渓流の舟下りを満喫した。福島原発事故のおかげで、観光客も未だ戻らず、タケノコや山菜も売れず、私は暇で鉄砲撃っていますと言いながら猊鼻追分を歌ってくれた(写真下が船頭さん)。
             
 思えば心に深く残るメモリアルなる今年のホロホロの旅であった。
河野君の死を旅行から帰ってきて知ったが、人生かくのごときかと。また、来年も元気に再会したいものだと。

「追」私の書いた旅物語につけた写真の縦横の比がという猫跨ぎさんのコメント有り難うございます。私が今年6月に買い替えたノートパソコンで初めて画像を貼り付けたところ、通常の横、縦、3:2だと私のプレビュー画面では正方形になってしまい、不思議だなと思いながら私のプレビュウ画面にフィットするように縦を短くしてしまいました。どうして私のパソコンの画面でそうなるのか、また宿題が増えてしまった。

2012年11月1日木曜日

一言・・・猫跨ぎ

国兼さんのレポートですが、折角の写真が縦に寸詰まりになっている。横/縦の比は、200/150のはず。そのように両方とも修正しておきました。

ついでに、遠野ミステリーゾーンの三句
・カッパ消え皀莢の莢捩れたる
・穭田に忘れ鍬ありデンデラノ
・柘榴熟れ坂を上がればダンノハラ

2012年ホロホロ会の旅(鎮魂の旅)…国兼

 私の目の黒いうちにこんなミレニアム的大地震が、そして絶対安全と宣伝された原発がメルトダウンするような大事故をおこすとは…。この目と脳裏にしかと焼き付けておこうと思っていた。私にとってはこの津波で命を奪われた5万人を超える人、そして今も家を失い子供を、夫を、妻を失った人への鎮魂の旅でもあった。

 既に、猫跨さんの句や、褌子さん、逸徳さんの記事に書かれているので多言はしないが、この目でじかに見たあの3.11の津波の巨大さを痛切に思い知らされた。 こんな頑丈な防潮堤を一気に砕き、更にこんな高さまで津波が、(写真左:田老海岸の防潮堤を破って襲ってきた津波で被災したホテル?)こんな頑丈なコンクリートの建屋を打ち破ってと、私でもこの建屋に逃げ込んだらまず安心して一服したであろうにと・・・。 (写真右:陸前高田市の市役所、3階まで津波が押し寄せてきた)ただただ津波の巨大なエネルギーに圧倒される思いがした。

 この三陸海岸線には不気味な瓦礫除去の起重機の音が響き、工事現場の人以外の生活の音は何も聞こえてこない。周囲にはかって民家やお店が建ち並び、人でにぎわっていたであろうという証拠を残すコンクリートの土台の跡のみが見られ、更地になったその後には至る所雑草のみが生い茂っている。
 百聞は一見にしかずという古来の人の言葉をかみしめている。  合掌

下の写真はかっては風光明媚な海岸線の陸前高田の松原で一本だけ残ったという「奇跡の一本松」の跡で(小林さん提供の写真。我々の訪れる数週間前に枯れて伐採されたが、いずれ人為的施工を施して新たに立つらしい)。
                        

2012年10月31日水曜日

2012年ホロホロの旅(遠野編)・・・国兼

 新花巻から釜石線に乗って遠野駅についたのは1時ごろで、小雨がぱらついていた。髪を後ろに縛った、一見オカリナ奏者喜多郎風のタクシーの運転手(後で知ったが、菊地というこの遠野には多い名字の方で、実に親切、かつ知的雰囲気の人物であり、2日間本当に楽しい旅ができた一つの要因ではないかと思っている)の案内で6時近くまで遠野を案内していただいた。おかげで、一度は訪れてみたいと思っていた、柳田國男のそもそもの「民話」の原点である遠野を一望できた。
 何故遠野にこのような民話がたくさん語られていたのか疑問に思っていたが、海側の釜石と内陸の花巻のちょうど中間地(約30Kmtちょいで馬で荷物を運ぶ1日分相当らしい)で、旅人が相互にアレコレとお国の古い言い伝えを語り合っていたのかもしれない。

 興味深かったのは「カッパ淵」での河童の像である。その昔、清水 崑氏の週刊朝日でのカッパの挿絵を思い出すような、ユーモアな娘と子供を抱いた母親の親子の像があった(左写真はその娘の河童をしげしげと観察中の猫さん)。翌日の朝ホテル近くを散歩していたら駅前にも河童の群像があったが、遠野と河童は縁が深いのであろう。 この遠野で初めて見たのは保存されている古民家の形がL字形(曲り屋と呼ばれている:右写真参照) であることである。南部藩ではポピュラーな形らしい。 Lの下の短い横線の所に馬を飼っていたようで、馬の暖をとったり、家族の目が行き届くようにしたのかもしれない。昔から遠野は馬の一大生産地だったようで、「オシラサマ」という「遠野物語」に出てくる娘と馬の悲恋の民話にも出てくるように、馬はこの遠野の生活には切り離せない存在だったのであろう(オシラサマは蚕の神様でもあり、遠野でもかっては蚕も欠かせぬ生活の一部だったようである)。

 夜は菊池運転手お薦めの「かたり部」(何故この店が「かたり部」と云うのか分からなかっが、トイレに行ったら民話が流れていて納得)という居酒屋風で旅の疲れを癒し、元気に再会できたことを祝して乾杯!!!(下の写真はかっぱ淵近くの常堅寺にて今回参加した5名の雄姿)
                 

言葉・・・・・ホロホロ旅行記(2)・・・逸徳

山田町から南下して来て、陸前高田の街にはいったときには、そのすざましさに呆然とした。、この町は1778人、人口の7.63%の死者を出した。この値は宮城県女川町の8.77%についで二番目の高さであり、他の自治体と比べると段違いに多い。ああ、あの光景をみたら、さもありなんである。

 言葉について考える。「いうべき言葉がない」という表現は、対象の状態を正確に表現するのには、言葉の力が及ばないということをいっている。まったくその通りであるのだろう。現地にたち、海岸線まで見渡せる茫漠としたあのまったいらになった光景の中を吹き渡ってくる風の匂いと、空のどんよりとした光の中に身を置かない限り、どんな言葉をつかっても、あの状況をあらわし伝えることは困難であると思った。そうぎりぎりのところで、言葉は無力なのだ。そして一度はそのような言葉の無力さを肌で感じることは、いいことなのかもしれない。そうすれば、人は言葉に謙虚になる。おしゃべりが滑稽さにつながってくるのである。

 しかしである。やはり人は言葉によって生きており、言葉によって支えられている面もまた確かにあるのだ。言葉にもろもろの豊かなものを込め、それが共通の財産になるような世界。そこでは魂と言葉が共鳴しあい、言葉によって美しさや優しさが伝わる。ああ、それは見果てぬユートピアであろうか。

 そのひとつの対極にあるのが、政治の言葉だ。空虚な言葉の羅列は、人を傷つけ絶望させる。今の永田町がそうである。木下順二の「夕鶴」の舞台で鶴の精つうが、金に目がくらんだ愛するよひょうに対して「ああ、あなたのいっている言葉がわからない」と叫ぶ、美しく悲しい場面があるのだが、国民のひとりとしていえば、いまの永田町でかわされることばは、まさに「わからない」のである。国民は失望し絶望し、あきらめて、政治にかかわるもろもろを見捨てようとしているように見える。だがそのあとに来るものを想像すると本当におっかないのである。

そこで妄想する。あの陸前高田の被災地の真ん中に大型の仮設テントをたて、そこで臨時国会をやらせたい。もちろん傍聴人は被災住民である。あの空気の中で、そのようなまなざしの中で、政治家たちはどのような言葉を吐くのだろうか。あるいは、復興予算にハイエナのようにたかりつく官僚たちに1週間でいいから、復興工事のボランテイアをさせてみたい。ダメカナア。


2012年10月30日火曜日

猫跨ぎ句を鑑賞・・・褌子

・曲屋の三和土波立つ秋日かな
  特選。曲家のなかは暗い。かすかに煙たい。秋の外光が屋内にさしこみ、三和土のゆるやかな凹凸を私もみた。三和土のすみっこに大きな土でつくった平たい竃があった。
移築されるまえに、この寒い南部の地のこの曲家に大勢の人の寝起きがあり生老病死があったことだろう。家族同様に馬が飼われ、軍馬として「出征」し大陸から帰ってこなかったことだろう。
  そんなことは知らぬげに曲家の軒下に石蕗の花がのんびり咲いていた。
  曲家から帰るときにドライバーの菊池さんが「この木なんだかわかりますか」とみんなにきいた。豆科だ、ニセアカシアに似ているが木ささげ?槐か?…などと騒いでいると皀莢=サイカチだという。電子辞典を忘れたのでサイカチのサイは齋だなどと知ったかぶりをしたが、皀莢だ。20センチもある堅い豆の莢(さや)が黒びた褐色になって落ちている。女房にお土産に拾った。皀莢にはどんな花が咲くのだろう。千葉の館山にも有名な皀莢の巨木があるらしい。猊鼻渓でも船頭が川端の皀莢を紹介した。ここでも泡がたって石けん代わりに昔のひとが使ったとsaponinの話を船頭がした。

・五百羅漢の巌に還る秋時雨
   朝一番に遠野の五百羅漢に行った。山道をすこし登っていくと、苔むした岩が転がっていて、
   仏の顔が彫ってあることがかすかにわかる。秋色濃いブナや欅の林が静まりかえっていた。
   写真をとろうとしたが、今回の旅にカメラも電子辞書も家に忘れてきたことに気づいた。
・上り月遠野の暗き道広し
   「語り部」で呑んで旅館にかえるとき、誰も歩いてない真っ直ぐの道がかすかな月明かりのなかにどこまでものびていた。
・神のゐる気配のなくて秋の海
   こんなに静かに秋の日にきらきら輝いている平穏な海が、あの日に限って牙をむいたのか…
・サルビアのますます赤き駅舎跡
   陸前山田町だったか鉄路のわきにホームと駅舎の基礎だけが残っていた。コスモスが悲しげに風に揺れていた。
・草の実やピアニッシモの重機音
   瓦礫に立ち向かう重機の音
・むつつりと仮設を抱き秋山河
   宮古から大槌に向けて山越えするとき峠にたくさんの仮設住宅がみえた。
・腰板まで津波てふ店今年酒
   宮古の立派な鮨屋。小綺麗な店だったが腰板まで津波がきたときいて驚いた。
・沈黙の車内にひとつ秋の蝿
   陸前高田の惨状には息をのみました。準特選
・サルビアや鴎は海をふり向かず
   海猫と鴎の違いを菊池ドライバーに教えてもらいました。
   鴎は渡り鳥で冬期に日本にやってくる。
   海猫は鴎の一種だが渡り鳥ではないらしい。とすると三陸の海岸に群れ飛んでいたのは海猫か。
   掲句のサルビアの赤、海猫の白、海の青の対比。海猫もあの日の真っ黒に膨らみすべてを無慈悲に飲み込んだ巨大な津   波をみたはずだ

2012年10月29日月曜日

ホロホロみちのく・・・猫跨ぎ

 今回の旅行はずっしりと残るものが多く、まだ体の芯から疲れがとれない。まずは、プランニングをした小林さんに感謝しなければ。綿密な計画無しには今回の旅行の実りはなかったのだから。遠野交通の菊池さんのプロフェッショナルなスキルにも恵まれた。
繰り返し思い出すこともあるだろう。それぞれ開陳すればいいと思う。私は取りあえず、心に留まったことを数句。

・曲屋の三和土波立つ秋日かな
・五百羅漢の巌に還る秋時雨
・上り月遠野の暗き道広し
・神のゐる気配のなくて秋の海
・サルビアのますます赤き駅舎跡
・草の実やピアニッシモの重機音
・むつつりと仮設を抱き秋山河
・腰板まで津波てふ店今年酒
・沈黙の車内にひとつ秋の蝿
・サルビアや鴎は海をふり向かず

想像力・・・・ホロホロ旅行記(1)・・・・逸徳

今回の旅ほど印象深いものはなかった。何か魂の根底にふれるような瞬間があった。 体験をじっくりじっくりと反芻している。キーワードは想像力と祈りである。

深い森である。そこまでに至るのには、集落を離れて、森の中のけもの道のような細い道をよじのぼるようにしてあがってこないと、たどり着けない。人家はあたりにない。 静かに、森の匂いがつめたい風にのって流れている。一人の僧が、木々の間に散在している石に鑿をふるっている。刻むものは、衆生済度を願う五百体の仏達である。ああ、その刻音は天地に満ちるのであろう。きっと森のけものたちはそれを聞きにあつまってくるに違いない。しかし、どのけものも、僧をとりまいて何もせず、だまってその石を刻む音を聞いているのだ。 現地にたつと、木の間がくれに、僧をみつめる鹿のまなざしを感じるのだ。飢饉に倒れた数知れない、無数の民たちの成仏を祈って、僧は刻み、刻み、刻み続ける。・・・・ そうなのだ。この場所にたって自然に頭の中に浮かんできたキーワードは「祈り」である。(遠野市五百羅漢像において)

 祈りとは何なのだろう。人はなぜ祈るのか。かって、憲法9条を守る平和行進に参加したことがある。そのときに、一人の高校2年生の女の子と知り合いになった。行進中に交わした、彼女との平和をめぐる会話は本当に豊かなものであった。そして最後に、彼女が私に尋ねた。「このような平和行進の意味はなんでしょうか」と。 で、ぼくは答えた。「それは「祈り」ではないでしょうか。」と。そのとき、本当にそういう言葉が自然に頭に浮かんだのだ。で、その次の彼女の問いが衝撃的だったのだ。彼女はぼくに問うた。「では、祈りにはどういう意味がありますか。祈りという行為にはほんとうに力があるのでしょうか。祈りは本当に現在の苦しんでいるひとたちを救うのてしょうか。」・・・・彼女の真剣な問いに、ぼくは立ち往生して、混乱し、ごまかした。本当になさけない。だが今でもこの問いは頭の片隅にある。 祈りという行為が祈るひとを救うかもしれないのはわかる。 しかし、今この場で命を奪われていく、無数のか弱い民には何の意味があるのか。いまだに、このことはすっきりとわからない。

だが、である。そこで今回の旅でもう一つのキーワードに気が付いた。それは「希望」である。 この言葉は、安易にもてあそばれすっかり手垢にまみれてしまったが、こういう状況だからこそ、ぼくらはもう一度「希望」について、まじめに考えてみたい。

希望学というプロジェクトを主張している、東大の社会科学研究所・玄田有史教授は、東北大震災の綿密な現地調査にもとづいて次のような印象的なコメントを集めている。
 「夢は無意識のうちに持つものだけど、希望は、厳しい状況の中で、苦しみながら持つものなんですよ」
 「希望というのは、未来があるから使える言葉なんだよ」

そうか。現実から逃げないで、苦しみ格闘しているものこそが、未来を希求するプロセスの中で「希望」という言葉をつかうにふさわしい資格を得てくるのだ。であるならば、「希望」と「祈り」はほんとうに近い。 一枚の紙の裏表なのかもしれない。 

被災地の現実の中で「希望」について考えた。できることは何もないかもしれない。おそらく、ただ寄り添うことだけなのだろう。そして、こういう現実が、この同じ空の下にいまもあるということをしっかりと受け止め、忘れないように生きたい。そのことで、おいらももうすこしキチンとした地についた生き方ができそうな気がする。・・・・うーん、だめかな・・・・
                                                      続く

 



2012年10月28日日曜日

記憶力・・・・褌子

  椋鳥が穭田のうえを群れ飛ぶ季節になった。
 東北旅行から帰ってきて帚木逢生『閉鎖病棟』を読んだ。山本周五郎賞をうけたというだけはある作品。精神科医であってはじめて書けたのかもしれない。 いまは津島佑子『火の山―山猿記』を半分読んだところ。帚木作品よりはるかに重厚、大作である。富士山に寄り添いながら生きた甲府の有森家のひとびとの戦中戦後を生きた長い物語。有森家とは、津島佑子の母親つまり太宰治の妻の実家をモデルにしている。いっぽう、父親を愛憎こめて書いた傑作は辻井喬『父の肖像』。西武王国を一代で築いた堤康次郎を息子が赤裸々に暴いた。作家魂の業というしかない。
   さて、河野君は ↓の写真のようにスマートで垢抜けしていたから、私はてっきり関西出身、たぶん夙川とか芦屋とかだと思い込んでいた。国兼さんによれば北見北斗高校ときいて意外、道産子にもいろいろなタイプがいるんだね。八田君が住友ベークライトで河野君は鐘淵化学だと思い込んでいたが仁ちゃんによれば河野君は住友ベークライトからカネカに移ったのだそうだ。2003年理学部同窓会誌をためしにみたら八田君は住友電工である。河野君は住所不詳となっていてほかには何も書いてないので、彼はこのころヨーロッパで活躍していたのであろう。五本さんから河野さんの車でベルギーやオランダを案内してもらいとても嬉しかったと私もきいたことがある。
   河野君のマツダ高級車で六甲山まで送ってもらった関西ではじめてのほろほろ会の旅行だが、私が片野尾温泉、国兼さんが片野屋温泉と書いている。むろん武田尾温泉が正しい。またしても仁ちゃんの記憶力には脱帽。武田尾 が片野屋にどうしてなるのかね。私は武田尾 ⇒片野尾と一字だけあっている。国兼さんはビタミンCやセルロースの構造決定法など聡明な頭脳、完璧な記憶力で“勇気化学”一発突破したのに、仁ちゃんと私が意外にも悪戦苦闘したのだから人間の記憶力とは不思議なものだ。

函館通信189・・・河野君追悼・・・仁兵衛

 河野君の訃報に接し言葉が出てこない。あんなに元気があって酒をたらふく飲める彼の姿が脳裏を離れない。兎に角も面倒見がよく本当にお世話になった。

 昭和41年に卒業し彼は住友ベークに就職した。3年ぐらい居たと思うが老舗会社の堅苦しい人事に嫌気をさしてカネカに転職した。移るに当って学校(対北大)の事など心配し相談を受けたが相当悩んだ上決心をした。仕事は当時クレハと激しく競合していたMBS樹脂の開発で新しい職場は7割が中途入社者で占めておりのびのびと仕事が出来ていると言っていた。
 大阪での結婚式にも呼ばれたが活気に溢れたカネカの人達から名刺を沢山戴いたのを思い出す。
 そして皆さんも書いている93年に武田尾温泉で何回目かのホロホロ会をやりその酒の強さに驚かされた。しかも翌日車で皆を六甲山に案内してくれた。
 96年にはカネカベルギーの製薬部門会社の責任者になってブリュッセルに居た。丁度私も出張でオランダ・アムステルダムに行ったので連絡をしたらなんと車で飛んできてくれた。アムステルダムの船の運河巡りは忘れられない思い出である。友人宅でしこたまわいんを飲んだ後ブリュッセルに戻っていったのには驚かされた。

 もっとましな思い出があったのだろうが悲しさが先にったってしまいまとまらない。
 河野君、ゆっくり休んでくれ給え。こちらで別離の歌を一人静かに歌わせて貰うから。

2012年10月27日土曜日

河野 廸夫君を悼む・・・国兼

学生時代に河野君とは楽しく飲んだことも話したという記憶もない。お互い没交渉だったのだろう。今にして思うと残念な気持ちである。
彼は大阪の鐘紡化学?に就職した関係もあり、会う機会もなく時が過ぎた。二十数年ぶりにあったのが‘93年の大阪地方で初めて開催した片野屋温泉のホロホロ会である(アルバムで確認したところ)。その時も彼と何をお話ししたか記憶は定かではないが、彼が車で六甲を案内してくれ、駅まで送ってくれたことである。オヤ、と私の知らなかった彼の一面を垣間見た気がした。

 それから何年後だったか、彼から突然電話が来て「東京に出てきたので藤沢で一杯やろう」と。寿司屋でタバコを煙らしながら大いに飲んだ。彼がこんなにお酒が好きで、そのうえ強いのに驚いた。その時に初めて彼が北見北斗高出身の道産子だということを知り、また、彼も私が滝川高校出身だと知って「お前も道産子なのか」と、お互い本州から来た「垢抜けた」人間だと勘違いしていたことを知り、大いに笑った。彼がドイツで鐘化の技術営業畑の仕事をしていたこと、その時に五本さんが訪ねて来てアチコチ案内をしたことを知り、また、驚いた次第。大学卒業後もお互いに手紙のやり取りをしていたのだろう・・・。
  豪快なタフな生き方と同時に心温まる人間味を持った人間だったのだと、明日香でのホロホロ会をきめ細かく世話してもらった時にも同じことを痛切に感じた。私が大学時代に感じていた印象とは全く異なる人間だったことを知り、どうしてあの時代にもっと深い付き合いができなかったのかと不思議な気がする。

 今春の上野の花見の会の返信メールで「前立腺云々で小便がと…」というメールをもらい、私の友達にも何人か同じ病状の人がいたので「大した病ではないと、少し養生して快気祝いに飲もう」とかいう類のメールを送った。ところが、「もっとたちの悪い神経系と複雑に入り組んだ、現代医学でも分からない厄介なものらしい」という返信メールをもらい心配はしていたが、彼のことだからそのうち元気な姿をと思っていた。
 が、今年のホロホロ会(遠野経由岩手、福島の鎮魂の旅)から戻ってメールを開き、君の訃報を知りしばらくの間呆然としてしまった。70まで生きればマア―よしとすべきか、でも少し早すぎるのではと・・・。私も今年は脳こうそくなどして意外に早く君と彼の岸辺で桜を愛でながら飲める日がくるかも。いずれ、そのうち次々に訪れるであろうホロホロ会の仲間のために素敵な飲み屋を探しておいて欲しいものだ。 合掌

2012年10月26日金曜日

河野君・・・猫跨ぎ

  河野迪夫君の訃報に接し言葉もない。体調が思わしくないとは聞いてはいたが。彼一流の表現で病状を紹介する一文を見て、大変とは思いつつも、克服しつつあると漠然と予想はしていたが、残念だ。つい先日、前の会社の知人も癌と闘いながらも元気に句会に来ていたのに二ヶ月後、眠るように逝ってしまった。同じ繰り返しに慚愧にたえない。別れとはこんなものか。
青年の直情さをいつまでもなくさずにいた君だった。決断したことに後悔しない強さを我々には見せていたが、最後まで、苦悩、葛藤を我々に悟らせず旅立った。今にして二年前私の妻の死に際し、手を握りお悔やみを言ってくれた事を思い出す。そういう所作を忘れない君だった。それが、かくも早く旅立つとは。冥福を祈る。合掌。

再会と別れ・・・褌子

      河野君の訃報に驚きました。ご冥福をお祈りいたします。
  秋のほろほろ会旅行、昨日の夜帰ってきたばかりです。五人組で遠野物語の古里を訪ね、翌日は紅葉の山越えをして宮古にでました。田老地区、陸前山田、大槌、浄土ヶ浜、釜石、大船渡とまわり、とりわけ避難してきた市民でいっぱいだった市民体育館や市役所が津波に呑み込まれた陸前高田の惨状に息をのむ思いでした。翌日は猊鼻渓を舟で見物、逸徳さんが紙漉をやったあと宮沢賢治の東北採石工場を訪ねました。賢治は37才、同じ岩手の石川啄木は27才で亡くなっているんですね。
  小生は一関で諸君と再会を約して別れ、一本早い新幹線で東京に着き、神保町の岩波ホールでポーランドのアンジェイワイダ監督の『菖蒲』をみました。死をテーマにした映画で老女優のモノローグが粛然とつづきました。
  今朝、小蔵ひでをさんから電話がきて河野さんの訃報に本当に驚きました。
  クラ館まえで撮影した目がぱっちりした河野君の写真を掲載します(河野君のまわりの三人の美少年はだれかわかりますね)片野尾温泉だったか宿泊の翌朝、六甲山まで車で案内してくれたことを思い出します。五本さんの墓参りでは灘の復刻酒を持参。島根に行ったときも出雲鬼太郎空港まで車で送ってくれたことを思い出しています。ご冥福をつつしんでお祈りいたします。合掌

訃報・・・・逸徳

旅行で入手した、賢治の「農民芸術概論要綱」をパラパラとみていたら、次のことばが目にはいった。・・・・「おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであろう。」 あれこれと考えながら、なんとなくメールをあけたら、社長からのびっくりするような知らせがはいっているではないか。しばらく唖然としていた。だって6時間ほど前に、また来年元気で会おうとみんなと東京駅で別れたばかりなのに。これはいったいどうしたことか。ことばがない。・・・・・ああ、とうとう二人目をおくった。さみしい。悲しいというよりさみしい。 大阪から島根への旅に、彼の車に乗せてもらい、いろいろ語り合ったのはついこの間のことだった。

今朝はよく晴れた。こんなぬけるような空のもとで宇宙を旅するのは、いいのかもしれない。ゆっくりいってくれ。 おっつけすぐにおいつくから、また会えるだろう。合掌。


2012年10月22日月曜日

秋の読書・・・褌子

    あああ♪ 遠野は~雨だった~♪ ♪
     いよいよ岩手県への出発の時間が迫ってきましたね。
   きょう、春にワカメの収穫ボランティアに行った石巻のひとから電話で相談をうけました。津波で家を失ない狭い仮設住宅の心労で隣のご主人が亡くなった。奥さんがフィリッピン国籍の人で子供が二人いる。生命保険がはいってくるが…という相続の相談でした。復興予算の流用にも怒っていた。
 毎日毎日、いろんな生活相談に明け暮れています。本当に世の中たいへんな格差社会になっている。小泉竹中の構造改革でどっと貧富の差がひろがった。張本人の竹中平蔵は大阪維新の会の最高顧問だそうだ。
 そこで気分転換に本を読んでいるが、10月は、加賀乙彦『帰らずの夏』、谷崎潤一郎『陰翳礼讃』、手代木公助『夷客有情』、松本清張『霧の旗』のあと読み始めたのが、翰光『亡命―遙かなり天安門』、小森陽一編著『沖縄とヤマト』、津島佑子『火の山―山猿記』、孫崎亨『戦後史の正体』、帚木蓬生『閉鎖病棟』などなど。小森陽一は北大文卒でじつに面白い人。津島佑子は太宰の娘で同じく作家の太田治子とは異母兄弟だが両方とも実力派作家。血は争えない。硫黄島の栗林中将を描いた『散るぞ悲しき』の梯久美子も北大文だね。さわやかな読後感だった。
 盛岡在住の高橋克彦『北の燿星アテルイ―火怨』は今回の岩手旅行にむけて読んだが、安倍貞任・宗任を描いた『炎立つ』はもてあましている。文章の勢いが強すぎてちょっと疲れるんだね。年か。
  『陰翳礼讃』はのんびり寝ながら楽しく読めた。色気のはなしなどで西洋と東洋の比較が面白い。厠のはなしも生々しく書くんだが品がある。
 谷崎潤一郎は本当に助平だな。逸徳さんもかなわない。

2012年10月19日金曜日

伊勢は雨だった・・・猫跨ぎ

昨日まで俳句の仲間と伊勢神宮周辺の旅行をしてきた。神宮の早朝参拝では、雨に煙る深閑と鎮まる境内を玉砂利の音を聞きながら歩いて色々考えることが多かった。
 さて来週はhorohoro東北旅行。褌子氏の回顧談を見ながら、こう毎年重ねてくると、或る感慨に捕らわれるねえ。去年、酒田駅で皆と別れて、豪商本間家の本宅を見学した。家の海寄りの向きに建物を防護するかのように長い土蔵が建っている。海風に煽られた火の手から家を守る為と聞いて、酒田の大火は昔から何度も繰り返してきたことを改めて実感。ちょっと付け加えておく。
 「大道寺将司句集」に関し、作者について褌子氏のコメントがあった。関連情報を補足すると、大道寺らの三菱重工本社前の爆破事件の二年前に例の「あさま山荘事件」が起こっている。首謀者の一人、坂口弘は同様に死刑囚となったが、獄中で短歌を修め、歌集を出している。伝統の短詩型文学に、俳句と片や短歌の違いはあるが、共通して導かれていったのも不思議な気がする。日本人と文芸の関連において何かを示唆しているのかもしれない。またこういう事件が頻発したあの頃の時代性も考えたい。
  永山則夫は同じ東京拘置所に収監されていたが、獄内でもある存在感があったらしい。ある日の朝、永山の独房の方角から悲鳴と怒号が聞こえ、その後静かになった。その日に永山の死刑が執行されたのを後に知る。あれは刑務官に引き立てられてゆくときの怒号だったらしい。永山は生前、死刑執行には徹底的に抵抗すると言っていたとか。ところで坂口弘もこの拘置所に収監されているが彼についてのコメントは特にないようだ。
  40年近く独房にいて、死と隣り合わせにいる日々。その精神世界が俳句に如何に投影されるのか、想像を絶する。私は俳句は大きな器だと常々思っている。穏やかな日常詠はもちろんよし。大道寺の様な、怖ろしく底冷えするのもまた俳句なのだ。

horohorokai旅行の思い出・・・褌子

  おとといまで半袖だったが風邪をひきそうになり長袖ワイシャツにした。10月17日が夏と冬のせめぎあい、昨日から冬である。
  だいたい、今頃、ヒマジンばかりでhorohorokaiは旅行している。2006年10月20日快晴は飛鳥民宿を自転車で出発。酒船石、亀石などみてまわった。民宿のおかみさんはリラの君をふっくらさせたような品のいい方でしたな。諸君は牛乳のすき焼きで牛飲馬食してましたが落霜紅が庭灯にほんのり照らされているのをみて私はなぜか泪ぐんでいました。八田さん河野さんお世話になりましたね。
  翌年2007年10月20日は竹生島、長浜で鯖うどん食った。前日、木之元町でいただいた鯖鮓は美味、酒は北近江路の辛口。十一面観世音菩薩のS字曲線にうっとりして国兼さんが「観音の腰に目をやる老いの秋」の辞世の句を代作してもらいました。
  翌年10月18日はジャンボタクシーで紅葉の里塚霊園へリラの君の墓参り。河野さんの復刻酒を飲みながら都弥生を歌いました。紅葉のナナカマドの函館での前夜祭が楽しかった。仁ちゃんに案内されて函館北方民族博物館でみた蝦夷錦は忘れられない。
  2009年10月22日は新大阪で八田さんの出迎えをうけて高野山へ。山の上の宿坊は寒かったなあ熱い風呂にみんなで入りました。いただいた般若湯は「普陀落渡海」だったか?まさか、多分「熊野灘」だね。とにかく紀州の山々がよかったねえ。
  一昨年10月14日は島根県の真ん中あたりの石見銀山ちかくへ着陸するはずの全日空機が山口県境の石見萩空港に着陸してしまった。縄文の杉化石が見事。割烹料理屋で鰻を食ってお酒石見銀山をのみました。季節外れのシジミ汁を頼んだがシジミの数が少ないと国兼さんがこぼしていました。私は月明かりにきらきら光る宍道湖河口の湖面を渡ってくる祭太鼓に感動していましたが。
  去年10月21日は線量計で放射線測定しつつ新幹線で山形へ。山寺に登りましたね。小蔵ひでを社長予約の上品な山形キャッスルホテルでたしか会席料理みたいなもの賞味しました。酒は羽前銘酒「月山」。
  翌日は湯殿山。裸足で妙なご神体をありがたがり、注蓮寺で諸君はカメムシの悪臭にたえながら即身仏へ。私はジャンボタクシー高橋運転手の山形弁での身の上相談をうけながら小説月山の石碑など見ながら、あたりの紅葉を愛でながら、物思いにふけながら俳句にいそしんだが一句もできなかった。羽黒山入り口の食堂で食った草餅だったかうまいうまいと猫跨ぎさんが賞味しておりました。小生はほんの少しいただいた銘酒羽黒山で頬をぽっと染めてしまいましたね。鶴岡の藤沢周平記念館をみて酒田の超高級旅館に投宿。飲み屋「庄内藩」で食った焼き鳥とおでんが旨かったこと。庶民はこんな旨いものを食っているのか…脂ののった毛羽先を無心にほおばっているときの逸徳さんが一番幸せそう。
  翌23日は酒田土門拳記念館へ。売店で写真をぱらぱらめくっていたら山形美人の店員さんから「お客様のような方にはこの写真集が…」てなこといわれて13600円いちばん高い豪華写真集を衝動買いしてしまった。たしか小林さんといっしょに羽越線経由で逸徳師持参のウヰスキーをちびりちびりホタテの貝柱でやりながら帰りました。ほかの諸君は酒田からどこへ消えたのかね。わたしは羽黒山の千古の杉木立のなかの五重塔がいつまでもいつまでも脳裏から離れません。過去数十年のhorohorokai旅行でいちばん鮮明に記憶しているのは去年の山形旅行。やはり大震災と原発で苦しむ東北の人々への思いが深いからだろう。
  いつも詳しく調査してジャンボタクシーなどを手配してくださる小林さんありがとう。今年もよろしくお願いします。飲み屋で飲みたいもの食いたいもの背中流しなど何なりと手前どもにお申し付けください。

2012年10月17日水曜日

大道寺将司と永山則夫・・・褌子

  大道寺将司は釧路、連続ピストル射殺事件で死刑執行された永山則夫は網走の出身。
永山は、極貧の家庭で母にも捨てられ地獄の辛酸をなめた。入獄するまでは読み書きもできなかったが獄中から次々と発表される作品は文壇にも衝撃をあたえたと言われる。オウムの麻原も父親に毎日殴られて飯も食わせてもらえない少年期を送った。
大道寺は釧路湖陵高をでて大阪の釜崎で一年暮らしてから東京の大学に進学しているから永山とは違うようだ。ちなみ全共闘であばれまわった青年たちはめぐまれた家庭のおぼっちゃんが多いそうだ。
すめらぎを言寿ぐぼうふらばかりかな
胸底は海のとどろやあらえみし
  被害者への謝罪と懺悔の苦悶の日々の中でも、すめらぎ=天皇制と対峙する荒蝦夷(あらえみし)の矜恃をもっている。大道寺はアイヌ差別に深い関心があったらしく、アイヌ出身か被差別部落民あるいは在日朝鮮人の子弟だったのではなかろうかと思ってしまうが、やはり時代錯誤は否めない。このような感受性豊かな弱者に心優しい青年が反権力の矛先をまったく間違えて武力革命を妄想し大勢の市民を犠牲にした。
  全共闘運動の暴走をあおり、中国の文革を天までもちあげた当時のいわゆる“新左翼文化人”の責任は重い。いまの中国の反日暴力青年の“愛国無罪”にもだぶってみえる。

2012年10月16日火曜日

「棺一基」・・・猫跨ぎ

俳句つづきのついでに、今年春に出版され今も版を重ねている異色の句集を紹介してみよう。例のコラムからの転載。

今年前半に上梓された異色の句集を取り上げたい。
『棺一基 大道寺将司全句集』である。著者は、一九七四年八月三菱重工本社ビル爆破事件を決行した反日武装戦線「狼」のメンバーのひとり。この事件で死者八名、負傷者百六十五名を出した。逮捕、判決は死刑。爾後三十七年間、東京拘置所に収監されている。
逮捕後、事件を深く悔い、被害者への謝罪と懺悔の苦悶の日々の中から、俳句を紡ぎだし始める。独房での自己内省、悔恨と懺悔、母親への愛と死への哀惜、弱者への共感と国家や権力に服(まつろ)わぬ強い思い、これらを直裁に詠っている。
独房に約四十年、万葉以来の詩歌の伝統「寄物陳思」(ものに寄せて思いを述べる)とはまるで正反対の環境にいることを念頭に置く必要がある。そして彼は「俳句にいまや全実存を託したのだ。」(辺見庸) 千句をはるかに越える作品が一頁に七句掲載の句集にぎっしりと詰まっている。その一端に触れてみよう。梅雨空のさなか、読み進むうちに、その異様な迫力と暗闇に引き込まれるような息苦しさに何度も中断したことを申し添えたい。

・あかときの悔恨深く冴えかえる
・ぬかづくや氷雨たばしる胸の内
・ちぎられし人かげろふのかなたより
犠牲者の中には損壊の著しいものもあったという。それらは、幾度もまなうらに立ち上がり罪の反芻は果てしもいない。悔恨と懺悔の気持は、ことある毎に心を苛む。

・夏服の母は十貫足らずかな
・小六月童女の如き母なりけり
・母死せるあした色濃き額の花
母は幾度も面会に来た。その母も老い、慈母というよりいつの間にか労りと哀しみの対象となる。その母も逝った。継母であったという。

・棺一基四顧茫茫と霞みけり
・天穹の剥落のごと春の雪
・時として思ひの滾る寒茜
・モディリアニの裸婦の眇や冬の蝿
深深と心に下ろす垂鉛の果ては見えない。末期の目に全ては茫茫と霞むというのである。
ところで著者の心に『罪と罰』の〝ソーニャ〟の影はあるのか。実は欠片も認められないように見える。目に留まったのが掲句である。冬の蝿にモディリアニの裸婦のあの虚空を見るような目を重ねている。不思議な感覚であり、心の奥の思いは判らない。

・狼や見果てぬ夢を追ひ続け
・すめらぎを言寿ぐぼうふらばかりかな
・胸底は海のとどろやあらえみし
意表を突かれたのは、反国家、反権力いうなれば体制に服わぬ精神は、時を経て些かも変わりないことである。それどころか常に蘇り時に燃え上がる。自分の全存在が奈落へ崩壊して行く恐怖に立ち向かうのには、唯一この服わぬ精神を激しく揺り上げるしかないのか。崇高な何かに我が身を預けるという選択を肯んじないのであれば。

2012年10月13日土曜日

十月度仁句鑑賞・・・猫跨ぎ

  金子兜太が稔典句をどう評価していたかは知らないけれど、彼は俳句の革新を唱えていた人だから、こういう試みを悪くは言っていないと思うね。まあ、兜太先生がどう言おうと我々の感性で捉えればいいのでは。今や現代俳句をたばねる最後の人になったけど、そろそろ天に召される頃。彼亡き後、小物の群雄割拠という感じだな。

十月度仁句鑑賞。
・海峡を渡って行きし大花野
そうね、韃靼海峡を連想する。花野が本州へ南下して行ったということか。秋の花々は南下するんだね、なるほど。
・錠剤のアルミを抜けて夜長かな
アルミを抜けて夜長が面白いが、ちょっと意味が伝わりにくいとこがある。
・九月場所額の砂の零れけり
最後の一戦で額に砂を着けたのは日馬冨士だったか白鵬だったかどちらかな。力士にふと哀愁を覚える瞬間があるね。特選
・蚯蚓鳴く洗ひ終った鍋の底
作者独特の感性だね。
・穴惑ひお薬手帳忘れけり
穴惑いは自解してゆくときりがないとこがあるからこれはこれで了解。
・鳳仙花爆ぜて終らぬ戦後かな
いつまでも終わらぬ戦後という観念。まあ日本国憲法大事という読み方もあれば、もういいんじゃないという見方もある。人それぞれ。
・消息の薄くなりつつ石蕗の花
栽培種は勿論あるんだろうけれど、北海道に自生していたかな。見た記憶がない石蕗の花。そんなことに絡めて、人の消息を思っている。
・草紅葉三本立ての西部劇
大草原の西部劇を連想したということでしょう。疾駆する駅馬車。今頃三本立ての上映ってあるのかな。昔の思い出か。
・ふかし藷中は今でも戦時中
藷に戦後(我々は戦時中というより)の代用食を思う世代だね。
・赤ん坊の曖を出して寒露かな
曖は噯(おくび)のことね。ゲップ。寒露は二十四節気。北海道では初氷とも。冬到来の赤ん坊の表情。 準特選。

海峡・・・・褌子

   戦地から生還した金子兜太は、坪内稔典「たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ」などは、なんだこりゃあとなるのかもしれない。たぶん「サラダ記念日」がでたときにも戦中派詩人たちはそんな風に思ったことだろう。
  さて仁句を鑑賞する。
・海峡を渡って行きし大花野
  海峡と大花野に二物配合がある。イメージ鮮烈。いきなり特選ではなく準特選。
しかし、なにが渡っていったのかはっきりしない。弱った秋の蝶か。
掲句で、てふてふが一匹韃靼海峡を渡っていった、が頭にばーんと浮かんだ。
吉村昭『間宮林蔵』を読んでいたときもこの韃靼海峡をわたる蝶々のイメージが通奏低音のように離れない。金とヒマがあったら行って見たい海峡はやはり間宮海峡。たった七キロ幅だ。つぎはジブダルタル海峡。ロカ岬からアフリカ大陸を遠望したい。大昔、この海峡が破られて地中海に海水がなだれ込んだという。次がボスボラス海峡、つぎがメッシーナ海峡とかマゼラン海峡。もう行くのは無理だが。対馬海峡は行くぞ。本州佐渡には越佐海峡がある。函館だと津軽海峡。仁ちゃんに案内してもらった五稜郭タワーから下北半島が指呼のあいだにみえた。大間原発建設再開に函館市民が猛反対するのは当然だ。
「飢餓海峡」など海峡には哀愁がある。寒い風が吹いている。♪津軽海峡冬景色うたって水炊きでいっぱいやりたい季節になった。
・錠剤のアルミを抜けて夜長かな
ふむ。ちょっと退屈気味な日常のなかにも一点凝視している。
・九月場所額の砂の零れけり
  日馬富士だね。
・蚯蚓鳴く洗ひ終った鍋の底
庶民の生活の実感がある。季語と鍋と離れすぎの感もある。
・穴惑ひお薬手帳忘れけり
  穴惑ひという面白い季語を知った。やはり季語と離れすぎ。
・鳳仙花爆ぜて終らぬ戦後かな
特選。鳳仙花は無性に懐かしい。戦後と鳳仙花とには二物衝撃がある。
もう戦後ではないというキャッチフレーズで経済白書がでたのが昭和35年でしたか。しかし、まだ戦後は終わってない。それどころか新しい戦前のにおいがする。やっぱり日本国憲法の役割は大きい。
・消息の薄くなりつつ石蕗の花
準特選。
  ちょいとくたびれた石蕗の花には憂愁とか倦怠、旧懐もすこしあるね。だんだん消息  が薄くなってきたひとも多いなあ。寝ていてひょいと思い出す人もいるがそれだけ。
・草紅葉三本立ての西部劇
  草紅葉は好きな季語だ。が、季語と西部劇が反響しないのが残念。いやまてよ。
  一面の草紅葉の原野を駅馬車が疾走していく。なるほど。
・ふかし藷中は今でも戦時中
まったく共感する世代だな。子どもの頃のおやつはまずいふかし芋。今の焼き芋は旨いねえ。でも、やっぱり、ふかし藷と戦時中はくっつきすぎ
・赤ん坊の曖を出して寒露かな
   曖は曖昧模糊のあいですよね。曖を出すという言葉は私にはよくわかりません。
   

2012年10月12日金曜日

函館通信188・・・空っぽ時代・・・仁兵衛

 昭和20年以降我々と同時代の俳句をまとまって読みたいと思っているがあったらどなたか推奨本を教えて下さい。
 先日坪内捻典氏の本を話題に出したがもう一つ満足しない。それは金子兜太が捻典氏の句を空っぽな句だと評したという事を聞いたからかもしれない。二人には20歳の年齢差がありその間の歴史の変動が大き過ぎて兜太から見ればそう見えるのではなかろうか。しかし我々は我々の時代を生きる以外にないのだから黙々と句を作り、黙々と人の句を評しながら楽しんでゆきたい。
 そして如何に空っぽな時代でも時間は止まらず次から次へと自分の周囲は変ってくる。抵抗したり出来なかったり色々有るが今月も近作十句そっと置いてゆく。
 
 海峡を渡って行きし大花野
 錠剤のアルミを抜けて夜長かな
 九月場所額の砂の零れけり
 蚯蚓鳴く洗ひ終った鍋の底
 穴惑ひお薬手帳忘れけり
 鳳仙花爆ぜて終らぬ戦後かな
 消息の薄くなりつつ石蕗の花
 草紅葉三本立ての西部劇
 ふかし藷中は今でも戦時中
 赤ん坊の曖を出して寒露かな

憲法&蛇笏・・・猫跨ぎ

 きのう時間切れで舌足らずになってしまった。日本の現憲法がなんか嘘くさいという感じはずいぶん前からあった。そして大学の自治か。滝川事件や美濃部事件への反省と聞くと、ああ、また恐れと反省が始まったなあと反射的に思うね。
帝国憲法、治安維持法、旧日本軍と治安警察―いうなれば、日本のアンシアン・レジームが崩壊してから65年。いつまでその亡霊に捕らわれているのかと思うね。「戻るまい昔来た道」を専らテーゼにした社会党が消えてなくなってから久しい。もう昔話はいいんじゃないか。私見では現代のアンシアン・レジームは今の憲法じゃないかと思うくらいだ。国家意志とか戦争とかの話になると、恐れと反省の気分が前面に出て、柔軟な対応が出来なくなる。色んな意味で現実に即した憲法をそろそろ持つ頃だろうね。

飯田蛇笏ですか。くろがねも、すすきも、芋の露もみな好きな句だね。みな名句ばかり。もう大御所の古典だなあ。すっかりしゃぶられて、あまり実作の参考にならない。現実を詠うには現在只今の待ったなしの気持のほうが必要だからね。
山本健吉もいま余り読まれない。歴史的な役割は終わったのでは。尊敬はしているけれどね。

2012年10月11日木曜日

飯田蛇笏・・・褌子

    ノーベル賞から憲法に飛び火した。逸徳さんお願いバトンタッチします。
   きのう、小蔵ひでを社長の創立90周年祝賀会に祝電を送りました。
   俳人飯田蛇笏(1885~1962)没して十月で50年になる。山本健吉は蛇笏の作風を「俳句のもつ格調の高さ、正しさにおいて、ついに彼の右に出づる者は見当たらぬのである」と賞賛した。
 金子兜太編「現代人の俳句」から代表句15選を次に列記する。
 私は「くろがねの秋の風鈴鳴りにけり」が一番好きです。「をりとりてはらりとおもきすすきかな」もいいねえ。
 諸兄はどの句が好きですか? 
   芋の露連山影を正しうす
   死病得て爪うつくしき火桶かな
   蚊のこゑや夜ふかくのぞく掛け鏡
   なきがらや秋風かよふ鼻の穴
   極寒のちりもとどめず巌ふすま
   たましいのたとへば秋のほたるかな
   寒雁のつぶらかな声地におちず
   をりとりてはらりとおもきすすきかな
   くろがねの秋の風鈴鳴りにけり
   山の春神々雲をしろうしぬ
   児を抱いて尼うつくしき霊祭(たままつり)
   冷ややかに人住める地の起伏あり
   地に近く咲きて椿の花おちず
   秋の風富士の全貌宙にあり
   誰彼もあらず一天自尊の秋
   寒雁のつぶらかな声地におちず、を詠んでこの世を去った。芋の露連山影を正しうす、が代表句とされる。
蛇笏の志は四男龍太に引き継がれる
   鶏鳴に露のあつまる虚空かな  龍太

結局憲法だ・・・猫跨ぎ

  憲法23条の教えるところ大学は国家に超然とすべしという高説を賜った。その後生大事な憲法の精神がぎりぎり存在を試されたことがかってあったのかな。ない。ないならそれは単なる空証文にすぎない。遠吠えだよ。
 戦争?知りませんなあ。だからそうならないように諸国民の公正と信義を信頼して戦争を放棄したんです。もしもの場合はアメリカ兵が代わりに血を流して戦争してくれるんじゃないでしょうか。私達はのびのびと平和的研究にいそしみます。え?どこかおかしいですか? そう言っているのと同じに聞こえるが。

時間がないので最後の中国と韓国はノーベル賞は出ないの件。韓国は可能性あるね。朝鮮日報をときどき覗くが、日本の基礎研究の厚みを羨み、韓国の実利研究重視を反省する声が多い。この己を客観視する姿勢は貴重だ。いずれ近々出るのではないか。中国は今の独裁単相国家が続く限り貴説に賛成だね。

面白そうな話で・・・・逸徳

日本の科学史をどうとらえるかという、ある意味マイナーな話題に集中するとは、さすがみなさん理学部出身。 で、基本的問題。大学が国家目標に超然としていられるかというお師匠の意見ですが、確かにそれはなかなか困難だし、国家目標に超然としなかったからこそ、今まではいろんな問題がおこったのだと思う。そこで、歴史の反省の上にたって、ある意味学問的理性に信頼をおいて(ということばはややむなしいが)打ち出されたのが、憲法23条の「学問の自由」だろう。この条項の裏には滝川事件や、美濃部の天皇機関説などの歴史があったという。また、このような条項は海外では少数派だと聞いたことがある。だから、願望としていえば大学は国家目標に超然としていてほしいし、ある意味ひとつの社会的安全装置あるいは保険として近代国家は、大学にそういう自由を認めてきたのではないのだろうか。 だから「超然としている」のは重々困難ではあるが、だからといって「いられるか」と居直ってもらっても困るのである。なんか、美人がすっぴんで出てきて、くさい屁をひったのをみるような気分。
 西欧科学をアジアでは、きわめてはやくとりこむことができたのは、江戸時代までの日本が、文化的に相当高度なレベルまでいっていたという話がある。 イギリスの外交官が幕末の江戸で、町の本屋で職人が本の立ち読みをしているのを見て、驚嘆したというエピソードがある。当時のイギリスでは下層階級での識字率は極めて低く、おそらく当時としては日本は世界有数の高識字率だったらしい。 もうひとつ余談。幕末の江戸を舞台にしたテレビドラマ「仁」で、コレラ治療のための点滴用の注射針を江戸の職人がつくってしまうという場面が出てきた。 これはドラマの上の話なのだが、時代考証が行われていて、それを可能にする技術は日本にすでにあったというのである。面白い。日本の職人的技術は、一点に集中するとそれがどーんと掘り下げられて、神業にまでなってなってしまう。なかなか横に広がらず、産業として規模が拡大しないのである。
 ただし、ではなぜ西欧のような自然科学が日本に成長しなかったか。ひとつには、キリスト教の影響を指摘する意見がある。つまり一神教の精神風土は、基本原則を追求する自然科学の発展の思考のパターンによくあうというのだ。これもわかる気がする。面白いので勉強中。
 で、開国により西欧の科学技術のレベルに驚愕した日本人は、必死でそれにおいつこうとした。そのために、つまりは近代日本の科学技術史はその出発点からして、きわめて実用主義的な側面を持つことになる。プラグマティズムである。それに対して西欧では、技術は科学より一段下とみられていた傾向がある。だから世界最初の工学部が東大におかれたのは有名な話だ。 だがこのプラグマティズム的性格は一面で思想的な弱さを持っていた。 社会的要請に弱いのだ。役にたつのがつまりは存在理由を証明するというのだから。つまりは国家目標に超然としているなんて強さがあまりないのである。 超然としていたくったって、かわりによりかかる柱がなかなか見つからなかったのだろう。・・・・ したがって、突然飛躍するが、当分は中国や韓国からはノーベル賞は出ないという気がするのだが。

2012年10月10日水曜日

RE:ノーベル賞・・・褌子

石井部隊は話がつい、それた。ノーベル賞とは何の関係もない。
戦前と戦後は地続きだ。国の仕組みは変わったが、日本人は昔も今も大して変わっていない。
中国人韓国人からもそのうちノーベル賞受賞者がでてくるだろう。
ブータンからはちょっと当分受賞者がでそうにもない気がするが、国民の幸福度は抜群に高い。
ヨーロッパ発祥のノーベル賞とったとったと国際的権威づけをしてもらって毎回こんなに大喜びするのはひょっとすると日本的というかアジア的現象かもしれない。受賞者本人はいがいと複雑な気持ちかも知れん。

軍事研究・・・猫跨ぎ

 国が戦争をやっていたら大学が軍事研究に加担してゆくのは当たり前だと思うね。良し悪しではない。大学が国家目標に超然とできるだろうか。それはできない。若者を徴兵して戦場に送り出しているときに、大学は学問の世界、平和研究ばかりやります、戦争など関係ありませんということは出来ない。それが嫌なら大学を去るしかない。
だからといって石井部隊とか特殊な例をことさら強調すると大学の医学部は戦前みなそんなことばかりはやっていたような印象になる。
 それから中韓が戦前大変な目にあったからまだノーベル賞はとれないという言い方はどうか。明治維新から北里がノーベル賞第一回にノミネートされるまで34年しか経っていない。中国、韓国はそれぞれ建国60年は経っている。ではいつまで待てばいいのかな。なべて戦前を真っ黒な時代と決めつけ、戦後今に至るまで悪影響を及ぼしているという史観はそろそろいいのではないか。言い過ぎかな。

RE:ノーベル賞・・・褌子

  基礎科学には「見向きもしなかった」とはいってないが、特に昭和になってからの軍事技術偏重は確かだ。
  特に理科系のエリートが軍の技術将校にごっそりなっている。中川先生も海軍中尉で4エチル鉛の研究をしていた。貧乏な家庭から進学できた軍医養成学校もそういう面がある。いまの私立医大には前身が軍医養成学校が多い。日本の内蔵移植技術や血清学などのレベルが戦後高かったのは七三一部隊の生体実験などで腕を磨いた医学者が、戦後、各地の国立医学部にもぐりこんだからだときいたことがあるが真偽のほどは知らない。血友病患者のHIVを引き起こした元ミドリ十字は七三一部隊出身の医学者が戦後つくった会社。七三一部隊の医学的成果は米軍にそっくり継承されて、石井部隊長以下幹部は戦犯訴追をまぬがれた。これは事実。
  話がそれた。
  戦前、ノーベル賞自体が「欧米中心で日本のプレゼンスが低かったことが主因らしい」というのはまったくそのとおりだと思う。市川厚一は知らなかった。有名な人なんだね。
  野口英世がものすごく金にだらしなくて、ずいぶん借金を踏み倒していたときいたことがある。謹厳実直・刻苦勉励型の二宮金次郎的日本人だと思い込んでいたのでこういう話をきくとなんとなく愉快になる。


ちょっと待って・・・猫跨ぎ

  一寸待ってくれ。戦前は軍事技術偏重で基礎科学は見向きもしなかったとはどういう科学史観かね。湯川博士だって戦前の日本の基礎物理学の成果だろう。戦前、ノーベル賞に近かった科学者は沢山いる。医学生理学賞に限っても、北里柴三郎(血清学)、野口英世(梅毒病原体)、鈴木梅太郎(ビタミンB1)、山極勝三郎と市川厚一(人工癌)、稲田龍吉と井戸泰(ワイル病病原体)など。
北里は第一回の受賞の寸前だったことが後日明らかになっている。このころはどうしても欧米中心で日本のプレゼンスが低かったことが主因らしい。市川厚一は当時北大の大学院学生で東大に留学中だったとか。江戸時代にすでに西洋の科学を咀嚼する素地は日本にあって、文明開化のあと繋がったというべきだろう。

ノーベル賞・・・褌子

   中国と韓国のノーベル賞騒ぎ、そんなこともありましたね。
   アジアでは日本人ばかり受賞がつづいているが、やはりいち早く明治維新で近代統一国家形成に成功、西欧列強の植民地化をまぬがれたことが大きい。
   先日、安井算哲(渋川春海)の映画『天地明察』をみたが、江戸の半ばに正確に日食を予言している。明治に欧米の科学技術の輸入ラッシュがあったが、咀嚼し血肉化していく基盤があった。他のアジア諸国は欧米列強の植民地となり、中国も1840年の阿片戦争以来は半植民地状況、辛亥革命後も不安定、さらに日本の侵略をうけ、新中国建国後も文革などで基礎科学に国力をそそぐゆとりがなかったのではないか。ちなみに戦前の日本も軍事技術偏重で1901年ノーベル賞創設以来、湯川博士の受賞まで半世紀ちかく受賞していない。しかし戦後の平和の時代になってはじめて基礎科学に力をいれてから受賞者が輩出した。
   日本は近年、すぐ利益を生まないと基礎科学予算をどんどん削ってきているから順調に受賞者が輩出するかどうか。いずれ中韓、あるいはインドなどからノーベル賞受賞者がでてくるのではないだろうか。世界の頭脳がアメリカに集中するという現象もいつまでも続くとも思われない。
   文学賞と平和賞は不思議なところがある。なぜ川端康成と大江健三郎なのか、なぜ平和賞が佐藤栄作なのかわからない。科学分野の賞もこれだけ基礎科学が重層化国際化し裾野がかぎりなく広くなってくると、特定個人にだけ授与するのは難しくなる。山中教授もしきりにそのことをいっていた。その謙虚さに好感をもった。

欲しくて欲しくて・・・猫跨ぎ

 そういえば韓国の国辱もののスキャンダルがあったなあ。あの教授は名前も忘れたけれど、若いころ北大の獣医学部に留学していたとか。いまどうしているのやら。
とにかく国をあげてノーベル賞が欲しい。中国もそれ以上だろう。
 数学のフィールズ賞をめぐっての醜聞を思い出す。「ポアンカレ予想」をロシアのペリレマンがついに解いて世界を驚かせたときのこと。数年前の話だが、
ハーバード大学教授である中国籍のヤウは、中国政府に国立の数学研究所をつくらせ、中国数学会の学会誌を創刊して編集長になり、そこに自分の弟子がペリレマンの証明を丸写しした論文を(査読もすっ飛ばして)「ポアンカレ予想の最初の証明」と題して載せ、フィールズ賞を共同受賞させようと画策したという。ペリレマンが姿を消したのは、こんな不正のまかり通る数学界に嫌気がさしたという説もあるとか。インチキしても中国は数学でも世界のトップであると言いたいらしい。この恥知らずな根性は何処から出て来るのか。研究のオリジナリティとは真逆な精神構造だ。

しかし、山中教授にしても、鈴木、根岸両氏にしても、アメリカ留学中に研究の萌芽を見出している。根っからの日本の土壌からの成果ではない。若手に下働きをさせる今の研究環境は大いに反省すべきだろう。韓国、中国にしても大量の留学生をアメリカに送り込んでいる。超優秀な研究者も多いらしい。いずれ受賞者が出てくるのだろう。

2012年10月9日火曜日

ノーベル賞受賞に思うこと…国兼


  山中教授がノーベル賞をもらったことで日本の新聞やテレビで大きく取り上げられている。サイエンスの世界でのこの活躍は我々にとっても大いなる誇りでもある。でも、お隣の国は、またも日本にしてやられたと歯ぎしりしていることだろう。

 思い出すのは、韓国のソウル大学の教授が新しいドリーを作ったという10年ほど前のニュースを思い出す。韓国初のノーベル賞候補ということで韓国政府も大々的に資金を導入し、国民の熱い期待を担っていた。しかし、世界での追試試験で再現せず、やがて内部告発でデータが捏造されていたことが判明し、韓国のサイエンスに対する世界の評価が失墜してしまった。竹島に大統領が上陸した何ていうことをしても世界は何も感動しない。失墜し、面目丸つぶれの韓国のサイエンスの世界を立て直すことこそ重要であろう。
 また、数年前の中国初のノーベル平和賞での出来事を思い出す。この平和賞は中国に対する内政干渉だ…云々とか言って、軟禁状態の本人の授賞式出席を拒否する。更に、この平和賞を決定したノルウエーに変更を迫り、言うこと聞かないと貿易上の嫌がらせをする。およそ大国らしさというよりも、小国的な国権の発動で、これも世界の失笑を買ったことだろう。尖閣云々、南シナ海云々とダンビラを抜く前に世界が認めるスタンダードの世界で国威を発揮してほしいものだ。

 無人島的島をアレコレ国家のメンツをかけて、頭をカッカして争う時代ではないのではと・・・。むしろ人類にとって有益な役に立つサイエンスの場での日本、韓国、中国が競い合うことこそ増え続けるこのホモサピエンスの未来がかかっているのではと、そのような時代が早く来てほしいものである。


2012年10月8日月曜日

青春の蹉跌と倦怠・・・褌子

「俳句の向こうに昭和が見える」読んでみたくなった。
・春ひとり槍投げて槍に歩み寄る   能村登四郎
この句はいいね。青春のアンニュイがある。
・三島忌の帽子の中のうどんかな
工場つとめのころ食堂で昼飯を食っているときテレビが三島の割腹自殺を報じた。何が起きたのかわからん妙な顔をしてみんなテレビをみていたが、切腹、介錯斬首ときいて血の海をおもって嫌な感じがした。盾の会の制服姿で市ヶ谷の防衛庁のバルコニーからの演説姿が印象に残る。
 三島由紀夫は非常な天才的才能の持ち主だったらしい。私は子供の頃どもったので悩んでいた。高校生のころ吃音僧が放火する『金閣寺』を読んでみたがわからなかった。中年になって『仮面の告白』を読んだがさっぱり面白くなかった。美少年を大きな真っ白い蜘蛛が搦め捕る妄想場面には辟易したものだ。
   いま、加賀乙彦『帰らざる夏』を読んでいる。敗戦による陸軍幼年学校の崩壊のはなし。面白い。

「俳句の向こうに昭和が見える」・・・猫跨ぎ

  仁ちゃんのこの前の投稿に坪内稔典著『俳句の向こうに昭和が見える』の話があったので読んでみた。結社誌のコラムの題材にさせてもらったのでお礼を兼ねて紹介させて貰う。ちょっと昭和を振り返ってみた。

坪内稔典著『俳句の向こうに昭和が見える』(教育評論社・本年六月刊)を読んだ。筆者は稔典氏とほぼ同年で、見てきた昭和の風景も同じである。同書に取り上げられた昭和(戦後)を象徴すると思われる幾つかの俳句を見ながら記憶を辿ることにする。

・安保通る西日に凶器めく人影   原子公平
昭和三十五年六月、日米新安保条約が成立した。テレビはまだ普及せず専ら新聞により国会周辺から全国に広がった反対デモ、樺美智子さんの圧死、ハガチー事件などを知ったが、四国の田舎の高校生稔典氏同様、北海道の高校生の筆者には遠い世界の話だった。掲句の「凶器めく人影」は同年十月の浅沼稲次郎暗殺事件を暗喩しているのだろう。戦前の匂いをただよわす岸信介は退陣し、忍耐と寛容の池田勇人が後を継いだ。愛想笑いの池田以降、稔典氏の言うように世論受けを常に考える政権運営が始まったように思う。池田といえば所得倍増政策であるが、好日十月号の「好日回顧」に〈陽炎旺ん農に倍増見込みなし 秋光〉(昭和三十六年五月号より主宰選)とあるように前主宰は早速噛みついている。
・春ひとり槍投げて槍に歩み寄る   能村登四郎
奇しくも槍投げをやっていた下宿仲間が近くのグランドで同じようにひとりで練習していたのを思い出す。誰にも迷惑を掛けず邪魔にもされず黙々と青春の真只中にいるという姿だった。自分も恐らくそんな気分の中にいたのだと思う。
・三島忌の帽子の中のうどんかな   摂津幸彦
三島由起夫の割腹事件はよく覚えている。昭和四十五年十一月二十五日。知ったのは仕事を終えてE・マシアスのコンサートへむかう途中だった。特に愛読者ではなかったが大きな衝撃と喪失感に呆然となった。開演を待つとき会場の後ろの席から「あいつは右翼だからなあ」という訳知りの声が聞こえて無性に腹立たしかったことを思い出す。事の経緯と血腥い現場の詳細が後日報道された。「帽子の中のうどん」など誰も食べる気は起こらない。気味の悪さと生理的に受け付けない戦後二十五年を経た時代の気持ちを表現している。
・青嵐神社があったので拝む   池田澄子
神社にさほど信仰があるわけでもない。見たところ珍しい社でもなさそうだ。目に入ったからちょっと手を合わせるくらいはいいかという軽さ。かといって季語の青嵐に格別重きを置いて詠っているわけでもない。要するに中身のない空っぽの一句である。しかし昭和の自由にして実態の希薄な、時代の空気を的確に掬い取っていると言えるのではないか。そして独特のニヒリズムの匂いも明らかに時代のものだ。
・三月の甘納豆のうふふふふ   坪内稔典   
稔典氏といえば甘納豆句が有名である。実はこれは十二ヵ月の連作のひとつである。
・一月の甘納豆はやせてます
・二月には甘納豆と坂下る
・四月には死んだまねする甘納豆   と十二月まで続く。その十二月は、
・十二月どうするどうする甘納豆
「作者の思い、意図は聞かないで下さい。読者がどのように読むか、それが大事なのです」という。私の読後感は、これは中味のない空っぽの極致であり、何故かひたすら恥ずかしい。恥ずかしいという気持は、心ならずもこの時代と同棲してしまった後ろめたさなのかも知れない。という結語も恥ずかしい。

成熟社会?・・・褌子

   うちの近くの河童池にカワセミがいるというので朝早く、でかけた。
   なんとおじさん達が六人も三脚に大きな望遠レンズの高級カメラを並べて、池の中に立っている数本の杭にカワセミが留まる瞬間を待っている。こっちも20分くらい待ったがカワセミがたまに飛び交うだけで杭には留まらない。あきらめて一時間くらい周辺を散歩し、おにぎりを食べながら、ふと池をみると朝日がきらきらと反射している。その前面をカモが横切っていく波にも朝日があたって美しい。逆光であるが思わずシャッターをきった。↑の写真。女房が、ここではい一句と言うがそれがでてこない…
   ふたたび池を一周しながら栗を一升ちかくも拾った。またカワセミの撮影ポイントにいくとカメラおじさん達がまだレンズ自慢などしながらカワセミが杭にとまる瞬間を根気よく待っている。ひまなんだなあ。池のあっちこっちには鯉を釣るおじさんたちが何人も無心に釣り糸を垂れている。だいたい自分くらいの年頃か。とにかくみんな幸せそうでヒマだけもてあましてるんだね。震災も原発事故も遠い昔のことのよう。不思議に女性はだれもいなかった。
   

2012年10月7日日曜日

中国青年のメール紹介・・・・褌子

   二年間の日本留学をおえて上海に帰ったばかりの女性とメールのやりとりをしているが、本人の了解も得て転載してみる。「中国大使館に催涙弾」と中国テレビが報じたと書いている。中国ではこんなデマが出回っているのか。私がいぜん上海旅行したときに通訳してくれた。日本の大学院に留学して「中国少数民族トン族婦人の生活調査」という研究テーマで貴州省に調査で帰国中に、東日本大震災がおこり、上海の友達から10万円の義援金を集めてきてびっくりしたことがある。
■□■□■  おじさん 私はとても元気です。心配しないてください。 領土問題は最近確かにもめっていますが、おじさんが言った暴力事件は今月からもないです。国民の大部分は理性で、そのような暴力事件はただ少数のグループの人によって行われました。中国政府は先月からはっきりテレビで声明して、このような暴力事件がぜったい止めってください。国民の皆はぜったい理性的に領土問題を直面してください。さらに、暴力の人も逮捕されました。中国のテレビでは、日本での中国の大使館が催涙弾を投入されたと報道しました。私とおじさん同じに心配しています。私は平和の世界が欲しいです。国民と国民であろう、国と国であろう、永遠に仲良く付き合うことを期待しています。その希望は永遠に変わらないです。私はもちろん 日本と中国がいつまでも平和で仲のいい隣人であるように両国民の永遠の幸福の ためにがんばります。私はおじさん、アパートのおばちゃん・おじさん、私の日本の友たち皆、大好きです。おじさんは正直な人で私はすごく感心しています。これから、おじさんと一緒にお互いに日中友好のみならず、世界平和のために、お互いに頑張りましょう

2012年10月6日土曜日

栗拾い・・・・褌子

   本当に涼しくなりましたね。庭のキンモクセイも花を咲かせ芳香をまきちらしています。
   市原市五井と養老渓谷を結ぶ小湊線の里見駅ちかくの線路ばたにクリがたくさん落ちているというので、拾いにでかけました。10時のデーゼルカーが通るまでの30分ちょっとで一升くらい拾いました。近所のおじさんがやってきて「クリ拾うのはかまわんが、線路に栗のイガを置くと、車輪がイガの油で滑るんだ」と、わざわざ竹箒で掃いてくれました。親切だね。
  線路脇はいまは曼珠沙華が咲いているだけですが、春は一面、菜の花になるのでカメラマンが大勢やってきます。10時に二両の赤いデーゼルカーがやってきて、運転手も車掌さんもうら若い女性でにっこりと手をふってくれました。
  帰るとテレビでは上高地の紅葉をやっていました。6月に野麦峠の歴史探訪に行った帰りに上高地によりました。新緑のなかを大勢の観光客が散策していましたが、ほとんど中国人だと知って驚いたことを思い出しました。千葉の大学に二年間留学して先日、上海に帰ったばかりの女性からメールがきて、日本車を焼き討ちしたり、日本料理店に投石したりすることは中国の恥だという世論がインターネット上でけっこう飛び交うようになってきた。もうあんなひどい暴力騒ぎにならねばいいんだけどと願うばかり。暴力行為をおこさない日本の青年はえらいですね!という内容でした。
―――――
  ひと昔前には日本でも荒れ狂っていたのだが…。東京官邸前の反原発デモは三回参加してみたが、家族連れ、恋人連れで大勢来ていたからじつに平和的。非暴力・シンプル・持続性がモットーだという。
  仁ちゃんの函館の目と鼻のさきの大間原発建設再開反対の声も官邸前でも大きくなっている。このような流れが日本をすこしづつ変えていくかもしれない。
   

2012年10月4日木曜日

いい人とは・・・猫跨ぎ

  庶民レベルでは皆いい人だとは中、韓、日に限らない当たり前の話ではないか。ロシア人も人の良さ丸出しが多い。イスラエル人だってアラブ人だって個人的にいい人が多いんだろう。しかし底知れぬ殺し合いを果てしなく続けるのが人間社会の複雑なところではないか。だからそういうレベルの話と外交とは残念ながら別だ。嘘も百回つけば本当になる。中国はアメリカの有名なコラムニストを丸め込んでいる。それが自然にアメリカ世論になり国連の常識になる。そういう作戦に出ているから、庶民レベルの交流に期待する時期ではない。ねばり強い外交対話は勿論だが、今の情況に会わせることも必要だ。  共産党の主張は前から読んでいるが、正論だと思う。それを国際世論に繰り返し言うべき時期なんだろう、今は。胡錦涛が待ってくれと言ったのを野田が聞かなかったというのは、野田の失敗と責める人がいるが、都から取り上げて国有化することでむしろ事態の沈静化を図ったのではないかと私は思うね。全くボタンを掛け違えてしまった。掛け違えさせたのは外務省の認識の浅さだ。勿論、事の原因は都知事の愚かなスタンドプレーにあることは言うまでもない。

若干の訂正・・褌子

   先日私が書いた清国の漁船が尖閣に漂着し、送り返したら清から日本政府に感謝状がきた。日清戦争のまえのはなしというのは間違いなので訂正する。
   正しくは、1919年(大正8年)に福建省の漁船が遭難したときに当時の中華民国長崎駐在領事から日本政府に届けられた感謝状。1912年に孫文らによる辛亥革命で清は倒れ中華民国となっていた。中国側が尖閣諸島を中国領土と考えていなかった何よりの証拠で、日本共産党が赤旗に2年前に紹介し反響を呼んだ。中国側からの感謝状には「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣諸島」と明記されている。1895年(明治28年)に日本がどの国の支配もおよんでいない「無主の地」を領有の意志をもって「先占」して日本領土に編入してから、1970年までのじつに75年間、中国は一度も異議も抗議もしていないことだ。これが中国側主張の最大の弱点。
   明治27年の日清戦争後の28年4月の下関条約で、日本が尖閣を奪い取ったと中国は先日国連でいきなり演説したが、下関条約で日本は遼東半島・台湾・澎湖諸島を割譲させたが尖閣諸島のことはこの条約にはまったくふれられていない。
   日中のあいだに「領土問題は存在しない」などと中国と外交的対話を拒否していながら、(胡錦涛が野田に国有化はやらないでくれと言ったばかりの二日後に)都知事の挑発に乗ってあわてて国有化したらこの騒ぎになった。
   国兼さんがいうようにねばり強く何十年かけても外交交渉で解決するしかない。それが日中両国民のいちばんの利益になる。
   隣国とは庶民同士でなかよくつきあいたいね。私は「ちば中国帰国者支援交流の会」の事務局長やっている関係で、いろいろな中国人ともつきあっているが、知る限りでは実にいい人たちばかりだね。韓国人ともソウルで酒も飲んだし、親しい在日のひともいる。みんな苦労しているから立派な人が多いなあと私は日ごろ思っている。まあ日本人も中国人も韓国人も好いひともいれば嫌なひともいるということだ。人間の喜怒哀楽などというものは昔も今も、またどこの国にいっても大して変わらないのではなかろうか。そんな気がしている。

RE:西域夢物語・・・褌子

   国兼さんの西域夢物語をしんみり読みましたよ。
   ・・・じつをいうと小生も八月末に京都の山奥の火祭をみにいったときに、嵐山界隈を炎天下歩きすぎて汗だくになり、以来体調がよくないので一ヶ月も朝の散歩をさぼった。逸徳さんとの温泉三昧で元気になったばかり。
   そのまえに体のゆらゆら感がありCTをとったが医者はなんでもありませんという。それでMRIをけちっているが、国兼発言でまたMRIやるべきか迷いがでてきた。西域夢物語を拝読してひょっとしたら、こちとらも脳梗塞の前兆現象では?などと内心うたがっている。氏の外国旅行中止も賢明だね。タバコはやめる酒はゆっくり味わって飲むべしだ。
   ほろほろ会の旅行では、ゆっくり温泉にはいり、血液をさらさらにする良質のタンパク質を肴に、いい酒をちびりちびり味はい早寝早起きしましょう。
   (わがやでは年中、亭主をおいて山などにいっている女房が先日、山梨の低い山で足がつって山道で倒れ込んでしまった。よそのグループの女性からもらった岩塩と大量の水を飲んでやっと歩けるようになったばかり)
   国兼さんが紹介する伊丹万作のことばは、「敗戦後、軍部にだまされた、だまされたと一億こぞって騒いでいるが、だまされたという戦争責任もあるのだ…」という趣旨だったとおもう。伊丹万作「戦争責任者の問題」をインターネットで検索するとでてくる。敗戦の翌年に書いていることに驚く。長い文章であるが気に入ったさわりを抜き書きすると、
   ―――――「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。
   ―――――
   夢のエネルギー原発にだまされ、一番公平な税金だと消費税にだまされ、規制緩和・民活にだまされ、オスプレイ安保繁栄論にだまされ、こんどはTPPにだまされ…とか。小泉旋風にだまされ民主マニフェストにだまされ、いまも隣国をシナ人・第三国人とよぶ都知事の日本人優越論にだまされ、またまた大阪橋下維新にだまされ…などと勝手きままに読むと面白い。それにしても「中国やっつけろ!」「軍事力最新比較。自衛隊が中国軍圧倒」などという週刊誌広告は日本車焼き討ちの中国暴力青年と同レベル。暴支よう懲・天にかわりて不義を討つ・・・ 『母べえ』という山田洋次の映画を思い出した。おれたちが生まれた頃のつい先日のはなしだ

2012年10月3日水曜日

驚いたよ、お大事に・・・猫跨ぎ

  ちょっと只ならぬ知らせだねえ。驚きましたよ。そこそこ大きい跡が見つかったとは。MRI検査は最近よく聞く。ついこの前の句会で句材にもなったり。先日褌子氏が受けて無罪放免だったように記憶する。いつの間にか我々も身近になったんだなあ。
 しかし酒、煙草を半分にしたとはいささかユルイ。優等生とは言えないのではないか。酒はともかくタバコは完全禁煙すべきじゃないかい。煙草はほかに膀胱癌の主要因でもある。前の会社の知人がヘビースモーカーだったが、これが見つかり、治療中。煙草は完全に止めた。跡を引かなくて幸いだった。何はともあれ、お大事に。

西域夢物語…国兼

本来なら今頃から9月22日から十日間の敦煌、ウイグル等のシルクロードの旅を思い出しながら、井上靖の「西域物語」を見習った新西域物語的旅日記を書き始めていたはずである。
 所が、9月の5日ごろから何故か言葉が素直に出てこなくなった(俗にいう、ろれつが回らなくなるという)。おかしいなと思って物置から血圧計を探して測ってみたところ、収縮期が180を超えていた。6月の年1回の高齢者健康診断の際には140台であったのに・・・。思い当たることもあって(今年2番目の熱暑日だった8月30日にボランティアでお年寄りの家の草取りを2時間汗だくでやったことである)、お医者に行ってMRIを調べてもらった所、ごく最近発生した脳梗塞の跡があると写真を見せられた。古い小さな薄暗い痕跡と共に、明るい大きな痕跡が見えた。この状態では気圧変化の大きい海外旅行は止めた方が無難です・・・といわれ、ちょうど尖閣問題も大きく浮上し、カミさんも中国旅行に嫌気がさしたようで20%ペナルティーを払って中止にしてしまった。楽しみにしていた西安の兵馬俑、敦煌の莫高窟の仏像やタクラマカン砂漠の裾を走る夜行列車の旅等々もみな夢物語になってしまった。残念としか言いようがない。目下、朝には高血圧と血液サラサラの薬を飲み、朝夕2回の血圧測定と、更に酒とたばこも半分以下に抑え、夜も10時前後には寝るという、実に優等生的生活を送る羽目になってしまった。
 以前、70過ぎたら気ままに、思うように生きようと書いたことがるが、己の劣化モードを目のあたりにすると、不思議なものでもう少し元気な身体でいたいものだと、彼の岸に逝くのはまだ早すぎるのではと欲が出てくる。お釈迦様の言う「我執」とでもいうのかね?これは?

 話変わって、尖閣に関して思うこと。何なのだろうか、この異常な雰囲気は。「実効支配」をし続け、中国船が来たら少しずつ日本の法律にとっとり厳しく法の下で裁いていくという、50年、100年のスパンで発想して欲しいものだ。それを都が買うとか言うおかしな人間のアジテータに揺さぶられて「国有化宣言」、「ヤッタぜベィビー」とほくそえんでいる人間も中に入ることだろう。週刊誌等も昔の清朝時代のイメージから脱却できないのか、「中国何て・・」、「毅然たる行動」をなんていう論調の愚かな事をアレコレと書き立てて煽っている。
 かって、柳条湖事件で中国の力を侮り、泥沼に入りこみ、やがては「中国相手にせず」なんていう向こう見ずの愚かな発言をし、トドノツマリは鬼畜米英と絶叫してアメリカと戦かった歴史を思い出す。戦後「私は騙されていた」という同国人に対し「騙された人間も同罪である」と、伊丹万作は述べていたようだが、同じ歴史の繰り返しをしてはいけない。

The Eleven- Headed Kannon sculptures of the 0mi region ・・ Konshi

  この↓ブログを愛読していると称する女性から、日本橋の三井記念美術館で「琵琶湖をめぐる近江路の神と仏・名宝展」やっているわよ知ってる?、との電話が入った。
  向源寺の十一面観世音菩薩様は地元の保存会の抵抗でもう門外不出みたいだが、他の十一面観音様がはるばる東方に出向いて来ていらっしゃるにちがいないと早速拝観にでかけた。
 JR新日本橋駅からしばらく歩いて三井本館となり八階の重厚な美術館に入る。1200円の入館料が古稀なので900円である。ありがたいようなうれしくないような妙な気持ち。
 薄暗い照明のなかに延暦寺、三井寺はじめ百済寺、西明寺、金剛輪寺の湖東三山などの仏様が鎮座ましましている。
 十一面観音立像は長福寺、飯道寺、円満寺、櫟野寺のいずれも湖南の古刹の四躯があった。飯道寺の観音様は井上靖『星と祭』にもでてくるが御対面ははじめて。飯道寺いがいの観音様は、S字状にわずかに腰をくねらせている。かつて國兼さんが向源寺の観音様に艶殺というか悩殺されてしまったあの御腰の妖しげなカーブである。
   が、私はむしろ快慶作の石山寺大日如来座像などの薄目をあけたarchaic smileというか、ほのかに口許にただよう微笑に感じて釘づけになってしまった。孔子様がいう、七十にして心の欲するところに従って矩を喩えずの心境といえようか…
   先日の蟹場温泉の森閑とした露天風呂でご一緒した逸徳さんの場合などはどうだろうか。

単相国家・・・猫跨ぎ

  外交はある意味で握手をしながらテーブルの下では本音の小競り合いをやっている世界だ。日中の間でそのテーブルクロスが外れてまる見えになって、その上握手の手も振り払ってしまったのが今回の事態だろう。どこかで冷静になる事態を待つしかないが、国連の場でドロボー呼ばわりの連呼を聞くと、彼等自身がどこに落とし所を見ようとしているのか皆目分からない。
  当分無理だね。経済や人の動きがグローバル化しもう国境はなくなると一方では言いながら、寸土を巡ってこれだけの大騒ぎになる。色々な分野のものの考え方が既成概念を打ち破る方向にどんどん進んでいるのに、近代国家の版図の概念が一周おくれか二周おくれかで全く昔のままだ。それが大国の中国周辺に集まっているのも困ったものだ。中露だっていつ火が噴くか判らない。ダマンスキー島は懐かしい。確か中国名は珍宝島とか結構な名前だった。今隣国はロシアではないが、ウィグル自治区自体がイスラムの勃興と絡めていつどうなるか。中印国境も今は休戦状態のはず。チベット情勢次第でどうなるか。中国にしてみればどこもそこも居丈高になるしかないということなんだろう。おとなしくしていたら崩壊する。
  しかし、文化交流も一方的に遮断するとはなあ。北京では日本の新聞雑誌はみな没収らしい。あのデモも政府の禁止命令でパタと止んでしまった。実に怖ろしい。こういう単相の視点しか許容しないものの考え方。結局、国内的には強大な治安警察、対外的には軍拡に走って実力で押しまくるという単純な発想しかなりえない。周恩来の深沈とした眼差しが懐かしい。(因みに大江健三郎らは、日清、日露戦争が原因だ。まず日本があやまれと緊急アピールを発表した。デモもするらしい。相変わらずだな。しかし当局の弾圧など起こりようもない。)

2012年10月1日月曜日

観音様、石塔寺など・・・褌子

   渡岸寺(向源寺)の十一面観世音菩薩はよかった。猫跨ぎさんに紹介された井上靖『星と祭』に刺激されて石道寺や鶏足寺、医王寺などの十一面観音もみてまわった。福井の小浜ちかくの羽賀寺にもみにいったことがある。
  湖東の古寺詣で一番感動したのは石塔寺。小さな寺だった。夕方蝉時雨のなかを石段を登ってゆくと石塔があった。韓国の安東、慶州、扶余などでみた石塔とそっくり。渡来人たちが望郷の念にかられて建立したにちがいないと思った。
  司馬遼太郎『韓国(からくに)紀行』のなかにもでてくるが、人びとは韓半島と日本列島をいったり来たりして、さらに北からも南からもやってきて混血を重ねて日本人の祖型がだんだんできあがった。
  近代統一国家の形成でめんどうな領土概念がはじめてでてきた。たかだか百数十年かそこらのはなしだ。
  吉村昭『間宮林蔵』を読んでいておやおやと思ったのは、李氏朝鮮は鬱陵島のことを竹島と呼んでいた。鬱陵島は良質の竹がたくさんとれたので竹島と呼んだのだ。だからいま争っているずっと東の竹島は李朝は全然関心がなかったというか漂流漁民以外知らなかったようだ。1905年に日本は竹島を島根県に編入した。その5年後に朝鮮全体を植民地にしてしまい李朝は滅亡する。韓国は竹島編入は植民地化の一環だと主張しているがやはり無理がある。(もっとも日本海という呼称は李氏朝鮮の地図では東海とか朝鮮海となっている)
  清国は沿海州を「実効支配」していた。『間宮林蔵』によれば樺太の小数民族も清国人に獣皮を売って生計をたてていたのだから1689年のネルチンスク条約以降も樺太もずっと清の勢力圏にあったことになる。が、清国が衰えロシア帝国が沿海州、サハリン、カムチャッカ、千島列島にも進出してきた。明治8年、日露両帝国が平和的に樺太千島交換条約を結んだ。この原点にかえれば千島列島はすべて日本領土である。ちなみにダマンスキー島で武力衝突もした中露は近年外交で話し合っていまは領土問題は全くない。  
  尖閣に漂着した清国の漁船を手厚くもてなして明治政府が送還したら、清国から感謝状が届いていまも残っている。日清戦争のまえのはなしだ。しかし尖閣は中国領だと主張する以上、日中両国には領土問題があるのである。だから理をつくして話し合うしかない。それが外交というものだ。領土問題はないから話し合わないという民主党政権は自縄自縛におちいっている。
  地球人口は爆発的に増えているが、陸も海も資源も有限だとわかってから、ややこしくなってきた。

十一面観音さん・・・猫跨ぎ

 しばらく湖東の十一面観音さんにご無沙汰だけれど、併せて思い出すのは、この像を守るために当時の農民がとった行動のことだ。向源寺の境内にある土盛り。周りを標縄で囲ってある。兵火を避けるために、穴を掘って像を埋めたその穴の跡だという。他に川に横たえて隠したという像もあって、腕が失われて全体に損壊のあとが著しいが今でも大事に保存されている。この農民の必死の行動は、当時信仰が内発的なものに成熟していた証左だろう。そういう思いの対象であればこそ、今も深沈とした内面性を示すものとして我々のまえにあるのだと思う。今年は冬にでも再会したいものだ。

2012年9月30日日曜日

大倉集古館・・・褌子

   きのう、大倉集古館にいった。大倉喜八郎は大成建設、サッポロビール、富士銀行などを創業した越後新発田出身の財界人。戊辰戦争、日清・日露戦争でのしあがったので死の商人ともいわれたが、東京経済大学や大倉集古館の設立もした文人の側面もある。アメリカ大使館そばのホテルオークラの前庭にたつ大倉集古館は、西安や洛陽あたりにあるような不思議な建物。
   一階は国宝古今和歌集20巻の巻子本の展示でにぎわっていたが、私はもっぱら二階や建物周辺の古代中国の春秋戦国時代の遺物や北魏の古拙な仏像、高句麗の石塔などにみとれた。王義之などの書画、杜甫や王維の漢詩を日本の江戸期の文人たちがきそって書いた掛け軸もおおい。
    中国文明は朝鮮半島を経由して日本にはいり成熟した。いぜん韓国慶州でみた石仏の十一面観音と滋賀近江の観音様とはそっくりだが成熟さがまるでちがう。一衣帯水の東アジア大陸と日本列島の文物の悠久の交流をおもう。
   明治維新でいちはやくなりあがった近代日本の中国侵略、朝鮮植民地化も、ごく最近数十年の尖閣・竹島のこぜりあいも遠い昔のことのように忘れてしまうかのようなひとときを大倉集古館で過ごした。

2012年9月28日金曜日

お疲れ様・・・猫跨ぎ

  なかなか楽しい秋田旅行をしてきた様で結構でした。ほろほろ企画別バージョンで手に手をとって老いの二人旅も続きそうだね。しかし何かほろりと疲れが感じられるのは気のせいかな。褌子氏に日頃の披露が溜まっているとは、何が起こっているのかと訝ったが、疲労であったか。まあそれも回復したということで結構でした。その温泉は良さそうだね。確か乳頭温泉は日本の三大温泉地とどこかで聞いたことがある。記憶しておこう。
  季節の変わり目が急に訪れて、毎年の事ながらこの時季、体調がよろしくない。喘息持ち共通の現象。しばらくするとけろりとするのだが。
しかし、日韓、日中友好なんて上っ面の言葉遊びのような気がしていたが、その通りになった。お互いに何も理解していないし、行動様式の違いもこの先変わることもあるまい。以前、ソウルに行った折のこと、東大門市場を散策していたら男二人の物凄い喧嘩に遭遇した。真っ赤になって激高している。何が原因かは知らないが、相手の言い分を聞く気などあらばこそ、とにかく自分の主張をまくし立てるだけ。廻りは知らん顔をしている。これが彼等の流儀だ。価値観が先ず前提にある。理屈はそのあとだ。話せば分かるとは日本で通用する言葉だな。中国もまったく同じだ。そういえば、外国で交通事故を起こしたら絶対先に謝るなとよく聞くが、これに類する事だ。すると日本人だけがお人好しか。
  ネットの朝鮮日報を見ていたら、中韓の間で同じ領土紛争が起きかけている。済州島の南150kmにある離於島(岩礁みたいなものらしい)は従来韓国が管轄していたが、中国が急に領有を言い出したらしい。韓国が近くで沈没船引き上げを計画すると、我が領海侵犯だと言いだした。今後中国は「海洋監視船と無人航空機を使って常時監視する体制を築く」という。あれ、何処かで聞いたセリフだ。中国は外洋への出口確保のため、長期的に事を進めている。尖閣もその一環だということがよく分かる。

2012年9月27日木曜日

おひさ・・・・垂れ流しの逸徳です

褌子さんと2泊の旅、よかったです。 日頃の活動で疲労がたまっていた褌子さんが元気をとりもどしたようで、よかったよかった。蟹場温泉はおすすめです。東京から秋田新幹線で、田沢湖で、そこからバスで1時間ですからそれほど遠いわけではありません。 源泉かけ流しを垂れ流しと何度もいいまちがえ、どうも垂れ流しということばには潜在意識的なトラウマがあるようで。 混浴露天風呂ということで、元気を出していた褌子さん、「女性専用入浴時間」が設定されていますと聞いたとたん、顔面に一瞬の失望のかげが。 おいおい、あなた何を考えていたんだ。 もしかしておいらと同じことだろうか。 だとすると相当すけべいだなあ。 まあ自明のことだが。 しかし、この露天風呂すばらしい環境。あたりに人家一切ない国有林のなかの沢のそばにあり、蒼空をながれる雲をあおぎながら、緑の木々と鳥の声をききつつ、天地と融合共鳴できる。なにもいらない。なにもたさない。 まあいつ死んでもいい・・・そういう感じになる。 

で「生もろこし」である。 あれはもともと「もろもろの菓子をこしている味の菓子」というだじゃれで、決して生のとうもろこしではないのはわかりきっているのだが、おいらのユーモアは理解されなかった。 残念。

しかしこういう旅はいい。今度は奥さんとどうぞなんていわれたが、冗談ではない。非日常の世界に没入して傷ついた自我を修復しているというのに。 なんでそんな現実的なことを。

わらび座と蟹場温泉・・・ 褌子

   長いことご無沙汰している。
  きのう逸徳さんとの二泊三日の秋田旅行から帰ってきたら、また元気がでてきた。
  9月の残暑続きですっかり夏負けしてしまったらしい。三日ルスにしたら、庭にはシロバナの彼岸花がにょきにょき伸びていた(写真)。
―――――
  来月には、ほろほろ会で遠野にいくので「遠野物語」をぱらぱらと読んでみた。長々とつづく話にやや倦いていたら田沢湖ちかくの「わらび座」で「遠野物語」をやるというので逸徳さんに同行させてもらったのである。
  角館で集合し、バスで田沢湖近くのわらび座経営のホテルに入る。
  ゆっくり風呂にはいって六種類の地ビールを飲んだ。翌朝、民俗芸術研究所を訪ねたあと、わらび座劇場で「遠野物語」を鑑賞。わらび座を北大体育館ではじめてみたのは三年生のときだったか、あのときの感動がよみがえってきたおもい。もっとも演劇に造詣がふかい逸徳さんは、いろいろ意見を感想文に書いたりわらび座にいる教え子にアドバイスしたりしていたようだが。
  逸徳さんが井上ひさし『新釈遠野物語』をもってきているので借用して読み始めたらめっぽう面白い。
  角館にもどり武家屋敷など見学する。土産物店で「生もろこし」をどうぞと秋田美人の売り子さんが呼びこんでいる。「生のトウモロコシは甘みがあって旨いんだ」と逸徳氏がしたり顔で解説したが、売り子嬢が爪楊枝で口に入れてくれたのは意外にも小豆のさっぱりした落雁みたいな羊羹だったので大笑い。
  バスで深い山の中の乳頭温泉郷に入っていく。いちばん奥の蟹場温泉に泊まった。小雨のブナ林を傘をさして露天風呂に入りに行った。「温泉タレ流しの混浴なんだ」と逸徳さんがしきりに宣伝するので遠野物語の狐狸でも湯につかっているかと思ったが、誰も入っていない。夕闇迫るうっそうとした緑のなかで逸徳さんのカモシカのような裸を鑑賞しながら温泉掛け流しの湯につかった。翌朝も散歩のあと足湯、木風呂、岩風呂などを堪能したら夏負けがふきとんだのだから効能あらたか。本当にいい湯、いい旅でした。さそっていただいた逸徳さんありがとう。

2012年9月20日木曜日

そんな隣人だ・補足・・・猫跨ぎ

  元外務省主任分析官で作家の佐藤優氏が尖閣の問題でこんなことを言っていた。中国は資本主義近代国家になる途上にある。一般的にそう言う場合、仮想敵国を必要とするというのである。それが日本であると。歴史に例をとると、チェコではドイツ、フィンランドではロシア、などがその役割をはたした。敵意を燃やす中で国民意識が醸成される、と。そして民主的に指導者を選挙できる体制になってようやくそれは終わると。
反日と独裁政権にたいする反発はセットになっている。取り扱いを誤れば、矛先は今の政権に向けられる。中国側もヒヤヒヤの綱渡りだ。
しかし民主化まであと何年かかるのか。意外に早く今の体制が崩壊するのではないかという観測も多い。

2012年9月18日火曜日

そんな隣人だ・・・猫跨ぎ

  中国の反発の具体的な内容が報道されるようになってきた。予想外だったのは「激しい屈辱感」である。日本の世論も、あの乱暴狼藉、非は日本政府にあるという報道官の言に対し激しい屈辱感を持つ。
  日本の主張は、1885年調査した日本人探検家の申請に基づき1895年に、無人島であることを確認して日本領に編入した。「無主の地」を領有の意思をもって占有する「先占」にあたり、国際法で認められている領土取得のルールである。爾来、1970年頃まで中国は一度も抗議を行っていない。
  一方中国の主張は、古来中国領である、につきる。どんな文献があるのかまったく不明。そして、日清戦争(1894~1895)の後の台湾割譲の際に一緒くたに強奪したのだという理屈だ。下関条約の時には尖閣は日本領になっていたのに、つまり、日本側の細かな先占の議論など歯牙にもかけない。彼等にしてみれば、日本帝国主義膨張期のこと故、細かな議論は意味がないということなのだろう。まことに粗暴な議論だ。
しかし、その調整のために外務省があるのだろうに、どんな話をしているのだろう。何故機能しないのか。しょせん外交とはそんなものか。

100対0、日本には爪の先程の理もないということを中国市民は信じているらしい。そう教えられている。激しい屈辱感ともなろうものだ。
中国の若者は自国の文化大革命を知らないという。何千万の犠牲者を出した自国の歴史を教えられていない。歴史認識が間違っているとこちらには教訓を垂れるが、巨大な偏向教育が行われている。そんな隣人だ。

2012年9月16日日曜日

補足です・・・猫跨ぎ

反日デモの画像を見ていると、暴徒はみな二十代の若者だね。反日教育を教え込まれた世代。愛国無罪だそうだ。中央政府は沖縄線を突破する橋頭堡にするという長期戦略を抱いているらしいからどうなるのか。人民解放軍の少将は、いつでも準備は出来ていると息巻いていた。まさに中国帝国主義を見る思いだ。

拙句にコメント有難うございます。若干補足を。
・この風の名前知りたし秋夕焼
新涼を見越して作ったんだけれど、あてが外れた。まさに熱風だねえ。
・芒原へ猫振り返り振り返り
これはそういう読み取りをされたか。振り返るのは猫。芒原に死にに行く猫なんだけれど。先般死んだわが猫のイメージを重ねた。
・蜩の美(は)しき極みの笑ひかな
蜩の鳴き声は哀調をおびていてもの思いに誘うが、ふとこれは喜びの声ではないかと思った。彼等は子孫存続、繁栄を願って鳴きしきっているわけ。それを笑ひと言ってみた。

2012年9月15日土曜日

函館通信187・・・猫跨ぎ句鑑賞・・・仁兵衛

 相変わらず鋭い秀作有難う御座います。何処から評していったら良いのか迷いますね。   
 
 ・終戦忌柳行李に躓けり・・・柳行李も滅多に見なくなったのに更に其れに躓いたと続けば昭和の夢の世界か。終戦でその時間が切れているのが決まっている。 準特選。
 ・逝く夏や陸橋の下がらんどう ・・・陸橋の下のイメージが私の中ではばらばらでまとまらない。
 ・この風の名前知りたし秋夕焼 ・・・風の名前は熱風ではないのかな。
 ・東洲斎写楽の寄り目葡萄酸し・・・写楽の寄り目と葡萄の酸っぱさを並べるてその滑稽さを楽しめる句だ。
 ・芒原へ猫振り返り振り返り・・・猫振り返りは作者が振り返っているのか猫が振り返るのか両方取れそうだがやはり前者だろう。猫を芒原に埋めて供養は出来ましたか。
 ・蛸のぶつ切り人類は斯く生きて来し ・・・蛸の生を食べるのは限られた人種のようだ。だからこそ生きて来た強さを持てたのかもしれない。取合せが極めて素晴らしく感じた。特選。
 ・花火果て上弦月の下帰る ・・・花火も月も上に輝いた。ゆっくり感がすらりと出た句だ。
 ・落蝉を掃き寄せ夏の煮崩れる ・・・掃き寄せるほどの数の蝉がいたのかな。夏が煮崩れるの表現に引かれた。
 ・蜩の美(は)しき極みの笑ひかな ・・・中七の表現に脱帽。蜩の声が笑いにまで昇華されている。準特選。
 ・十六夜や森の蜂の巣太りをり ・・・十六夜と蜂の巣の取合せ妙なり。


2012年9月14日金曜日

九月の十句・・・猫跨ぎ

今日も暑かった。夕方買い物に出るが、いつもの道の正面に高々と入道雲。いつも同じ景色だ。それが茜色に変わりつつある。明日も暑い、きっと。

・終戦忌柳行李に躓けり
・逝く夏や陸橋の下がらんどう
・この風の名前知りたし秋夕焼
・東洲斎写楽の寄り目葡萄酸し
・芒原へ猫振り返り振り返り
・蛸のぶつ切り人類は斯く生きて来し
・花火果て上弦月の下帰る
・落蝉を掃き寄せ夏の煮崩れる
・蜩の美(は)しき極みの笑ひかな
・十六夜や森の蜂の巣太りをり

2012年9月13日木曜日

九月仁句鑑賞・・・猫跨ぎ

・伝説になると暗示し夏尽きぬ
 今夏の出来事で伝説化するものはなにかと考える。漂流する政治、孤島を巡っての領有権争い、脱原発論議の高まり、この辺りかな。
・占領の記憶薄れて九月かな
 室蘭に上陸し道央目がけ国道を延々と走り行く進駐軍の車列。サングラスの兵士。駅前のダンスホールのジャズ。勿論、子供には禁断の場所であったが。
・葛の花名無しのごんべ甘噛みす
 昔の記憶かな。良い匂いのする葛の花。噛んだ?
・常陸よりなほ奥つ方いなびかり 
 まだ鎮まる気配もない。瀕死の巨大な蛸がオクビと汚穢をまき散らす。特選
・コッペパン何もつけずに秋の空
 給食でコッペパンが出たが、暫くしてサイコロ状のバターが付いた。長期欠席の級友のこちこちになったパンを何本も帰りに持たされた。先生は何を思ったのかな。食べ物を捨てるという発想は誰にもなかった時代だった。
・昨夜の雨瓦礫に滲みてちちろ鳴く
 こころはまだ片付かぬ被災地の瓦礫か。準特選
・漣やとんとんとんと月を切る
 とんとんとんがどうだろうか。そういう音のイメージはない方がと思うが。これは見方それぞれで。
・大仏の臍のあたりの野分かな
 野分に晒されるのは露仏で鎌倉の大仏さんか。でも臍は衣に隠れているようだ。函館の露仏かな。俳諧味。
・お代りの脱脂粉乳秋深し
 まずい代名詞で脱脂粉乳は語られるが、美味とは言わぬが、嫌いではなかったね。そう私もお代わりした。
・とんぼうやこの海峡渡れるの
 てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行ったという詩があったなあ。この時期、小動物に目が行くね。

言葉がない・・・・仁ちゃん句鑑賞・・・・逸徳

パーキンソン病か。 知ってはいたが、はっきりとご本人の口からうかがうと、うーん言葉がない。 ありきたりの言葉を発しても、そのうすっぺらさに自分で参ってしまい、結局何もいえなくなり、立ち往生する。言葉は無力だなあ。 すまん、われながら不細工だ。ただ、ただ一日一日を生きることを味わいつくして、過ごしていってほしいと願う。ホントにそう思う。 

しかし、ほっとするのは、仁ちゃんの俳句の世界だ。感性の世界が、豊かに、春の海みたいに広がっていることを感じ、はげまされます。しろうとが心に残った句を僭越ながら・・・

 伝説になると暗示し夏尽きぬ・・・ いや今年の夏はひどかった。 こちらでは「脳幹のとけ行くほどの暑さかな。」である。伝説になるだろう。
 占領の記憶薄れて九月かな・・・・ あの戦争、「戦中」を思い出すのか「敗戦」を思い出すのか、それとも「占領」を思い出すのか。 
敗戦が過ぎて占領になったことと、八月が九月になったことが何となくうまく重なっている。 おいらの記憶の最初は3歳の時におふくろの背中でみた静岡大空襲である。
 常陸よりなほ奥つ方いなびかり・・・・ 3.11を連想する。いなびかりの下、ひとの心の底にあるのは地底火山脈だ。 いなびかりの語感がすき。ガラスの破片のような緊迫感がある。
 コッペパン何もつけずに秋の空・・・・・ コッペパン、なつかしいなあ。最近のパン屋はフランス語だかイタリア語だかあふれていて、おじさんにはよくわからん。 
 昨夜の雨瓦礫に滲みてちちろ鳴く・・・・ 命のいとおしさ。そこにめをむける作者の目のあたたかさ。
 漣やとんとんとんと月を切る・・・・・ これいい。トントントンのリズムが漣にぴったり。 気が付いていて見ていなかった光景  特選
 大仏の臍のあたりの野分かな・・・・ ちと光景がうまくうかんでこない
 お代りの脱脂粉乳秋深し・・・・・ 脱脂粉乳ということばがわかる世代もへった。まずかったが、おかわりしたのだ。あれからずいぶん遠くまできた。今や宇宙は秋。もうすこしだ。雪はまだこない。
  とんぼうやこの海峡渡れるの・・・・やさしい。とんぼうと海峡、前句の瓦礫とちちろ。ちいさいいのちを扱うのがうまいなあ。組み合わせて準特選。

しかし、ことばは無力だなあ。無力を知っていることはいい。無力だからこそ、ひとは何かとつながりたくって、しぼりだすように言葉をはくのだろう。

2012年9月12日水曜日

函館通信186・・・特定疾病・・・仁兵衛

 パーキンソン病は難病の一つらしい。8月に診察を受けた時特定疾病の申請書を書いて出した。特別に症状が悪化したわけではないが医療費が減額されるのは結構なことだ。

 函館もやっと夏の暑さから開放され始めた。直ぐに寒くなるのだろう。泊原発が停止していたままの北電の計画停電は特に実行されぬまま電力は間に合った。しかし、北海道は冬の方が電力事情が厳しくなると予測されている。下着を一枚多く穿いて冬が乗り切れるのかこれから考え様と思っている。

 去年の暮から函館に三人の俳人がやって来て講演や句評会を開いていった。坪内稔典、池田澄子と宇多喜代子の三氏である。三者三様の俳句観を展開していったが同年代である坪内が一番自分には近いかなと感じた。今年の六月に出た坪内の「俳句の向こうに昭和が見える」を読み更に親近感が湧いた。近作十句。

  伝説になると暗示し夏尽きぬ
  占領の記憶薄れて九月かな
  葛の花名無しのごんべ甘噛みす
  常陸よりなほ奥つ方いなびかり
  コッペパン何もつけずに秋の空
  昨夜の雨瓦礫に滲みてちちろ鳴く
  漣やとんとんとんと月を切る
  大仏の臍のあたりの野分かな
  お代りの脱脂粉乳秋深し
  とんぼうやこの海峡渡れるの


 

難しい話はともかく・・・・褌子

  いじめ問題について、むつかしい話が続いているね。
  逸徳さんの語り口は氏独特なものがあり私などにはやや難しいところがあるし、私自身も静岡にでかけて氏の教育実践の場に臨んだこともない。
  が、私が(理科教師だった女房も)逸徳さんを理科教師として信頼するのは、教頭や校長という管理職には目もくれず、子供たちの側にいつもたとうとしているからだ。退職後も朝昼晩の酒を夜一回だけにしてまで子供たちのなかに飛びこんで科学少年団などに夢中になっているからだ。しかも先生馬鹿にならずに菊川九条の会でも活躍しているからだ。
  子供たちは本能的に教師がほんものかにせものか見分けるが、氏の場合は間違いなく合格ではないか。
  (というわけで、田沢湖芸術村まで逸徳さんの教え子に会いにいって、夜は乳頭温泉で小生の背中ボリボリかいてほしい)

2012年9月10日月曜日

そうそう・・・・逸徳

そうなんだろうなあ。 内向きの共同体、確かにそういうのはあるね。 そして、そういうのがどこにもはびこっている。日本全体がそんな感じだなあ。 だから、退職したとき、正直いってどこか、茫漠とした荒野、あるいは一種の異次元世界から辛うじて生還したという感じはあった。 よくまあ、おいらも変にならないでここまでもってくれたものだと・・・。いや少しは変になりかけていたのかもしれない。
 だから、まじめな若い先生と飲んだ時に、「教育の目的はなんだ」と問われて、「たったひとりでいい。たったひとりの革命家を育てることだ」といった覚えがある。 もちろん一種の比喩だが。その内向きの共同体をぶちこわしたかったんだろうなあ。
 教育というのは、きわめて個人的営為の側面があり、イメージ的には芸術家、または医者の治療行為にちかい。 だから、政治が教育を管理するのは、画家の筆先や医者のメスの操作を、画一的に管理しようというようなものだという、根本的な違和感がある。 あぁあ、政治が教育をいじりすぎたなあ。 今となっては、何をいってもしょうがないが。 

判らんなあ・・・猫跨ぎ

よく判らんなあ。現場を直接知らないからね。別に血刀引き抜いて校長室に乗り込めと言っているわけではないが。
  だけど、ふと思ったのは教師皆が皆圧迫を受けていると感じているんではあるまい。いや、案外今の状態が好ましく思っているのではないか。波風立たず、上に従って穏やかにいこうや、と。いじめ自殺でもあろうものなら、あ~あ、面倒なこと起こしてしまってと内心舌打ちしているのではないか。そういう内向きの共同体が実は出来ているのではないか。
  ところで貴兄の「単純にいえば、今の教師の状況は、社会の拡大、いや濃縮再生産になっているにすぎない。 そういうのを笑うのは、おいらから見ると「目くそ鼻くそを笑う」という気がするね。」が実は一番言いたいことなんだろう。要するに何処も同じだ。何で学校ばかり責められるんだ。まあ、その通りだね。

そういってもなあ・・・・逸徳

うーん ちと説明しにくいのは、ああいう管理社会の中で、生身の教師の肉声、信念、異議申し立てというやつがどういうことになるのか、なかなか現場のムードが理解されにくいのだろうと思う。異議申し立てや信念にもとずく行動がどういう扱いを受けるか。まず、よってたかって組織が一枚岩という「幻想」を固持するための同調圧力がかかる。それでもだめなら、うきあがらせる。「あんたは信念をもって立派だ」といって二階にあげ、梯子をはずす。たしかに異議をとなえて首にはならん。だが信念をもって同調圧力に抗して生きるというのを続けるのは日常的に続くと、くたびれはててしまう。ひとは信念だけでは生きられない面もあるのだ。
 信念がある教師という。だが、そういう人材はそもそも採用されにくくなっているのだ。そして採用された青年教師は先輩をみて、観察学習する。上にさからったらいかんということをすりこまれるのである。 教育委員会や文部省とは独立した民間の教育研究団体が、各教科や各指導分野にたくさんあり、そこには手弁当で熱心な「信念ある」教師がたくさん集まっていた。一時は、その規模は世界一であった。だが、現在その規模は激減している。最盛時の1/4ぐらいではないか。( 信念なんかもっていると校長になれないのだ。 校長になるということの意味については別途解説が必要であるが。) 当事者能力というが、そんなものはじめから教師にはなかったのである。あたえられなかったといってもいい。
このへんのところ外部からみたらわかりにくいだろうなあ。
アンケートににげこむのは、そういうやり方だと責任が問われないからだ。そんなことで解決しないことは、「信念ある」教師はみんな知っているのだと思う。別に一番いい結果を生むなんて思っていないだろうなあ。 
単純にいえば、今の教師の状況は、社会の拡大、いや濃縮再生産になっているにすぎない。 そういうのを笑うのは、おいらから見ると「目くそ鼻くそを笑う」という気がするね。

もちろん、信念ある教師はたくさんいる。孤立無援でたたかっていると思うのだが、いることはいる。間違いなくいる。願わくばそういう先生をちゃんと保護者がみぬき支えてやってほしいと思う。 おいらの教え子で町田で中学の教師をやっているのがいる。何年か前に彼と話した話題。「生徒に刺されるときは、右か左かどっちの腹を刺された方が助かる率が高いだろうか。」これ、まじめな議論の一部である。つまり、信念ある教師というのは今や命がけの話になっているのである。


いま流行るのも・・・猫跨ぎ

  いじめの報道を見ていて気付くのは、学校が表に出てこない。偶に出てくる校長が紋切り型の対応で「判りません」。そして、いま教育界ではやるもの、それは全校アンケート。この「客観的な数値」を出して、数値に何事か語らせ、自分たちは後ろへ隠れる。生身の教師の肉声、涙、喜怒哀楽が見えない。これを当事者能力の欠如と言うのだろう。
批判覚悟でそういう殻に閉じこもるのは、それが結局、一番良い結果を生むと判っているからだ。教師が管理されているから、いじめられているからというのは情けない言い訳だ。異議を唱えてクビになるわけでもあるまい。つまり教育に信念がないのだろう。どうして良いの判らないのだろう。それを正直に告白する勇気もない。これでは尊敬されない。

2012年9月9日日曜日

『戦争と平和』・・・褌子

  テレビで得意満面でしゃべりちらしている男は橋元でなく橋下ですね。
  大阪市長も東京都知事も本来の仕事を全くしてないそうだ。
  いかに過激なこと言って目立つかだけを考えている。やんやともてはやすマスコミが情けない。
  いま大阪と東京の教師たちが徹底していじめられている。知人の中学教師も精神がぼろぼろになって退職した。私も中学生の可愛い孫がいるので、死んだ蜂を食わせるほどのいじめをうけた大津事件のあとも愛知でも埼玉でも札幌でも中学生が命を絶ったと思うと辛くてしようがない。まさに大人のいじめ社会の反映だ。リストラで路頭に迷っているひとや親会社の倒産で金がもらえない末端下請け労務者の相談にのると心底そう思う。小泉竹中の新自由主義の構造改革でいっそうひどい格差社会になった。
  そういうきびしいことから逃避して読書三昧というわけでもないが、高橋克彦『火怨―北の燿星アテルイ』は面白かった。東北旅行で多賀城とは胆沢とかも行きたくなった。次は安倍氏や奥州藤原氏の興亡をえがいた『炎立つ―燃える北天』を読む。
  もっとも岩手出身の高橋克彦の文章は熱すぎて宙を飛んでいるところがある。お盆過ぎに読んだ吉村昭『間宮林蔵』のほうがはるかに何かが残った。何もたさず引きもしない吉村昭の語り口はじつにいい。
  BSで『戦争と平和』のソ連版四部作を一日かけてみた。30才のころ中耳炎手術で入院して病室にもちこんだ『アンナカレーニナ』も『戦争と平和』も面倒くさくなって途中で投げ出した。しかしこんど映画をみて大いに感動。女房は描き方があまりに悠長すぎると寝てしまったが、ロシアのあの大地というものはそういうものなのだ。ちょうど200年前の1812年、侵入するナポレオン軍にはじめてロシア軍が互角の死闘を演じたボロジノのたたかいの場面の箇所だけ、映画のあと本棚から『戦争と平和』第3巻をひっぱりだして読んでみた。やっぱり世界文学屈指の巨篇なんだなあ、もっともっと若いうちに夢中で読んでおけばとため息もつきながらしばしむさぼり読んだ。映画の終章の字幕は「悪人どもが結束してこの世界を抹殺しようとするなら、善人たちも結束して悪と闘えばいいのだ。単純なことなのだ。」というもの。ふーん…
夕方、クール宅急便で釧路から届いたばかりのサンマを焼いて食った。はらわたがうまい。
    

或るアンケート・・・猫跨ぎ

  ラジオを聴いていたら、異様なアンケート結果を伝えていた。現在の幸福度については、北欧諸国が軒並み高いが、日本はずっと下で、アジアの中でも低い方だった。ついで「先生を尊敬しますか」については、各国の国民は概ね90%以上「イエス」。日本だけが極端に低く50%を切っている。生活レベル、治安、保健衛生どれをとっても日本は世界の最高水準だと思う。平均寿命の高さが何よりの証拠だ。日本の教師の教育能力は多分世界でもトップクラス(褒めすぎか)だろう。何故こんなにも低いのか。
  ということは、幸福度とか教師を尊敬するとかを決めるのは、こういう項目とは別次元のことなのだろう。ちょっと考えても明日は今日より悪くなると言う黄昏れ感がとにかく強い。不安心理が根底にある。まず指摘されるのは、政治が機能不全を起こしている。衆参ねじれのため(だけではないが)何でも政局化してしまい何事も決まらない異常な状態が続いている。かといって明確なビジョンを誰も打ち出せない。橋元維新の会の異常な人気のみ目立ち、既成の政党、政治家が明日の己の安泰のため橋元にすり寄っていく様は醜悪というしかない。政党のリーダーを選ぶ時期になったが、自民党などは事前の顔ぶれがそのまま俺が俺がと譲らず乱立のさまだ。自党を纏められないで国をリードできるのか。政党も溶解しつつある。政治家を尊敬するかを調べたら、最低にランクされること間違いなしだ。政治の状況は日本全体を表象しているような気がする。
  橋元は文楽を一度見て、こりゃ駄目だと言ったという。伝統芸能をこんな若造に生殺与奪を任せて良い訳もないが、みな黙りこくっている。もっともこの稀代のトリックスターも今がピークでその内に急速に消えてゆくだろうが。
共通して言えるのは、この国全体に、流砂現象が起きているのではないか。信頼できるものは何もない。規範がない。崇高なものは冷笑の対象だ。先進国の文明の大変化を先取りしているのかも知れない。これは褒めすぎか。

2012年9月8日土曜日

なかなか気温がさがらない・・・・逸徳

おひさ。 うちは太陽熱温水器をっけているんだけれど、最近は次の日の朝でもチンチンに熱いお湯が出る。洗濯物は12時までにかわくし・・・。変な天気ですなあ。
談論風発で。おいらも参戦を。いじめについて。 本質的にはいじめは、加害者側に問題があると思っている。自分の屈折した感情や、解決できないストレスを、目前のスケープゴートにぶつけているのである。つまり弱い。そして、これお師匠のいうように、間違いなく大人社会の反映だろうなあ。 つまりいじめのモデルは周辺にいくらでもうずまいているのであり、子供たちは単にチンパンジーだってやる観察学習をしているにすぎない。
ひとつの即時的対応。学校にいかないことだ。 あれは命がけでいくような場所ではない。休んでいいよといってやることが第一歩だと思う。
 関連して、教師の非行について。実はずっと前から気になっていることばがある。たしかデュルケムではないかと思うのだが、まだ確認できていない。それは「人間は誇りをうばわれると破廉恥になる」という言葉である。 プライドを傷つけられると人は攻撃的になり、プライドをすてると破廉恥になるというのだ。 確か暴走族の心理研究かなにかの論文で、このことばにであったと思う。 ほんとにそうだよなあ。 破廉恥な行動が人間的プライドと共存できるわけがないのである。 
そして、今までの教育行政の歴史は、とことん教師を管理されるロボットとしてあつかおうとした歴史であつた。それは今もなお加速しているのである。したがって教師のプライドは日常的にずたずたにされつづけているのである。だから、おいらからみていると教師に非行がでるのは当然の帰結ではないか。 まだまだ非行は増えるだろうという気がする。 特に大阪は増えるぞ。どうする橋下さん。

さそわれて敦賀にいってきた。日本科学者会議の福島問題のシンポジウムに参加するためである。マスコミが取り上げないような問題をたくさん聞いた。いや、実に今のマスコミは一部しか伝えていないなあ。それを痛感した。そして福島の問題が顕在化していくのはこれからだろう。そういう中で、新聞を一紙だけ読むのは危険だと鋭く指摘した人がいたなあ。古い記憶だが、この言葉、学生のころのお師匠ではなかったかなあ。
 で、そのあと1泊だけ金沢に回った。実は偶然にも今まで金沢はいったことがなかったのである。21世紀美術館とともに民芸工芸関係をみてまわったのだが、加賀友禅に感動した。加賀友禅と京友禅の違いに、金沢の気候と光がからんでいるというのである。ならべてみるとそれがよくわかった。 今度は能登の輪島塗を訪ねてみたい。

2012年9月4日火曜日

マスコミといじめ・・・猫跨ぎ

  滝川の事件はちょっと覚えていない。マスコミの癖として、悪者を作り、それを血祭りにあげるのは常道だ。もう枚挙に暇がない。社会的に上であればある程よい。引きずり下ろす快感を大衆に提供する。今思い出したのは、雪印食中毒事件。社長のインタビューで「俺も疲れているんだよ」の数秒の画面が繰り返し報道され、雪印けしからんの大合唱となった。このインタビューは、雪印に居た井筒君の話では、二十分にわたったものだった。対策とか事故対応を色々言っていたのに、それは全く報道されていない。
しかしこういう側面もある。大衆がそれを望んでいるからだ。マスコミの下品さは大衆の下品さの反映だと思う。そういう記事が売れるのだろう。
  いじめは古今東西あるのだろう。いずれも大人の社会の反映だろうね。我々の子供の頃は、相対的に少なかったし、単純だった様に思う。地域社会がそれなりにしっかりしていたし人と人の触れ合いはもっと濃厚だったからではないか。弱い者いじめは少なかった。遠足で身体の弱い子を、誰が言うともなく手を貸したように思う。
今のいじめの陰湿さ、しつこさ、複雑さは、地域社会の崩壊とか、先への不安とか、大人社会がしっかりしていない反映だと思うね。大人の苛立ち、不安感、孤立感、そんなあれこれが、子供社会に反映しているのではないか。

パラリンピック(その3)・・・国兼

   イギリスでのパラリンピックの入場式をテレビで観ていたら、例のブラックホールやビッグバンにからむ宇宙論のホーキング博士が車椅子で登場してきて驚いた次第。元気なのだと・・・・。理化学辞典で調べてみると、1942年生まれで、私と同じ年である。彼は若い時からパーキンソン病的病に侵され、その中で独創的な宇宙論を体系づけた科学者で、ある意味ではアインシュタインを上回っているのではと思う。ノーベル賞をもらっていないのが不思議な気がする。ホーキング博士を見ながら、フト我が仁兵衛さんを思い出したりした・・・・。
 皆さんに応援を頼んだ女子柔道52kgクラスで出場した半谷静香さんが、1回戦で中国の選手に敗れ、敗者復活戦でも敗れてしまった。残念ではあるが、聞くところによると4年後を目指した「激励会」をささやかに行うとのこと。勝った勝ったと拳を上げるのもよし、負けて悔し涙を流し再起を期すのもスポーツマンらしくて好きである。

 話代わるが、猫跨ぎさんの言う「いじめ」のこと、もう6,7年前だったか、わが故郷滝川市が全国版のニュースになったことがある。なんと「いじめ」問題で。その時の教育委員長が小、中、高校時代の私の友達だった女性の旦那である。古くから滝川でお茶屋をやっていた3代目で、その代々の誠実さが買われ、町の名誉職として引き受けたのであろう。それがテレビで土下座させられるシーンを全国に流されてしまった。そのために、ひっきりなしに電話がかかり、町の名誉を汚したというたぐいの中傷、罵倒されたらしい。そのせいだと思っているが、私の友達は体調を損ない病に伏せてしまった。
 スケープゴートという言葉があるが、このジャーナリストたちの正義ずらした、マイクとカメラを持って執拗に善良な平凡だった1市民を追いかけるハイエナのような奴らに唾をかけたい気持である。彼らが執拗に追うべきことは、現在の全国的に蔓延し始めたこの度を越した「いじめ」の背景であり、家庭の親たち、教師たち、そしてこのゆがんだ日本の社会全体であり、またジャーナリスト自らの堕落を追求すべきであろう。

2012年9月3日月曜日

今朝のアレ?・・・猫跨ぎ

今朝のアレ?!を追加しよう。
大津の中学生いじめ自殺問題で、加害者の少年の警察による取り調べがはじまったという。彼等の両親が「あれはいじめではない。単なる遊びだった」と強力に主張しているという。え?これは言い訳にも何にもならんぞと思った。
  自分の子供の頃の(多分5年生くらいか)記憶だが、実はいじめに荷担したことが一度だけある。たまたま行き合わして成り行きでいじめに加わってしまった。その子は泣きながら帰って行ったが、直後、実に嫌な気がして、こんなことは二度とすまいと思った。言いたいのはそのことではなく、いじめている最中の妙な気持ちよさ、昂揚感だ。いたぶっている時の快感というか。それをはっきり覚えている。いじめている側は、まさにこれは単なる遊びなんだ。この弱者をいたぶる快感は本能に近いと思う。思うに子供はまだ「人間」でない。いろいろ陶冶されて、まともになる。時には体罰も必要だろう。その視点がなくて、法律の刑事罰の対象かどうかになっている。それはおかしい。

2012年9月2日日曜日

最近のアレ?・・・猫跨ぎ

  最近の報道でアレと思ったこと。ちょっと旧聞になるが、札幌で白菜の浅漬による食中毒事件があった。腸管性出血性大腸菌O-157によるもので、死者もでた。生肉を使ったユッケで死者を出したのは、たしか腸管性出血性大腸菌O-111。どちらも病原性の強い大腸菌の変種だろう。ユッケは分かるが、白菜の浅漬とは。漬ける前の白菜の洗浄が不十分だったと言うことらしいが、こんなことで死者が出るとはなあ。
  それからたしか渋谷の公園だったと思うが、雷がクスノキに落ちて、傍を歩いていた女性がとばっちりで亡くなったという。そのクスノキの写真が出ていたが、中程度のそれ程の高木でもない。また孤立樹でもなく、適度にばらけて植わっているなかの一本。樹皮が縦にべろりと剥がれている。まさか、こんなところを歩いていて落雷にあうとは。何処に危険があるかわかったものでない。

2012年8月30日木曜日

RE:古代史    ・・・褌子

    古事記は福永武彦『現代語訳 古事記』(河出文庫)で読んだだけだが、女性がたしかに活躍している。母系制社会の名残。
  国生みの順番が面白い。一番が淡路島、二番が四国、三番が隠岐、四番が九州、五番が壱岐、六番が対馬、七番が佐渡、最後が大倭豊秋津島(おおやまととよあきづしま)で五穀のゆたかに実る島の意で本州である。イザナギ、イザナミのご夫婦がはじめに生んだ島々なので大八島国(おおやしまくに)と呼ぶんだそうだ。大倭豊秋津島の地の果てが道の奥で、北海道はむろん視界にはいってもいない。
  この順番に深い意味があるのかないのか。小さく産んで、最後に大きく生んだだけかな。堂々と佐度島(さどのしま)が入っていてよかった。竹の島と尖の閣島もついでに生んでくれていたらもっと良かったのだが。

古代史・・・猫跨ぎ

  一昨日、昨日と朝日カルチャーの「古事記を読む」の講座を聴講してきた。講師は三浦佑之氏。古事記全訳とか古事記がらみの著書多数。いま一番の売れっ子かな。去年も同氏の出雲神話の講座があった。著作を読むほか、たまに面と向かって話を聞くと面白い。直接質問もできるし。今回はいわゆる人間の誕生を語る神話としての古事記。そしてとくに登場する女性の活躍。いずれも教えられるところが多かった。
南方から海流に乗ってこの列島に伝えられる壮大な文明の流れがあった。
  ふと、尖閣、竹島のことを思う。岩礁のような小島のことなど先人は眼中になかった。古い記録を血眼になって捜したってまともなものがあるわけもない。国境を引き、寸土を争う現代のこの国家というありようが何とも異様に思われる。古代史を学ぶ効用の一つ。

初秋の読書・・・褌子

   夏ばて解消に京都の涼しい山奥にいったつもりだったが、炎天下の嵐山界隈も歩いてしまいかえって疲れてしまった。帰ってからも朝の散歩をさぼっている。(貴船で食った川床料理はうまかったなあ。が値段が高かすぎた後悔している)
  お盆から読んだ本はもっぱら松本清張。『数の風景』計算狂(ニュメロマニア)の話しがでてくる。ブルックナーやバッハも一種の計算狂だったらしい。『黒い空』足利幕府あとの関東管領の古い話しがえんえんでてきて、それが現代の殺人とどういう関係があるのか…気をもたせる。清張という人はどうしてこんな突拍子もないことを思いつくのか。『溺れ谷』政財界の腐敗のはなし。昭和41年発表というから大学卒業のころだ。『天城越え』(『黒い画集』のひとつ。田中裕子で映画になった)田村隆一『インド酔行記』いい詩人だがすごい酒飲み。インドを肴に酒の飲みっぷりがいい。
  いま読み始めたのは吉村昭『間宮林蔵』 
  ほろほろ会の東北旅行や逸徳さんとの田沢湖芸術村探訪に備えて買ってきた本が高橋克彦『火怨――北の燿星アテルイ』  古代の東北史に思いをはせて楽しい旅にでたい。著者は岩手県のひと。

2012年8月27日月曜日

麿は苦しうない?・・・褌子

     朝の散歩は京都は嵐山の渡月橋を渡って法輪寺にゆく。境内に電電宮という小さな神社があった。電気や電波の神様だという。松下電器を先頭にテレビ各社や電力各社の奉賛碑がたっている。東電やシャープも応分の寄付をして名前を連ねているがあまり御利益がなかったことになる。保津川べりを歩いて5時33分に比叡山から昇ってくる朝日を渡月橋のうえでみて思わず合掌。
   暑い一日がはじまった。
   清張『溺れ谷』の舞台にもなった竹の寺こと地蔵院を訪ねる。
   おじいさんの門番以外誰もいない。奥まった座敷にあがったが障子を開け放してあり畳に寝転んで庭を眺めた。美しい竹林を背景に株立ちの侘助の古木が枝をくねらせている。ふと右をみると壁に「竹 幹は直し陰は清し」と色紙がはってある。左をみると、「ここで横にならないで下さい」と張り紙がしてあり、あわてて起き上がった。
  鈴虫寺はとばして松尾大社に向かう途中で月読神社という小さな社が目にとまった。
  月読神はもと壱岐の国の海神なりと鳥居わきにある。出は朝鮮系の神だが渡来族の泰氏によってこの地に遷宮されたとある。東北アジア古代文化研究会の会長として迂闊にも月読神のことを知らずに古稀を迎えてしまったことを恥じた。先日、諏訪の神長官守矢史料館を訪ねたときにも諏訪族もまた安曇族とおなじく海の民であることを知って己の無知を羞じたものだ。今でこそ、竹島だの尖閣だのと喧しいが元来、古代の人びとは大らかに行ったり来たりしていたのだ。
  酒の神、松尾大社の本殿脇に数百も並んでいる全国の銘酒の四斗樽を眺めていると、しだいに髪薄き脳天を直撃する古都の残暑にぼーっとしてきた。
  タクシーで保津川脇の時雨会館という小倉百人一首の記念館に飛び込む。冷房がよくきいていて命びろい。藤原定家はこの小倉にて百人一首を選句した。写真は、平安貴族の狩衣姿に身をつつんだ堂々たる公達ぶりの愚生である。時雨会館の京美人のおばちゃんがかいがいしく着付けてくれたもの。

京北の火祭り・・・・褌子

  京都府の北部には火祭りの風習を残している集落がいまもある。
  白洲正子『隠れ里』によれば日本でもこの地方だけらしい。花脊や広河原村の火祭りは「松上げ」といって、20数㍍の松の木の太い柱の上の漏斗状に開いた松明に、火のついた松明を投げあげて点火を競うというものである。
  
  京都市内でレンタカーを借りて女房と貴船や鞍馬山に登ったあと、山中をえんえん二時間も走って、広河原部落に到着した。昼なお暗いこんな山里が町村合併で京都市左京区に編入されているときいて驚く。始まりは午後8時くらいというので、大悲山峰定寺の懸崖作りをみようと杖をついて蝉時雨のなかを登った。懸崖の四方に張りだした回廊の板敷きからみおろすと目と鼻のさきに数十㍍も真っすぐに伸びた北山杉のてっぺんがある。奥丹後の峰峰を眺めながら火祭りに備えてしばし山の上の重要文化財の回廊でうたたねをした。
  六時頃から場所取りをする。山峡の川原の三角州の火祭り会場のまわりは数百人がすでに集まっている。
  だんだん暗くなってきた。ふきんにぽつんぽつんと点在する茅葺き農家の玄関には献灯が灯され親戚が集まって年一度のお祭りのごちそうをたべている様子がみえる。夕闇せまる村の集会場では老婆たちが御詠歌をうたいながら鈴をならしている。7時過ぎまで西の山々にはわずかに残照が残っていたが8時となればとっぷりと暮れて星がまたたく。月もでている。
  突然、松明をもった法被姿の村人たちがあらわれた。一面の野原にたててある松明に火をつけてまわっている。闇の中全体が火の海になってやがて下火になるころ、ついに松上げ行事が始まった。
  火のついた松明を縄でくるくる回して投げあげるがなかなか漏斗に入らない。入りかけるとどっと歓声が闇の中からおきる。小一時間もして遂に松の柱のてっぺんに火がついた。とたんに狂ったように太鼓と鉦がうちならされた。たちまち柱全体が燃えだした。一本の巨大な紅蓮の炎と化して燃えさかった巨木が終にどうっと倒れて天まで火の粉をまきあげた。一瞬だけ観客の顔まで赤々と照らした。火祭りが終わった。山里の奇祭というしかない。また辺り一面が闇につつまれた。
      火祭の果てて激しき火の粉かな

2012年8月21日火曜日

re:さざなみ・・・褌子

   福田平八郎の「さざなみ」いい絵だなあ。
  小波、細波、漣、どれをとっても日本語はいい。英語ではwimple、riffle、ripple、ruffle、waveletなどだが、漣にはとてもかなわない。稲穂がさざなみのごとく揺れている。稲刈りもぼちぼちはじまった。
   『芸術新潮』にむかし連載された白洲正子の『隠れ里』を読んでいるが、京の北のほう、信貴山や鞍馬から入ってずっとずっと奥のほう丹後の峰峰に埋もれている晩夏の隠れ寺をたずねて三日間ばかりとぼとぼ歩いてくることにした。仕事のし過ぎ酒の飲み過ぎ朝の散歩し過ぎ庭の草とりし過ぎ推理小説読み過ぎによる夏ばて解消だ。山の湖のさざなみをみて山寺の精進料理と般若湯で俳句がひとつくらい出来るといいが。
  

さざなみ・・・猫跨ぎ

先日、福田平八郎の「雨」の話がでたが、山種の展覧会は前期後期に分かれていて、私の行った日は「雨」は残念ながら掛かっていなかった。その代わりあったのがこの「漣(さざなみ)」。これも代表作の一つで、短い曲線の集合で見事に水の動きを表現している。「雨」もそうだが、日本画にいわゆるデザインの感覚を取り入れたといえるだろう。斬新で洒落ている。

  さてシャープの凋落は目を覆うばかりだ。生きんが為に切り売りを始めたかにみえる。亀山モデルで肩で風を切っていたのはつい昨日ではないか。大会社があっという間に窮地に立たされる。電子産業といえば、単品事業ではもうだめなのか。日立とか東芝、三菱電機あたりは結構そこそこやっている。産業システムの事業に転換したからだという。IBMはパソコン事業を中国に売って、事業をコンピューターシステム販売に転換してしまった。
日産自動車は一時、山一の二の舞かと騒がれたが、ルノーの傘下に入り、ゴーンの徹底的な合理化で息を吹き返した。事業はスケールでなくスタンダードだという。シャープも必死に回帰する事を期待したいものだ。事業モデルをどうするのかだ。
  経営者に大物がいなくなったなあ。松下、井深、盛田、本田、土光、戦後の物作りを指導した経営者を直ぐ思い浮かべる。皆個性豊かで頑固者ぞろい。いまは誰だ?名前が浮かばない。みんな文科系の官僚タイプの小物のような気がする。人でも日本は負けたんだ。
  アップルが最初にiPodという音楽機器を売り出したとき、なぜソニーがやらなかったのかねといったものだ。それがあれよあれよと言う間に進化をとげ、iPhoneのような巨大な化け物に成長してしまった。S.ジョブスという人の頭に最初からこのコンセプトがあったに違いない。ソニーには無かった。単純にその差だろう。使われている技術は皆既存のものだ。コンセプト作りでも負けた。音楽配信事業はソニーは先鞭をつけたはずなのに、アップルに完全に凌駕された。
バブル崩壊で皆保守的になったな。冒険心が萎えて官僚的小物ばかりが指導層になり、なんでもこわごわだ。
あと、円高。これがよく分からん。輸出産業の凋落のかなりがこのためと言っていいんだろう。明らかに実力以上の円高。インフレ目標を立てて通貨供給を増やせという声が強いが、日銀、財務省は容易に踏み切らない。とにかくインフレの暴発が怖い。いかにも官僚的小物の政策。まあ、年金受給者としては今の方がいいか・・・。これは冗談。

標準理論、完結の始まりか?    ・・・褌子

  国兼氏によれば 『Science』で発表されたヒ素生物という夢ある論文が実験上の誤りであったことがたった2年で証明されたという。国兼博士によって証明されたのなら快哉を叫ぶのだが。
  ヒッグス粒子のほうは昨年夏ごろから発見の兆しがみえはじめ、年末には99・8%の確信にかわり、先月7月にヒッグス粒子発見は99・99998%確定したというからもう大丈夫だろう。ところが、発見された新粒子のふるまいが、素粒子物理学の現在時点での理論体系である「標準理論」が予測するヒッグス粒子と一致しているというものであって、完全にヒッグス粒子にまちがいなしと「断定するにはさらなるデータ」が必要だと、CERNなどの実験チームがいっているのだそうだ。
  そうすると現段階では発見された新粒子がヒッグス粒子でない可能性も0・00002%あることになる。だとすると「標準理論」を超える新しい物理法則がもとめられることになる。現に日本のカミオカンデで明らかになったニュートリノの質量も「標準理論」ではまだ説明がつかないし、自然界にある四種類の力のうち、重力は「標準理論」の枠組みに取り込まれてはいないというではないか。
   東大素粒子物理国際研究センターの小林富雄教授は「1970年代に枠組みだけができた標準理論が40年かけて遂に完結するかどうかという終わりの始まりだ。今回の新粒子の発見で“どこにあるかわからなかったドアのノブ”をやっと見つけた」と興奮気味に語っている。「ただ不思議に思うのは、もし新粒子がヒッグス粒子だとすれば、なぜ万物がこの質量なのかということ。質量の起源について疑問がいっそうわいてくる…」
   こちとらも質量の起源について疑問がいっそうわいてくる。毎朝一時間歩いても体重がなぜ69キロのまんまなのかと…

2012年8月20日月曜日

パラリンピック(その2)・・・国兼

  本日の朝日新聞の夕刊を見て驚いた。先日このホームページに書いた女子柔道52Kgの代表になった半谷静香さんと小川直也氏の写真が大きく取り上げられている。
今日、ロンドンオリンピックでメダルを取った選手たちの銀座パレードのテレビが放映されていたが、パラリンピックの際にもそうしてほしいものだ。
 昨今の日本の国内政治や外交を見ていると涙が出てくる。10年ほど前まで日本の貿易を支えてきた家電メーカーや精密メーカーが塗炭の苦しみにあえいでいるというのに…。日本沈没の危機だというのに、何だろうと、この危機感の欠如は?オリンピックの最中は新聞の第一面にはオリンピックの記事が大きく出、愚かな記事を見なくてホッとした。パラリンピックの期間中にもそうありたいものである。

 話変わって、1か月ほど前に2年前サイエンスで発表され、話題を集めたヒ素生物の論文が実験上の過ちであるという2編の論文が掲載された。最初発表された論文では培養された培地の中に痕跡のカルシウム塩が存在していたようである。他の研究所での更なる精緻な追跡実験では、ヒ素のみでは生きられないと。DNAにもRNAにもヒ素が組み込まれてはいないと。痕跡のカルシウムが存在すると、この微生物はそれをかき集める特異な能力があるらしい。
 地球型惑星の中には、地球と異なる元素成分の環境のもとで地球の生物と全く異なる元素からなる生物が存在するのではという夢のある論文だったが残念である。

2012年8月18日土曜日

秋の旅行第弐案・・・・褌子

   逸徳さん。堂々たるななじゅうですか。おもえば山こえ野こえ艱難辛苦、人生はじめての初古稀の高みにすっくと立った。オリンピックのメダリストなんぞこの偉業の前には赤ん坊みたいなもんだ。悔しかったらまねしてみろ!ってんだ。明晩は親戚町会あつめて菊川地区会館で日の丸君が代で祝賀会ですね。ぼくも12月には何とか追いつきます。
  秋の旅行は田沢湖芸術村で地ビールいいねえ。田沢湖は深いぞ。湖底に沈んだら千年も万年もあがってきません。孤独な愁いに沈潜した寡黙な逸徳さんのような湖です。田沢湖の秋はすばらしい。秋田駒ヶ岳が湖面にくっきり。秘湯乳頭温泉の露天風呂がたまらん。五百円で一同輪になって背中を流し合いましょうね。湯治場で地元のおばちゃんたち持参のお米をわけてもらいキュウリに味噌つけて乾杯。そして・・・ああ夢がふくらむなあ。
   ところで国兼さん。小林さん。陸前高田、遠野から田沢湖はちょいと離れすぎだと思いませんか。いっきょに盛岡に集合し、小林さんの御運転、越野さんの俳句ひねりながらの道案内で秀峰岩手山を右にみながら麓の木賃宿に一泊、安宿だが酒だけは秋田の特級酒。お燗はつけたい。人肌ぐらいに。あとは塩辛とハタハタじゅっと焼いて地鶏のやきとりで十分。おかみさんは別に南部美人でなくてもかまわない。翌朝は早起きで一時間の散歩。生卵にのりと納豆で腹ごしらえ。そのあと雫石の紅葉みながらトンネルと悪路をこえて陸中から羽後へ。田沢湖芸術村で「遠野物語」見学。小林運転手をのぞいて「田沢湖ビール」を痛飲試飲。角館の割烹旅館で二泊目。むろん逸徳さん好み秋田小町一目惚れの女将さんがいらっしゃる旅館だ。逸徳さん、東北復興祈願の下見しっかり頼みます。

ごぶさた・・・逸徳

秋の旅行いいですね。楽しみです。で、ご存じの方はご存じかと思いますが、劇団わらび座というのが、秋田の田沢湖のちかくに「田沢湖芸術村」という本部施設を持っています。そこは温泉 ビールレストラン 劇場などの集合体なのですが、そこの劇場で「遠野物語」という歌舞劇の新作がはじまました。実は教え子がわらび座におり、その関係で9月はじめにその舞台を見にいってこようかと考えています。 わらび座は、創立から日本の民族芸能を主体にしており、面白い舞台になりそうです。ついでにいうと併設のビールレストランの地ビール「田沢湖ビール」は、数年前ドイツの世界ビールコンクールで一位になったらしく、これ1000円で飲み放題ですよ、褌子さん。 また報告しますが、興味を持った方どなたでもごいっしょにいかがですか。

追伸 あしたで70ですよ。古希・・・・信じられん

秋の旅行について・・・・褌子

   光陰矢のごとし早起きして1時間も散歩するようになってからはやいものでかれこれもう三週間にもなってしまった(笑い)
   霊験あらたかというか卓効があり、身体のふらつきがぴたりととまった。そこでMRI検査は金がもったいないので中止することにした。
   先日、上野で一杯飲んで、秋の旅行の日程を10月23~25日(火~木)と決めた。
   方向は東北方面。国兼さんは陸前高田の津波に耐えた一本松をみたいという。小林さんは遠野にご関心がありそうだ。
   ということは仙台あたりに集合し、レンターカーを借りて小林さんの運転で、被災地もみながら北上し、ひなびた温泉で東北復興・内需拡大に大いに散財して盛岡あたりにたどり着いてレンターカーを乗り捨てて帰ってくるというコースになろうか。
   小林さん、ぜひコースの選定をお願い申しあげます。国兼さん宿泊する旅館選びを昨年の山形旅行につづいてお願いします。朝の散歩でいま身体をきたえているので、エレベータのない旅館でもぜんぜんかまいません。今回は小蔵ひでをさんが会社創立90周年の祝賀行事のために欠席とのことなので、厠もポットン式でも私は可。いそがしいひとに無理なことお願いして申し訳ありませんが、よろしくお願いします。逸徳さんは参加するのかな? メールで問い合わせてみます。

2012年8月17日金曜日

土田麦僊といっても知らんひとも多かろうが   ・・・褌子

    福田平八郎の「雨」は山種美術館所蔵でしたか。どこでみたか忘れていたが印象深い作品だ。山種は日本画の名品を多数所蔵するが春夏秋冬で所蔵作品の展示をかえる。わたしが山種美術館はじめ東京国立近代美術館などにたまに足を運ぶのは土田麦僊(つちだばくせん)の「大原女」や「舞妓林泉」(下の絵)などをみたいからだ。「黄蜀葵 (とろろあおい)」には島根の足立美術館でであった。
  土田麦僊の生家は佐渡島の新穂村大字井内でわたしの実家のすぐ近所だから麦僊には特別な思いがある。
  麦僊は明治20年生まれで本名を土田金二といった。わたしが小学生くらいのころ、明治27年生まれの親父が「土田さんとこの金二さんが京都でえらい絵描きになったらしい」といっていたのをおぼえている。親父がそんなことをつぶやいていたとっくのむかしの昭和11年に麦僊は亡くなっていたのだが。
  わたしは新穂中学時代は美術部だったが、美術の先生が村出身の麦僊の話しをしてくれた記憶がない。とうじ、放浪の画家山下清(母親が佐渡出身)が有名になっていて、中学時代のわたしは麦僊と山下清をごっちゃにしていたから今から思うと笑い話だ。
  じつはわが家に麦僊幼年期の絵があった。半紙に牛若丸と弁慶が京の五条の橋の上でたたかっている墨絵で、絵がうまいと評判だった近所の金二少年からまだ尋常小学校はいりたてくらいの親父がもらってきたのだそうだ。いちど親父からみせてもらったことがあるが、この墨絵も親父が村の誰かにあげてしまった。10年くらい前に、帰郷したおり佐渡博物館にいったら麦僊の素描などがたくさん展示してあり、すみっこに幼年期作の弁慶牛若丸の絵があったから、これがひょっとするとうちにあったのかもしれんなあとしげしげと見入ったものだ。
  私が佐渡の高校生のとき、美術の伊藤先生が「新穂村から土田麦僊という京都の舞妓さんを描いたら日本一といわれた画家がでている。弟も土田杏村といって哲学者になっている」と話してくれたことがある。昭和34年に佐渡博物館で麦僊の作品を東京や京都の美術館から借りてきて大規模な麦僊展をやったところ島内外から一万六千人もの入館者でにぎわい、佐渡の島人もはじめて佐渡島出身の日本画の大家がいたことを知ることになった。
  明治以降に佐渡の生んだ人物といえば北一輝と土田麦僊が双璧だろうが、麦僊は日本が中国侵略戦争へと転がり落ちていく契機となった二・二六事件がおきた昭和11年に49才で亡くなり、四つ年上の北一輝は翌昭和12年に刑死している。二・二六事件で国賊あつかいされたせいもあって戦後ながいこと北一輝のことを佐渡のひとは口にしたがらなかったし、土田麦僊もごく少数の知る人ぞ知る存在だったようだ。麦僊、杏村兄弟の母校の新穂小学校校庭に「土田麦僊土田杏村記念碑」ができるのが昭和40年である。  
  長い戦争がやっとすんでも親たちは子供たちに食わせるのに精一杯で、そんなことに関心をもつ余裕などまったくなかったというのが本当のところだったのだろう。
  

四囲波高し・・・猫跨ぎ

  北方領土、竹島、尖閣と立て続けに問題が起きている。東日本大震災で弱っているところに、更に政権の弱体ぶりに付け込んでと言えなくもない。国力のせめぎ合いで、弱いところの綻びを突く。
  終戦時にスターリンは北から日本領土を窺った。北海道の半分の割譲を希望したのは歴史的事実だがアメリカのプレゼンスがもし弱ければ、丸ごと呑み込んだのかもね。
そして韓国はいち早く体制を整えて、対馬と竹島の領有を主張した。アメリカは相手にしなかったが、勝手に李承晩ラインを引き日本が手足を縛られて居るときに竹島を取り込んでしまった。
  尖閣はもっと根深い。70年代に海底資源が見つかって急に領有を言い出したというがどうもそうではない。以前からグレーゾーンだった。大戦末期にアメリカは多大の犠牲をはらって沖縄を攻め落とした。中国としてはその時点で手を出すわけにいかない。今も日本の背後のアメリカを見ながら行動している。佐藤内閣の時代、沖縄の日本への施政権返還の時、中国はこちらにも権利があると言ったことを覚えている。琉球は歴史的に長く中国に朝貢していたからだ。彼等の尖閣への主張はかなり本気と見ていい。
  アメリカの高官が今度の事態に対し日本を支持するといいつつ、両国でよく話し合えと言っている。ここが臭い。もし軍事的に日中衝突の危険が現実になったら、アメリカは中に入って尖閣諸島を国際管理下におこうと提案するかも知れない。これは日本にとって明らかにマイナスだ。慎太郎は余計なことをしたものだ。本質を剥き出しにした。
  しかし、かくなる上は突っ張るしかないか。帝国主義の雰囲気がただよう。そういえば、中国、韓国はまだ建国六十年。国力が地に足が着いて、相手構わずに自己主張をするという段階を迎えたのかも知れない。勿論、潜在的にかって日本帝国主義に蹂躙された怨念があるのは間違いない。